【1984年】

 

「言い訳通らぬ退職金未払い」(84.3.8・朝日新聞「声」)


 福島交通不動産(小針暦二社長)に50億円もの使途不明金があることが明らかになったと本紙で報道されたが、許せないのは会社経営が苦しいととの理由で従業員に対して退職金が支払われていないことである。もちろん脱税は悪いが、この方も大きな問題で、労務債は一番優先されなければならないはずである。ろくに資産のない我々サラリ-マンは、毎月の給料を頼りに生活しているのである。社長に資産ができたのは社員たちの協力があったことを忘れてはなるまい。
 社長が政治家のだれと交際があろうと、それは自由である。しかし、自分だけがいい思いをし、弱いものいじめをするようなことは許すわけにはいかない。
 我々は税金をサラリ-から天引きされ、間違いなく支払っている。しかし、小針社長のような大金持ちがなぜに脱税をしなくてはならないのか。正直者や弱者がバカをみないように、国税当局の徹底的な追及を期待する。たとえそれに政治家が絡んでいようとも・・・・・・・・・・。 

 

【1985年】

                
「NTVのスト報道に抗議」
        ・・・勝手な”解決”断定は世論操作に・・・
(85.5.7・「社会新報」)


 私は私鉄の一労働者で労組の末端の役員をしております。先日の4月11日のストライキに備えて、私は仲間とともに前日から一睡もせずに事態の推移を見守っていました。  午前1時半過ぎに組合本部から「3時から中闘委を開催する」という情報が入りました。つまり、ここで組合側は会社提案の諾否の検討をする訳です。
 ところが、日本テレビは次のように報道しました。
 ①(1時35分) ストは中止されることになりました。
 ②(2時) 3時30分にスト中止指令が出ます。今日の私鉄は走ります。
 われわえは組織の一員として、マスコミよりも自らの指令、情報を信じる者ですが、一応、私鉄総連へ確認のうえ、私は日本テレビへ抗議しました。
 私は、当事者が3時から検討するというのに日本テレビの情報はどこからでたものか。また当然推定の情報であるはずなのであり、断定を避け「決着の見通し」とか「妥結の見込み」という表現にすべきではないかと指摘しました。電話口に出た小林さんという責任者は、前者については、現場の記者からの取材によるもので自信を持っている。後者については、確かに推定であり表現は適切でなかったかもしれないが、そういうなら結果を見てみましょうか、と開き直りました。私は断定を避け「決着(妥結)する見通し(見込み)」と訂正するよう申しいれましたが、結局、無視されたようです。そして2時早々には放送終了でした。
 この報道はNHK、その他の民放いずれも「見通し、見込み」と断定を避ける表現をしていました。テレビ朝日では2時半の段階でも「中止の見通し、確定次第伝える」と断定を避け、3時半でも「確実になりました」と慎重な報道をしました。これが事実による報道というものです。
 当事者が最終判断する前に、たとえその可能性が十分にあったとしても、第三者が事実に基づかない推定で報道することは当事者にとって非常に不本意なことです。その証拠に、このような報道をしたのは日本テレビだけでした。
 早く市民に情報を伝えようという気持ちは分かります。しかし、そのために当事者に代わってマスコミが自己判断し報道することは許せません。これを許すなら、それは世論操作にもつながる道なのです。
 電波は自由に発進することはできません。それは一種の権力でもあり、その影響力は重大な力を持つものであるからです。報道に際し、推定や推測の報道を一律に否定はしません。しかし、報道はあくまでも事実に基づいてするのが大原則えあり、推定による報道は極力避けるべきです。
 もし、われわれがスト突入を決める時、われわれの自己判断とはいえ、日本テレビのような報道は非常に重みと圧力となるのです。それを日本テレビはご承知なのか。それとも意図して行なったのでしょうか。
 マスコミが具体的な金額や数字を示し、相場と称して事実報道でなく推定の報道をするなどは、われわれには非常に迷惑です。一種の世論操作とも解釈できるからです。
 それにしても、過日の日本テレビの当事者を無視した断定報道に対して、私は断固抗議したい。
 われわれは常に情報を鵜呑みすることなく、十分に検討して、総合的に自己判断する習慣を身につける必要があります。それは、あの戦時中のマスコミ情報がよい証拠です。あのような世論操作や検閲の時代が来ないという保証はないからです。

 

【1986年】

 

「欲しかった、やるだけやったという充実感」(86.5.17・「組合新聞」)


 今春闘もほぼ昨年同額で決まった。今年は内需拡大の声も大きく、財界や政府・自民党の内部にさえ「出せる所は出すべき」の声が出て、情勢としては近年になく有利だった。
昨年同率以上を目ざしストに入っても、耐えられぬほどの社会的枇判はなかったろう。
 それどころか春闘後、良識あるマスコミ・商業紙は、有利な状況を生かせなかったふがいなさを指摘。労働組合の弱体化を憂い、「企業別組合の限界か」とまでいっている。今春闘でスト権を行使せず、いつできる。絶好の機会であつたはずだ。
 そして、その妥結状況である。私の分会でもスト前夜から役員全員が泊まり込み、状況を見守っていた。「総連三役は会社の非公式回答を中闘委に持ち帰ったが拒否された」との報道に私は「やった!」と思った。「今年の相場は○○万円」「ストは回避の模様」・・・。そうそうマスコミ言うように何時も決まるものか。組合の意地を見せてやれと思った。しかし、その後の会社に上積みを求めたが拒否され、そのままスト中止指令となった。総連三役は子供の使いか!会社回答を拒否しながら、何の進展もないのみストを中止したのか。
 私たちは何のためにスト権脅設定したのか。高率スト権確立などいっておきながら、なぜその武器を使わないのだ。それでなくても「もう錆びていて抜けない」などとバカにされているのに。
 私は、中闘委が三役の意思に反した行動をとった事を全面的に支持するつもりはない。組合の団結を考えるなら合内部は意思統一するにこしたことはない。しかし組合運動とは必ずしも総連-本部-支部-分会という上意下達のみがその運動ではない。ここは「どうしても」という時は原案に反対する事も否定する事も認められるべきである。今春闘の中闘委の態度は、この「どうしても」という状況だったと思う。
 先頃開いた分会総会では、青年部員から総連三役の責任追及する発言が相ついだ。
中闘委の意思を汲み取れなかった責任、そして三役は中闘委から「不信任」を突きつけら
れたも同然である。私もその責任は重大であり、きちんとした総括を望むものである。
 今春闘のストを「やった」という見方もあるだろう。だが私はそうは思わない。「や
った」というのは、ストをやる意思を持ち、回答に不満で会社と交渉中にストに入って初めて「やった」というのである。組合内部でゴタゴタしているうちに時間がなくなったのは「時間切れ」である。
 しかも何の前進もなくスト中止では、明らかな敗北である。不満ならなぜスト権を行使しないのだ。一銭の積上げがなくてもいい、やるだけやっての結果なら。なぜあきらめてしまったのか。私にはたたかったという意識はない。スト権を行使し、やるだけやったという充実感が欲しかった。
 さらに、安易に手当てや臨給の上乗せでの妥結。もうストライキができなくなるのではなかろうか。そんな不安を感じる。

 

「国鉄民営化に断固反対する」(86.7.15「社会新報」)


 政府は、国鉄を民営化するという。果たして国民の財産である膨大な国鉄の資産を売り渡していいものだろうか。一度売り渡せば、買い戻すのは不可能である。
 いま、NTTの株と同様、私達サラリ-マンが国鉄の土地を買うことなど不可能である。誰が買うのか。それは大資本家である。安く買い叩き、大儲けをたくらんでいる。採算の合わないロ-カル線はカットし、もうかるところだけ動かす。それが民営化ではないのか。
 政府・国鉄当局はその放漫経営に赤字があることを、なぜ認めないのだ。
 しかも、その犠牲を弱い労働者に皺寄せし、管理職が労働者をとり囲み、よってたかって退職、転職、広域配転を強要しているのである。そんなことなら、まず管理職自ら退職して国鉄に協力するがいい。勝手な行動に腹が立つ。
 合理化や話し合いの余地はあるだろう。しかし、弱者いじめ、そして、国民の財産を売り払う国鉄民営化には断固反対する。

 

【1987年】

 

「余りにも安い労働者の命」(87.7.20・毎日新聞「みんなの広場」)


 38年11月、死者458人、そして多数のCO中毒患者を出した三井三池の炭じん爆発の犠牲者原告団が福岡地裁の和解勧告を受け入れた。その内容は何と遺族に「400万円」、しかも5年の分割払いと言う。テレビインタビュ-で「主人の命がこんなに安いとは」と涙を流していた。
 「400万円」。それはサラリ-マンの年収より少ない。いまどき、交通事故で死んでも、強制保険は2500万円を補償している。仕事をしていた人間が業務上殉職した命が、たった400万円という、そんなバカなことがあるのだろうか。
 それとも、犠牲人数が多いので支払い能力から、一人当たりは低くなるとでもいうのか。私は遺族やCO中毒後遺症などに苦しむ患者の人たちが気の毒でならない。労働者の命とはそんなに安いものなのか。

 

【1989年】


「休暇買い上げ労働者に不利」(89・5・19・朝日新聞「声」)


 13日付本欄にあった巻幡秀明氏の「休暇買い上げ」に反論する。もともと有給休暇制度は企業には不利で不必要のものであった。それを先輩労働者が企業と交渉し、また世論をバックに法制化したものであり、金には代えられないものである。
 巻幡氏は買い上げが企業の負担になるという意見だが、それは逆であり、余った休暇は安く買い上げられる。企業は休暇を与えるより、休暇を買い上げたほうがはるかに利益があるのである。
 日本では休暇を当然の権利としては取りにくい状況にある。買い上げを認め一部にそれを望む状況があるなら、ますます休暇は取りにくくなる。世は週休2日制へ動いている。ドイツでは週休3日制が始まっているという。
 私の職場でも昔、休暇の買い上げがー制度があったが、労働者に不利として、労組は会社と交渉し、買い上げ制度をやめさせた。現在も労組は休暇を完全消化するよう指導している。
 有給休暇は義務ではなく権利である。権利の買い上げを認めたなら、それは買い叩かれ、やがて余るなら必要ないと削られることになる。

 

【1990年】

 

「許してはならないJRの不当労働行為」(90・5・26「組合新聞」)


 3月18日、一通の遺書を残し、また一人国労組合員が自殺した(5月8日付、朝日夕刊)。解雇抗議スト前日のことであったという。
 彼は組合役員をやっていたせいか、2年半の間に二つの職場を、5回もキャッチボールのように配置換えをされた。これがいやがらせでなくて、何であろうか。
 思えば三年前、組合差別、つまり思想信条の差別により、多くの国労組合が自学自習の名の下に何の仕事も与えられず、人活センターに閉じ込められ、当時何人もの自殺者を出した。当局は人事とは関係ないと公言し、仲間の遺影を抱きながらの抗議デモにも抵抗した。     
 自ら命を断った彼は、幼い頃父を事故で亡くし母子家庭で苦労して育ったまだ、たった29歳の青年だったという。彼の職場(仙台工場)では、三人目の自殺者だという。   いま国労の「国鉄首切、不当労働行為」の訴えに対し、各地労委の判断は半々に別れている訳ではなく、全ての労働委員会が「不当労働行為」であることを認めている。その不当労働行為を認定され、救済命令が出ている人間を、清算事業団は4月1日付で再度の首切をした。民主主義の法治国家で、そんな馬鹿なことが許されていいのか。三年も経った今頃になって、やっと中労委は事情聴取を始めた。                 
 労働委員会の不当労働行為認定は「救済命令」であり、法律に基づかない「行政指導」とは訳が違う。確かにまだ裁判という手法は残されている。しかし、それでは何の為の労働委員会なのか、その存在価値が問われる。     
 炭労や中小企業の人たちから見れば「三年もの猶予があり恵まれている」、という考えもあるかも知れない。しかし少なくても、その人たちの解雇は不当労働行為ではない。思想信条による差別、それは決して許されてはならない。それは民主主義の根幹を揺るがし、民主主義の崩壊につながることになる。いまも1025人の国労組合員が退職金受け取りを拒否( 4月26日付、毎日)し、不当労働行為と闘っている。その一方で差別実行の先兵、元国鉄総裁、清算事業団理事長であった杉浦氏は、全日空へ天下り( 4月 9日付各紙)の予定という。そんな不条理が許されていい訳はない。

 

【1991年】

 

「湾岸戦反対ビラ行動労組員の誇り持つ」(91・4・6・「組合新聞」)


 今回の湾岸反戦運動で私は労組の行動を待てず、市民運動の反戦デモやビラ配りに何回か出掛けた。
 今回の反戦運動はほとんどが市民団体や個人、子連れの婦人団体などであり、本当に女こどもや市民の行動が目立った。特に女たちはその母性本能もあるのか、子供の手を引き体を張って行動していた。戦争に「いい戦争」と言うのは無く、やっていることは同じであり、罪のない市民同志が殺し合うのである。戦争は真実「悪」であり、聖戦、正義と奇弁なら星の数ほどあるであろう。  私は今回の労組の反戦運動にもどかしさを感じた。いったい労組は何をやっていたのであろうか。ベトナム戦争では労組が先頭に立って反戦運動を行なった。あの姿勢は何処へ行ってしまったのであろうか。「連合」の腰の重さにいたたまれず、「総評センタ-」が日比谷野外音楽堂で反戦集会、デモを行なった。「連合」はその後を追っていやいや集会を開かざるを得なかった。しかし、そこでも自衛隊派兵の批判は聞かれなかった。当然であろう山岸氏は社会党の自衛隊違憲論は見直すべきであると言い(昨年4月毎日報道)、今回の都知事選では磯村氏を推すと言う。     
 そんな中で我が労組が独自の反戦ビラを作成し沿線72の駅頭で5万枚を配布した実績は高く評価されると同時に、私は自分の所属するこの労組に大きな誇りを感じた。この湾岸戦争で一単組でこれだけの行動を起こした労組があっただろうか。私は外部の人や組織に対しても自負できる行動であり嬉しかった。改めて本部に対し信頼を重ねた仲間も多かったのではなかろうか。
 またビラの中身も良かった。多くの市民は憲法と言う言葉は聞いても、本当に読んだことのない人が多いのではなかろうか。そのビラには昨年8月からの湾岸戦争の経過と共に、日本が求める理想の基本姿勢である「日本国憲法前文」が載っていたのである。その中で日本国憲法の特長は何と言っても「戦争放棄」にある。その前文には「・・・・平和を愛する諸国民の公正と真義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した。・・・・」と明記されている。ビラを受け取った何割りかの人が、この崇高な理想の文章を読んでくれたなら幸いである。        
 私は今もこのビラを反戦の自覚と行動の証として大切に取ってある。きっとこの行動は東武労組の誇れる歴史の一齣として残るのではなかろうか。

 

「労使の癒着に憤りを覚える」(91.05.24・朝日新聞「声」)


 21日付本紙「全逓方針『甘かった』訴訟取り下げ再受験……14人全員が不採用」の記事を読み、憤りを覚えた。
 郵政省の労務政策変更を求める「反マル生闘争」で懲戒免職になった本人に訴訟を取り下げさせ、再び採用試験を受けさせ、その代償として組合は合格のための努力をするというものだったようだ。
 そもそも郵政省が思想信条で首を切った人間を再採用するはずはあるまい。それが実現したなら、それは当局と労組との不公正な裏取引であり、御用組合であることを証明するものだ。
 本来、労組が自ら正しいと思った行動は、合法的な手段として裁判に訴え、主張を貫くべきで、ましてやその行動が労組の指示によって行われ、個人が処分されたなら、労組は当然、犠牲者を救済する義務がある。それを訴訟を取り下げさせて裏取引が失敗したら労組からも切り離すとは、まさに労組幹部のなれ合いと癒着である。
 犠牲者の1人が「組織の指令で闘い、首を切られ、組織決定だといわれて訴訟取り下げ書に印を押し、その結果が不採用だ。そして今度は組織からも切られようとしている」と言う言葉が、すべてを表現している。労組とは「1人でも泣いてる者がいないように頑張る」のではなかったのか。全逓労組員の奮闘と再起を期待する。

 

「労災認定に労組の存在価値示す」(91.7.6・「組合新聞」)


 6月29日の新聞各紙に、「バス運転手の過労労災認定」の記事が載つた。
 ところが各紙の報道ともこの会社名を「千葉県内の私鉄」と名を伏せている。これは裁判でなく労災認定である。しかし、一般に事件で逮捕されると起訴され裁判になるかどうか分からないうちから「・・・容疑者」と実名で報道されている事実を考えると、労災が認定されたことば、例え裁判でなくても会社に非があることを認めるとになり、会社名の匿名報道に私は不満であった。
 JR新松戸駅構内ヘ乗り入れているバス会社を確認したところ、新京成と判明したが、この報道方法には問題があると思う。
 事故は88年4月、朝の通勤時間帯」に、JR新松戸駅と市内団地をピストン輸送する路線バス運転士(当時37歳)が勤務中、乗客を降ろした直後に気分が悪くなり、救急車で病院に運ばれたが、8日後にくも膜下出血で死亡したという状況である。
 当時の勤務状況は、何と連続15日間休みなし、残業を含め-日平均12時間拘束、中には19時間の日もあり、その間6日もの代務運転で、普段の倍の120キロの乗務。年間拘束時間は3200時間を超える勤務状態であったという。
 ところでこの労災認定のきっかけは家族が労働組合に相談したことであった。それを受けた組合では、「労災認定に手を貸すことは、自らがそのような労働環境にあることを認め、自らの努力不足を認めることになる」というこで、議論があったそうである。
 結果として年間3200百時間を超える拘束時間という労働環境の下で、仲間から犠牲者を出した事実を反省する考えから、組合では支援を決定し、現場に看板を立てての目撃者探しなど、労災認定に全面協力したとい'う。
 当然といえば当然だが、私はこの勇気を称えたい。そして遺族が組合を頼り、信じ、相談にきた事実を重く感じたであろう。
 「ひとりでも泣いている者がないように」は、まさに労働組合は弱い者の味方でなくてはならないし、弁護士も―労働組合の全面的な応援が大きな力になつた」と評価している。
 私はこれこそ労働組合の使命だと思うと同時に、日本の労働組合もまだ捨てたものではないと胸がいっぱいになった。きっと遺族の方も労働組合の存在意義を感じ、感謝しているであろう。労働組合の存在価値を示す-つの記事であった。

 

「世界の労働時間の趨勢は1600時間」(91.7.21・「組合新聞」)


 会社側から休日増の提案あったが、その内容はまさに時代遅れの提案であり検討に値しないような内容である。鉄道はその職種務形態が多岐に渡り、よその職場のことに口を挟むことは差し控えるが、労働条件について私見を述べたい。
 私の職場(工場)の提案「6日の休日増で年間休日を104日とし、その代わり1日の労働時間を10分延
長し、結果として年間で1時間30分の労働時間短縮」という内容である。
 世界から長時間労働を批判されるなかで、1日1-分にも満たない労働時間減などというのは、労働時間短縮とはいえず、会社の提案は休み方を変えるだけであり、表向き週休2日制を誇示するカモフラージュである.
 いま労働時間短縮は社会の趨勢であり、自分たちで稼ぎ出してまで、休日増を実施する必要はなく、労働時間の延長は認めるベきでない。
 今春闘でも経営側は「既に労働賃金は欧米の水準に達している」といったが、その内容には触れていない。東京の生活費は世界-でニューヨークの167%(五月十七日付け毎日)であり、しかも、この中には住居費は含まれず、世界一同い家賃や土地代を含めれば更に高くなり、生活水準は欧米の半分ということにもなりかねない。
 その一方で企業はいさなぎ景気に次ぐ好景気で金余りといい(現場巡視に来た重役も「会社の経営は順調」と発言)、金の使い道に困り株や土地に投資し批判されるなか、われわれ労働者の生活は一向に楽にならず、住宅ローンに教育ローン、マイカ]ローンに追われる始末である。
 日本の労働者は単に実質賃金の低さだけでなく、労働時間も先進国中最高であり、全産業平均2044時間、われわれの運輸通信産業の平均は更に高く2213時間(5月16日付け朝日)であり、ドイツ、フランスの1600時間とは程遠く、クレッソン仏首相が日本の労働者を蟻に例えて、痛烈に批判したのは当然である。
 今年の上場企業の年間労働時間の予測は1930時間(残業除く・7月20日付け読売)であり、既に完全週休二日制の企業は62%を越えている状態。
 無給ながら育児休暇が法制化され、少し進んでいる企業は三日制や、年間賃金と臨給を保障したボランティア休職、介護休暇、結婚記念日休暇を認めている。
 このように、企業はいかに休暇を与えよかと考え努力しているなか、有給休暇の不消化にさえ会社は何の努力もせずに、この時期2000時間を越える労働時間での休日増提案とは、あまりにも時代錯誤であり、断じて労働時間延長での、休日増を認めるわけにはいかない。
 人間は働くために生きるわけではない。それは奴隷である。会社はもっと労働者や社会に利益を還元すべきである。


【1992年】


「もう少し頑張れなかったのか91労協闘争」(92.1.1・「組合新聞」)


 会社提案の休日増を含む労働協約闘争が妥結した。本部はよく春闘などで「不満な場合はスト権を行使して闘う」というところをみれぱ、少なくても止むを得ない結果ということであろうか。
 結局、私たちの職場など日勤現場の定員計算上の稼日の修正を1日ということで妥結、現実の稼働日と合致させることができなかった。交渉の中で会社は人「今の人数でできる」と回答したというが、それでは今までの定員制は何であったのか、それを否定するなら定員制の根拠を根底から覆しその理由を失ったことになると思う。
 妥結内容に不満は中のるが、一歩でも前進したことば確かである。しかし常に「高率スト権確立」と言いながら、もう何年もその権利を行使せず、春闘などでは「社会状況はスト権さえ成立しない組合があり、情勢として難しい」とよく本部はいうが、労協闘争は一企業と労組の闘いであって、本部の考え次第でストは実行できたんではないか。言うまでもなく労働者はストを背景にして初めて、企業と同等の立場に立てるのイじある。
 内容やス卜なし妥結を一歩譲っても、私がどうしてち納得しかねるのは、7日にス卜を権取定しておきながら、その2日も前に「スト中止指令」が出たことである。しかもその間、「組合新聞」に「小委員会に移つた」というたけで情報はほとんど無く、東上支部では前日の3日に「支部決起集会」を開い
たが、その後1日に経たないうちの中止指令である。決起集会は何のごたったのか?すでにそ時点では結論がでていたのでは、と勘綴りたくなる。
 なぜ、残る日にちギリギリまで交渉しなかったのか。たとえその結果、一歩も前進しなかったとしても、ギリギリまで頑張ったんだという充実感が欲しかつた。それは自己満足かも知れない。でも春闘では、頑張るではないか。私はこの労働日(時間、定員を含んだ)に関する労協闘争は、金に代えられない重い課題と思っていた。川越工場分会も執行委員会を開き、スト当日は休日であっても全執行委員の泊まり込み体制を決めるなど、スト態勢は万全であった。すでに現場はもう「スト権投票」などというのはシラけてしまっている。
 看護休職はなんと、親孝行のまねをするには事故欠扱いスで、成績査定で下げられるという。有給で、なくてもせめて、その位の思いの思いりは、会社は認めるべきであった。到底愛社精神など生まれまい。
 確かにこの闘争で努力し一歩前進はしたが、本部と現場のギャップは大きく開いているような気がする。


「業務に関係ない私生活干渉に疑問」(92.4.18・「組合新聞」)


 昨年私は会社から新人社員の「観察指導記録表」なるものを書かされた。
 企業としては、仕事に対する姿勢や能力を評価するのは当然であろう。しかし、その中に業務や仕事以外のことが含まれ、その記録表の中に、生活態度、交遊関係として次のような項目がある。
 ①悪い友人はいないか②ギャンブルはやらないか③サラ金から借入はないか④乗用車(オートバイ)を持っていないか、⑤暴飲暴食はしないか、⑥金遣いは激しくないか、⑦睡眠は十分にとっているか、⑧身だしなみは端正で清潔であるか⑨親と同居しているか。である。
 この記録表の記述内容は業務上の秘密ということであろうが、その頃目の存在についでは何ら秘密ではなく、もし本人に知られて困るような項目があるならそれは不当な項目であるということであり、敢えて発言する。
 これらの項目は何れも業務や仕事に関係なく、私生活に関するものであり、会社が評価する筋のものではなく、会社の上司にそんな権限はない。
 もし私が「悪い友人はいないか?」などと聞かれたら、「大きなお世話だ」と怒るであろう。本人は「良い人」と思っているから友人なのであり、それを第三者、ましてや会社の上司が「悪い友達」などと判断する権限はない。
 だいいち「良い友人、悪い友人」の価値判断はどこにあるのか?それは民主主義である限り、其々の価値観であり、-律の物差しで統-するものでも出来るものでもない。ギャンブル、サラ金、バイクもそうである。いま学校や社会で進みつつある、バイク禁止の見直しに対し、逆に最高裁第三小法廷は昨年9月、「バイク禁止の3ない校則」を違憲ではないと、憲法や法律に優先する判決を下した。
 危険性、交通安全の大切さを認識させ、危ないからと何でも禁止するのではなく、命の尊さや危険、ことの善悪などを自分で判断できる人間として、育てるため、禁止するのではなく、合意、納得の上で乗ることこそ教育であろう。
 16歳でバイクの免許取得を法で認めているにもかかわらず、会社で指導、評価するのは業務や仕事の範囲外であり、このような項目を評価対象に含めるのは、私生活への干渉であり不当であると同時に、時代錯誤の労務管理である。
 会社は何かあったら会社の名前が出て「会社に著しい信用を傷つける」ことを心配するが、悪いことば何も従業員がするとは限らず、今回の証券会社の損失補填をはじめ、大企業ヘの無担保、不正融資や暴力団絡みの銀行、更には共和、佐川と企業絡みで悪事を働いているが、一度として企業が従業員に謝罪したり補償したりした話しは聞かない。
 このような私生活に関するチェックは不当であり、排除すべきであり、組合もこのような項目の排除を会社に要求すベきである。

 

「思いやりない障害者エレベーター」(92.5.26・毎日新聞「みんなの広場」)


 都内の、ある私鉄本社がある駅のホームに、障害者用のエレベーターが設置されいるが、昼間なのにシャッターが閉まっている。そして、「このエレベーターは車いす専用でそれ以外の方はご利用できません」とあり、さらに利用時間は9時30分から15時30分とある。その表示を見て何のための施設なのであろうかとあ然とした。しかも、「ご利用の方はこのボタンを押して下さい」とあるボタンは、ホームから1.5メートルの位置にあった。
 先日、熊谷駅で車いすの障害者が一晩中障害者用エレベーターに閉じこめられた反省から、連絡用ボタンを低い位置に移したり、カギも取りやめ、また障害者以外のお年寄りなどだれでも自由に使えるよう利用方法も変更したが、この私鉄の駅はその教訓を生かしていない。
 車いす以外使用するな、時間は9時半から午後3時半までとは、ただ設置してあるだけで、弱者に対する思いやりと利用してもらおうという心遣いがまるでない。

 

「育児休職の上限無し 臨給差し引きに疑問」(92.11.26・「組合新聞」)


 今頃みんなボーナスが入り、一息ついている頃であろうかと思う。
 11月28日付組合新聞(2175号)にその配分が載っていた。今年から導入された育児休暇を取ると、病欠同様に1日について、0.7%差し引かれ病欠と違い上限無しで引かれる。
 結婚すれば子どもが生まれろのは当然であり、それが自然の姿である。また、子どもを保護して育てる義務が生じるのも当然だ。
 良い悪いは別にして、現にいま核家族化が進み、共働きが常識化しつつある現代、保育所に預けなければできない現実がある。
 しかし、おっぱいを飲んで育つ大事な親子関係の時期に、母親、父親が子とともにいることは非常に大切であり、育てるのは誰でもいいという訳にはいなない。動物の子でも、自分の子は自分で育てる。
 「それなら勤めを辞めて自分で育てればいい」と言う議論もあろうが、それはその人々の考えや価値観であり、他人がとやかくいう問題ではない。
 育児休暇は無給どころかボーナスまで差し引かれるとはあんまりである。結婚して出産することは、そんなに差別を受けなくてはならないほどの罪悪なのか。
 病欠とて同様である。誰が好きこのんで病気や怪我をする人はいない。その立場はいつ自分に回ってくるか分からないのである。それどこころか「一人でも泣いてる者がないように」とのスローガンがあるように、弱い立場の人たちこそ救援しなくてはならないのである。
 労働協約は経営者や非組合員には適用されないが、現実に彼らにもそれが準用される。つまり楼度運動して憎まれなくても、その保護を受け、ご利益の預かっているのであるが、彼らはその有り難さを理解していない。
 もっとも底辺の労働者でないエリートと思っている彼らは、金や労働条件などどうでもいいのであろう。
 確かに企業経営の目的は「李銃の追求」である。故に病欠や育児休暇など利益に反することは「悪いこと」というのが企業論理の本質であり、人情論は通らない。
 しかし、私はそんな人間になりたくない。私は信念をもって定年まで平社員を通すが、その代わり私は正しいと思うことは自由に発言できる自由がある。自由は金では買えない。私は言いたいことも自由に言えない企業の奴隷になるのはまっぴらである。
 そこで言いたい。病欠や育児休暇の取得を理由に、賃金やボーナスカットなどを認めるべきではなく、それが出来なければ、日教組が「主任手当」を拠出し、有効に使ったように、仲間同士で助け合うべきである。

 

【1993年】


「赤旗掲げ線路の中」(93.1月・組合機関誌「進路」)


 この写真は昨年春闘のストライキの日、分会の仲間が誰いうともなく、「記念に写真撮ろう」と自分たちで止めた電車の前に集まった写真です。つまり、そのくらい久しぶりのストライキでした。
 この写真の仲間の中には初めてストライキを体験した若い人たちがいっぱいいます。赤旗を掲げ、線路の中で決起集会を開き「俺たちが電車を止めた」という実感があったと思います。
 労働者は団結してストライキを決行し、その背景の中で交渉して初めて経営側と対等の立場に立てるのであり、自分たちも交渉の参加しているのだという思いが例年になく湧いたことでしょう。今春闘も、増えた若い仲間と共に頑張り、また腐りきった政治を変え、世直しをしなくてはなりません。川工分会も新年と共に決意を新たに団結し、頑張ることを誓います。


「“組合バッジ”禁止は理不尽」(93.06.18・読売新聞「気流」)


 国労組合員が上司の組合バッジ取り外しの命令に従わなかったため、本来業務でない火山灰排除作業を命じられたのは不当だと訴えた裁判で、最高裁は原告勝訴の一、二審判決を破棄し、適法の判決を下した。
 業務外の火山灰排除作業は制裁に相当するものであり、バッジ着用は、何ら業務に支障を与えるわけではなく、労務管理上の組合対策である。
 組合を認めている以上、その所属労組のバッジ着用は認めるべきで、会社のバッジならよくて、組合のはいけないというのは理不尽である。
 旧国鉄分割民営化の過程で国労組合員との間に「思想信条による組合差別だ」と幾多の労使トラブルが発生した。使用者側が労働力や能力などで差をつけるのは当然だが、思想信条や価値観に対する制裁を認めるなら、それは労働者ではなく、奴隷に等しい。
 最高裁は「管理上やむをえない措置」というが、私はその理由を知りたい。国民の常識と合致した一、二審判決を破棄した判決に疑問を感じる。

 

【1994年】

 

「なぜか『病欠扱い』を、いやがる管理者」(94.1.22・「組合新聞」)


 昨年「ぼくが医者をやめた理由」という本が話題になったが、今回「私が病欠を取つた理由]を述ベたい。
 昨年暮れに私は病院へ一泊を必要とするちょっとした手術が必要となり、土日の休みを利用して前日の金曜日に「病欠」を申告した。丈夫が取り柄の私は3年ぶりの「病欠」であった。
 管理職や他の人たちの中にも、どうせ有給休暇がいあるんだから「一日くらい有給でやすめば」と思った人もいるかもしれないが、私は30数年前を思い出した。
 当時まだ有給が何日もなく、私が「病欠」を申告したところ、当時の検修助役が「休暇で休め」と言った。私は「病院ヘ行くの」になぜ休暇を強要するのか、そなら後で遊びに行く時は「『病欠』を認めるのか?」と食い下がったら、結局助役は「病欠」を認めた。
 この傾向は今でもあるのではないだろうか、一部の人は有給は、冠婚葬祭や病気のためと思っている人もいて、後生大事に取っておき結局取りきれない人がいる。
 会社は病欠をすると賃金(臨給も賃金である)を差し引いて人事考課にも、引っかけてくる。企業としては利益を生むことに協力できない者には、負の評価をするのは当然というご時世かもしれない。誰も好きで病気になる人はいないし、いつ自分がその立場になるかわからず、病気になると不利な扱いをするのは弱い者イジメである。
 しかし、差し引きや査定を気にして病欠を取らず、有給で休むなら会社の思うつぼであり、それはやがて自らの首を絞め、労働条件を下げることにつながる。
 有休を消化するか残すかは、確かに個人の自由であるが、それは義務ではなく先輩労働者が勝ち取ってきた権利であり、権利放棄を続けるなら労働条件は必ず下がる。私は入社した当時、年間休暇はゼロであった。有休は仕事の合間に人間を取り戻すために使うものと私は思っている。人間は
働くために生きているわけではない。
 無給ながらやっと育児休職と、看護休業が実現したが、他企業で採用され始めたリフレッシュ休暇や、ボランティア休暇はまだ程遠いようである。
 先進諸外国はすでに、40時間を切っている状態に比べ、日本の労基法の週40時間は、その例外が労働者の80%を示すような状態でなにか法律と言えるのか。そして、職種や企業規模によって労働時間に差を認めることば、憲法の「法の下の平等」に反し違憲である。労働者の低賃金、長時間労働で儲け過ぎ、余りた資金を株や土地に投資した結果が、バブル経済であり、いまその不景気で労働者は二重の苦労を背負わされているのだ。労働者はしっかり、権利を主張すべきである。

 

「頑張れ管理職ユニオン」(94.02.25・毎日新聞「みんなの広場」)


 21日の社説に「管理職組合に未来はあるか」が載ったが、私は管理職組合にぜひ頑張ってほしいと思う。
 私は一般社員だが、多くの管理職は一般社員以上に企業に貢献してきたのに、不景気になれば転勤、肩たたきなどで冷遇され、まさに裏切られた思いのケースも多いだろう。
 管理職の労組加入は、スパイ行為や御用組合化など、企業が労組の弱体化に利用するのを防ぐため認められていない。しかし、彼らの権利や労働条件が侵害されるなら、憲法上の団体権を行使し、労組を結成して交渉する権利を認めるべきである。一般労組員とは立場が違うが、彼らとて企業の奴隷ではなく、雇用される同じ人間である。ユニオン方式の労組とすれば、企業別労組より強くなれる可能性がある。頑張ってほしいと思う。

 

「権利は眠る者を保護しない」(94.9.10・「組合新聞」)


 先日私は新聞の書評欄で見つけた、「平等ヘのロマン/働いて、たたかって」(坂本福子・編/学習の友社)を読んで感動した。
 この本は「女」ゆえに、結婚・出産解雇、若年定年、不当配転、賃金・昇進昇格差別など「子持ち女は半人前」などといわれながらたった一人で、或いはたった数人で大企業を相手に裁判や調停で不当差別に勝ち抜いた十数人の記録である。
 所属労組からも「統制を乱す」と企業と結託して排除されながら、今まで組合運動など意識も経験も無かった女たちが、企業の理不尽に立ち上がるのである。
 彼女らの机は会社から無くなり、やがてはガードマンに排除され、会社の中にも入れず、毎日会社の門前でたった一人で抗議を示すおんな!私は胸が詰まった。
 しかし、よくしたものでそのうち個人で、または他労組や組織などの支援の輪はだんだん広かっていくのである。
 3年で解決した人、20年以上もかかった人、裁判闘争に明け暮れ、子供に手が届かず登校拒否や非行に悩む母、しかし、その子もやがて2児の父、子は親の背中を見て育つというが、困難があってもやがて「母がやっていたことば間違つてはいなかった、正しいことをしてたんだ」と分かる
日が来るのである。
 しかし、そんな例ばかりではなく、途中で離婚に至ったケースや闘い済んで命を終えた人など、これを読でいるとつくづく弱い者どおし助け合わなくてはならないことを感じる。しかし、権力はそれを一番嫌うのである。
 かって小学校の国語の教科書に「おおきなかぶ」や「スイミー」という話ていたがが載っていた。前者は、かぶは1人で抜けなくても皆で力を合わば抜けるという話で後者は、小さい魚は群をなして大きな魚に見せかけて身を守るというものであるが、かつての自民党政権下でこの教科書は批判の的となったんである。
 この本の序に「権力は眠れる者を保護しない」という言葉が載っているが、正に的を射ている。労働条件の維持向上は黙っていたのでは向上せず、自分たちで権利を主張し企業に訴えて}なくては何も前進しないのである。
 私が35年前入社した頃、有給休暇は-年間ゼロで作業服は1 着で洗濯替えもなく、作業靴も作業手袋も賃金で買って作業に供していたが、その後,それら何一つ黙って会社から支給された物はない。
 つい先日まで祖父母の忌引も労働協約に「父方の祖父母」と記され、また従業員の子弟の「入学祝い金」は扶養している者に限るそうだが、手当てでなく「祝い金」であるなら扶養の有無に関係なく従業員の子弟との入学を祝ったらどうか、これも差別である。
 労働運動は、まず一人ひいとりがしっかりと自覚を持たなくてはならないことを改めて自覚した次第である。


「祝日より有給休暇」(94.10.20・読売新聞「はがきコーナー」)


超党派議員の「海事振興連盟」が中心になり、7月20日の「海の記念日」を「海の日」として国民の祝日に運動を進めているが私は反対である。
 諸外国に比べ、日本の祝日は多いが、盆と正月、ゴールデンウィーク以外は連休が取りにくいのが現状だ。多くの企業では有給休暇消化が困難である。祝日を増やすより、有給休暇を自由に取れるように環境を整えるべきだ。

 

「国労への差別、JRは猛省を」(94.11.17・読売新聞「気流」)


 国労組合員の車掌に対する不当労働行為で、最高裁はJR側の上告を棄却し、JRの敗訴が確定した
 国鉄分割・民営化当時、JRは国労組合員に対する採用差別のほかにも、北海道の乗務員を首都圏に転勤させて売店やホームのそば屋などに回す人事を行ったという。
 これに対し、国労は遠回りでも合法的に法的手段を踏もうと、被害者の一部を代表に据え、裁判に訴えたのであり、今回の最高裁判決は、犠牲者のほんの一部である。
 JRはこうした不当労働行為が地方労働委員会、中央労働委員会で認定され、救済命令が出されても、それを不服とし裁判に訴えたが、一、二審とも敗訴、ついに最高裁でも上告棄却となった。地労委、中労委も含めれば、国労は五連勝のパーフェクト勝利である。
 作業量や能力などによる査定は許せる。しかし、思想信条や所属労組での差別は許されない。思想信条の自由の否定は、労働者ではなく「奴隷」であることを意味する。JRの猛省を促したい。


【1995年】


「国労は、組合の手本」(95.1.20・「国鉄新聞」)


 前略「連帯する会」の一員ですが、会費を払い届い「た国鉄新聞」読む程度の会員ですみません。「国鉄新聞」11月号届きました。新宿車掌区事件完全勝利よかったですね。でも然のことです。
 先日たまたま私の東証読売新聞が載せてくれ(94.11.17)その稿料の小為替はが届きました。少なくてすみませんが、その小為替をカンパさせてください。ついでにその投書を同封致します。がいたロジャーで右彼は、通貨が、いきなりユーザーに考える余地がかかるから夜、気が向いたらお読みください。
 7月の「国鉄新聞」を読み、美幌闘争団の三浦斎さんが40代の若さでろう内出血で亡くなった記事を読み本当にお気の毒に思います。
 体制に流され、言われるままになっていれば、きっと過労死することはなかったでしょう。でも彼はそれを許さず、ご家族もそれを理解してくれたのでしょう。言うことは簡単ですが、それを実行することは容易なことではありません。まだ幼い3人のお子さんと奥様がどんなに悲しんだことかと思います。
 お父さんの背中を見てきてお子さんたちは、「お父さんは正しいことをしたんだ」ときっと理解してくれるのではないでしょうか。そして貧しく弱い立場の人を理解できる優しい人間に育ってくれることと思います。改めてご冥福を祈りいたします。
 私が今二つのことがどうしても許せないのです。その一つは、この貴労組に対する思想信条と労組差別、もう一つはあの間違った価値観で、子供達を調教した教育制度つまり、今の「教科書検定制度」です。国労支援とともに、私はこの「教科書検定訴訟を支援する全国連絡会」の会員にも入っています。教育非常に大事であり同じ過ちを犯してなりません。
 私は今後とも、否、一生国労を支援する会員であり続けるでしょう。国労こそ労組の手本であり、それを否定することは、労働者を否定することになります。

 

「助け合いに心傾けない経営者」(95.1.28・「組合新聞」)


 今回の兵庫県南部地震で犠牲者5000人を超え、5万個が損壊し、30万人が避難所生活を強いられ,また同様に鉄道を未曾有の被害を出した。
 この災害に、個人でのカンパも大事だが、わが労組も20日からカンパに立ち上がったことをは嬉しさと誇りに思う。私は念のため東武鉄道本社広報担当窓口にの「社員だとあ」と電話(1/20,16時)し、会社が何らかの援助活動を起こしているかと聞いたら「特にしていない」とのこと。
 今後の支援予定はあるのか聞けば「今のところない」。更に「組合でもカンパ活動を始めたであろう」と言えばは、「本社支部ではそのようなことはしてない」と開き直りとも取れる返事に腹が立った。
 助け合いやボランティアそれぞれの価値観で、自発的によるものであり私は労組でやっているんだから会社もやれとは言っているわけではない。
 多くの企業が食料や義援金など次々と手を差し伸べ、国内ところが米国の毛布、スイスから救助犬、そして、子供達まで小遣いをカンパし、知らぬ者同士が助け合いパソコン通信も無料開放で死亡者名簿掲載から交通情報、尋ね人、義援金の受付と大活躍した。
 そんな中で、自分で勤める大企業の経営者が見返りを狙った政治献金をしても、助け合いに心を動かされないことに腹が立った。それは金額の大小や貢献度の問題ではなく、平然と「何もしていない」と言うからだ。
 自治体の協力もちろん、運輸業者は無料で飛行機やトラック出し、食品会社も無料で緊急送付、電子工業から小型ラジオの配布と避難所のテレビ設置。す ガス会社はカセットコンロとボンベの支給、新聞の無料配達など各企業や団体・組織が協力。ボランティアの登録も5000人を超え、街の食堂は無料でラーメンやたこ焼き食べさせた。
 そして遠くや現地で協力できない企業や人たちは、義援金利協力、芸能人の子供さえも協力した。
 これを書いている今もテレビは、フランス、アメリカからの災害 救助隊や韓国から26トンの水の到着を伝え、アメリカや資産を中止して日本向けにす縫っている企業も。
 そして、すあの時「す杉原ビザ」で命を救われたニューヨーク在住のユダヤ人が、杉原(千畝)への恩返しと「神戸救済資金」を設置した。
 その上、みん徹夜で救命・救助、そして復旧作業に頑張ってくれている。
 それなのに、この企業の経営者は一体何考えているのだろうか。助け合いやボランティアの大切さ(緊急位置だけではない)を理解していない。こんな時だけでも、企業、団体、個人ができる範囲で協力することが大切であるが、ボランティア休暇もない会社の経営者に、その理解が無理かもしれない。
 私はカンパ始めた労組員であったことを誇りに思うが、子供に「お父さんの会社も何かしたの?」聞かれて肩身が狭く、社員としても誇りを持ちたかった。

 

【1996年】

 

「95労協、休暇増で妥結に疑問」(96.1.13・「組合新聞」)


 95労協闘争が妥結したが、要求した時間短縮の「休日憎」は何時のまにか「休暇増」とすり替わってしまった。しかし、」組合新聞には「年間休暇増を獲得」あるが、これが〝獲得〟に値するのか。
 我々は「休日増」を要求したのでああり、休暇の積み上げを要求したのではない。総連は休日も休暇も同じと考えているのか。
 我々の職場の場合、休暇要員もなく稼働日が減っても定員指数の見直しもされず仕事量は同じと、前回(91労協)104日導入時と同じ「自分たちで合理化して休む」結果となり、会社の負担は何もないのである。組合はそれでも定員制度を敷いていると言えるのか。
 しかも「明示後取得できなかったに日数は、2割5分増しで清算する」とは、明らかに改悪である。今まで休暇の完全取得を指導してきたことと矛盾しないのか。「捨てるなら金で清算したほうがいい」との発想は、労働条件の逆行(昔先輩たちがこの制度を撤廃させた)であり、休暇の取得は、義務ではなく「権利」であり、その権利を金で売り渡すことになる。労働条件は金では買えず、この権利は諸先輩が闘い勝ち取ったものであり、それをいま売り渡したのだ。
 私が入社当時1年間休暇が1日もなかったこと、安全作業約靴や手袋はもちろん、作業服を洗う洗剤(バケツで手荒い)も自分の資金から捻出していた日々を思い出す。さらに付け加えるなら、相変わらずのストなしの妥協であり、ストを決行しはじめて経営側と同じ土俵に立てるのであって、ストな。闘争は既にハンッディ背負った闘争だったのである。

 

【1997年】

 

「国労組合員『差別責任ない』無理」(97.6.3・東京新聞「発言」)


 国鉄分割民営化のJR採用に国労組合員の差別があったという問題で、国労は法治国家を信じ、遠回りでも筋を通して法的手段を踏み、その不当性を訴えた結果、すべての地方労働委員会やが不当労働行為と認め、中労委は仲裁命令まで出した。
 しかし、JRはさら「今度は訴訟だ」と提訴したが、28日、東京地裁はすでに10年経過していることを考えれば早期の和解が必要と「和解勧告」を出したものの、JR側その場で拒否したという。これは労働委委員会の存在理由も無視するものである。
 仕事の質・量・内容での判断ではなく、思想信条や所属労組での差別は許されず、労働者は思想まで売渡しているのではない。
 差別があったことは他労組との採用率の差から明らかではないか、「採用名簿ば国鉄の権限で握られ、JRは当事者ではなく責任はない」などの理由は通らず、旧ソ連邦が崩壊してもその債務をロシアはきちんと引き継いでいるのである。

 

【1999年】 

 

「許せないJRによる『命の差別』」(99.3.5・「週刊金曜日」)

 

 2月21日未明、都内のJR山手線に平行して走る貨物線で、五人下請け作業員が臨時列車に轢かれた。
 JRやマスコミは当日作業責任者が駅にダイヤ確認しなかったことや、見張り不十分を指摘するが、事故の根本原因は「臨時列車が運行されていることを、事前に作業員に知らせていなかった」ことである。
 この指摘にJRは業者からダイヤの「請求がなかったから」というが、通過する駅にさえ通知せず臨時列車が運行されることはあり得ず、線路内で作業する下請け作業者には「聞きに来なければ教えない」とはまさに「命の差別」である。
 現に作業員は臨時列車の運行知らなかったのであり、最終列車後、始発まで列車が来ないなら、見張りの必要にないのは常識として当然である。
 また現場作業責任者は作業開始を指令室に伝えているが、なぜその時「まだ臨時列車が通過する」と告知しなかったのか。指令室への作業開始の通告電話を何のために義務づけているのか。
 これは単に交通渋滞で現場到着が遅れ「駅へのダイヤ確認を怠った」で済む問題ではなく、現場到着が遅れれば即始発までの作業に支障をきたすほど、無理な作業内容であることも推測でき、そもそも「下請けを信頼している」との名目で作業を「丸投げ」する無責任こそ問題で、下請け作業員は鉄道作業や常識に精通してる訳ではなく、業者の責任転嫁を防ぐために、最低一人の本工(職員)を 責任者として義務づけることが必要である。

 

【2000年】

 

「企業別労組はもう時代遅れ」(00.09.09・朝日新聞「声」)


 今の、リストラと闘えない企業別労組の限界と終わりをよく示すのが、三日の「社外労組に頼り解決」の記事だった。企業側は、企業別労組を支えていた終身雇用も年功序列もやめるという。これからは、企業と労組・労働者が一心同体の必要性はないし、労組が企業の経営を心配する必要もない。
 企業別労組には、企業寄りの御用組合が少なくない。労組役員の経験が管理職や出世の登竜門になっている企業さえあり、企業は労組幹部を抱き込めば済んでいた。しかし、証券、銀行、百貨店……と、企業と労組がもたれあった無責任経営の結果、何の責任もない、働く意思のある労働者が犠牲になっている。
 そして、リストラが始まったころ設立された「管理職ユニオン」など個人加入の組合が、労働者の権利を守るため活躍している。これからの労組は企業を離れ、職種別、職能別労組などに再編成すべきである。航空会社の労組のように、企業内に幾つもの労組があれば、労組幹部の抱き込みも簡単に出来ないだろう。
 仲間のために積極的にストライキ権を行使し、企業を動かすものは金だけではないことを思い知らせるような労組を育てなくては、労働者はいつになっても使い捨ての奴隷であり続けるだろう。


「 読 書 の 声 」(00.9.20・「国鉄新聞」)


 国鉄新聞(国鉄闘争に連帯する会・特集版)第141号に掲載された神奈川のIさんの「国鉄闘争は希望の星」に全く同感です。
 1047名の皆さんは自分のためではなく、労働者を代表して闘ってくれているのです。何故なら、この闘争は単なる合理化反対の闘いではなく、思想心情も使用者の言いなりになり奴隷になり下がるのか、労働者があることを守るかの闘いです。
 我々労働者は労働力を提供し賃金を得ているのであり、思想心情や家庭生活まで会社により売り渡しているのでありません。
 そして、政治決着とはあまりにも無責任でありそれは社会主義に反し、当局が自信がない証拠であり、何のために国労は遠回りを覚悟で理屈を通し法を守り労働委員会に提訴してきたかは言うまでもありません。あの金大中大統領の拉致も政治決着でしたが、あれが果たして「正義」だったのでしょうか。
 良い事が良いのであり、悪いことは悪く、違法は違法なのであり、法治国家なら政治決着ではなく、きちんと法に基づいて結論を出すべきで、そのために皆さんは苦難を乗り越えて13年もの長い時間を絶え抜いて来たのではないでしょうか。
  当時、生まれた子でさえ中学生の13年歳、その子たちに社会正義を守りお父さんたちは間違っていなかったと背中を見せたいと思います。
 すべての地労委が不当労働行為を認定し、中労委でさえ追認せざるを得ない状況のなかで、当局は裁判に持ち込みましたが、これを認めるなら時間と金の無駄遣いであり、労働委員会制度を否定するものであり必要ない。
 日本の「官僚裁判制度」は到底公正とは言い難い面がありますが、それでも皆さんが頑張り努力している姿に脱帽です。
 「連帯する会」の会員になり、たまに僅かばかりのカンパを送る程度ですが、同じ鉄道労働者として皆さんが闘う限り生涯支持していくつもりです。
 人活センターなどで仕事も与えられない差別の中、何百人にもの「自殺者」を出した悲劇を決して忘れません。

 

「不合理な育児介護の臨時控除は撤回すべき」(00.9月「組合新聞」)


 臨時給の控除で何時も思うのだが、相変わらずの不合理な差し引きがまかり通っている。
 労働者は単に労働力という機械の代わりではなく、社会は進歩し人間らしく生きるため、育児休暇や介護休暇などが法的に認められるようにになったものの、その期間は無給であり、制度ができたからと安心して取得するわけにいかない。しかし、無給どころか、育児、介護、公務、ボランティア、母性健康管理などの休暇を取ると、定職、降職、無断欠勤などと同様に賃金から控除されることは、これらの休暇制度導入の趣旨に反し受け入れられず不正義である。
 これらの休暇を取得することは社内処分を受けることと同様に悪いことなのか。これは控除率や金額の問題でなく、このような扱いはこれらの休暇を取ることが「イケナイコト」ということであり、正当な権利行使に賃金(臨時給も法的に賃金)カットは差別であると私は思う。
 労働省に電話で聞いたところ、これは「差別」かどうか難しく最終的には裁判所の判断になるが、企業も制度導入で負担が増えるとの模範解答だったが、この制度導入に企業負担が増えるのは当然の責務であり無給のうえこのような差別控除を認めることは、制度の普及にブレーキをかける結果になり、会社が取り易い環境を整えるべきで、何のための理制度導入なのだろうか。
 この控除はは明らかに不合理であり許せず、できればせめて賃金の半額支給を求めたいが、組合はこのような差別控除を断固拒否撤回すべきで、ストライキや裁判闘争してでも社会正義を貫くべきで「絵に描いた餅」では困る。

 

【2001年】

 

「国労の選択は自己否定ではないのか」(01.2.16・「週刊金曜日」)


 国労は1月27日の定期大会で「四党合意」を受諾したが、そんあことでよかったのだろか?
 国労の闘いは労働者としての闘いであり、自らの労働条件の維持・改善、合理化反対などを主張するには当然の権利である。その権利を否定した処分や差別が許されるなら労働運動は不可能であり、それは使用者のいいなりに働く「奴隷」になることを意味する。そのことの不当さは全ての地方労働委員会と中央労働委員会さえも認めてきたのである。
 国鉄再建管理委員をつとめた千葉商科大学長の加藤寛氏は、1月28日付『朝日新聞』で「会社を立て直す時、人員整理は当たり前だ」と放言した。また「『自分たちだけ助けて』というのはおかしい」ともコメントしているが、労働の質や能力でなく思想信条や労組差別が不当労働行為であることは明らかである。
 この14年間多くの自殺者まで出し、苦しいアルバイトせ生活をしのぎながら闘ってきたのは「JRに責任がないこと」を認めるたまだったのか?これは自らの闘ってきた運動を否定するものであるり、和解条件も示されずに「白紙委任状」を渡すに等しく、今後の闘争をますます困難に陥らせることを示している。 
 現に闘争団では和解金一人5000万円、団員の約7割にあたる640人のJR復帰採用などを要求しているが、政府内では和解金一人あたり80万円の試算、「採用は10数人」(井手正敬JR西日本会長、「非常に困難」(JR北海道幹部)、「妥協の余地ない」(JR幹部)など国労の要求と掛け離れている。だが、「JRに責任がない」とするなら、これも当然の結果であろう。
 いったい連合は何をしていたのか!これは労働者と資本家・会社との闘いであり国労は労働者を代表して闘っているに等しく、連合や労組は徹底的に支援すべきであった。
 「政治決着」とはいわば、不正義のヤミ解決の別名である。かつて金大中氏が都内のホテルから拉致されて事件でも、韓国大使館員の指紋という「物的証拠」がありながら、政府は朴正煕政権との間で「政治決着」をつけウヤムヤにしたのである。
 われわれ労働者が「奴隷」にならないために、今後とも各労働団体はこの闘争に手を貸して行くべきであり、私も彼らが闘う限り支援を続けていく。

 

「趣旨を履き違えて連合メーデー」(01.6.1・「週刊金曜日」)


 連合が中央メーデーを4月28日に開催し、しかも、なんと小泉首相を招いた。。開いた口が塞がらないどころか、顎が外れそうである。
 メーデーは人さえ集まればいいのか、そして、お祭り騒ぎすればいいのか。メーデーや労働時間の制限のない奴隷から、労働者が8時間労働制を闘った事に起因する記念日であり、メーデーは労働基本権の確認と闘姿勢を再確認する場である。
 私の所属労組では先輩方が会社と戦い、5月1日のメーデーを労働協約で祝日扱いに遺てくれた。私の勤務地の埼玉・川越地区メーデーも5月1日に開き、39組織600人が参加し、また私の住む小川町のメーデーは夕方から400人が集まり、夜の街をデモ行進したが、連合幹部はこの意識をどうみるのか。
 私が独身で労組役員していた頃、春闘では毎年電車を止め会社に「金だけでは電車は動かない」い事を知らしめ会社と闘ってきた。
 しかし、今なんとストの設定さえしないで「高率スト権投票」の呼びかけに現場は白けている。
 闘わない連合は労組の役目も忘れ、ブームに乗って自民党の小泉首相を招くとは言語道断である。桁外れにひどい森前首相に比し彼が目立っただけであり、靖国公式参拝是認などというタカ派の思想を如何に見ているのか。

 

「発明者の提訴、企業側に警鐘」(01.08.31・朝日新聞「声」)


 青色発光ダイオードという世界的発明をしたものの会社に正当に評価されず米国に渡った中村修二氏が、特許権の確認を求め提訴したことを高く評価する。
 中村氏は、米国で研究者仲間から「奴隷」と言われたそうだが、サービス残業に始まり有給休暇の未取得、過労死に過労自殺と、確かに日本の労働者は奴隷である。
 特許権の問題でも、特許法には社員の特許権は個人にあると明記されているが、企業は、能力主義とは裏腹に数万円からせいぜい200万円程度の報奨金で済ませ、膨大な利益を独り占めしてきた。
 しかも今は、終身雇用も年功序列もおしまいどころか、安易なリストラと、まさに労働者は奴隷どころか、使い捨てだ。
 中村氏も、能力が正当に評価されないため米国へ頭脳流出したのであり、こんな学者が何百人、何千人外国へ渡ったことだろうか。
 今回の提訴は、その日本の特許権の扱い、労働慣行に警鐘を鳴らすものだ。

 

【2005年】


「JR総連、東労組への弾圧」(05.12.23・「週刊金曜日」)


 JR総連とJR東労組の元幹部がJR総連内部組織の資金を流用したとの「横領容疑」で、警視庁が総連本部や東労組などを家宅捜索したというが、これも弾圧である。
 そもそも「横領」と言うのは、被害者が居て被害届が出されて捜査が開始されるものであり、「被害届」もない横領情報を官権は何処から得たのであろうか。しかも、被害者でる筈の労組自身が「横領された事実はない」と否定しているのである。なぜ、マスコミはこの疑問を呈しないのか。
 「JR浦和電車区事件」でも労組と会社を辞めさせられたとの「強要容疑」で、労組役員ら7名が逮捕起訴され公判中であるが、この事件でも被害届の前に 官権の捜査が開始されている。しかも、埼玉県警ではなく警視庁の公安が動き、被害届は官権が作り本人は署名捺印だけさせられた事などが判明している。
 この事件では傷害も与えていない「強要容疑」にもかかわらず、何と344日も拘留されたが、これは裁判所が人権の砦の使命を果たしていないことを示し、寺西和史判事の指摘通り、裁判所は逮捕状や拘留延長などをろくな審査もせず請求されるままに発布している事を裏付けている。この家宅捜索では64箇所、1094点もの押収をしながら、殆どが即刻返却され家宅捜索が労組にダメージを与える目的のマスコミ向けの「パフォーマンス」であったが、今回も同じ手口である。
 「最初に逮捕ありき」の労組・思想弾圧弾圧事件である。

 

【2006年】

 

「JR労組への弾圧許さず!」(06.6.23・「週刊金曜日」)


 過日、本誌でも掲載されたJR東労組「浦和電車区弾圧事件」で、7人の労組役員らが「強要罪」容疑で逮捕起訴されて裁判中である。
 6月3日、埼玉県北浦和で浦和地区九条連の「第3回平和集会」が開かれ、その席でこの事件の被告の1人とされているAさんから、すでに事件から3年7ヶ月を経過し46回の公判を重ね、来春にも結審の予定と報告された。
 この事件では傷害も与えない強要容疑で、65箇所もの家宅捜索で1096点も証拠として押収しながら多くが早々に返却され、何と344日も勾留されたのである。そもそも被害届を警察が用意し、本人は署名捺印だけしたというデッチアゲ事件であり、強要したとされる内の2人には業務上のアリバイさえあるという。
 この事件は現場が「埼玉」にもかかわらず警視庁の公安が捜索、逮捕したが、その担当の警視庁公安2課長の成松清警視が万引をしたことが、5月29日判明した。しかし、身柄送検もされず書類送検で停職1カ月とう軽い処分で辞職した。
 窃盗罪は最高10年の懲役であり、一方で「許容罪」は最高3年であるのに何で344日も拘留されたのか。裁判所は否認すると釈放を認めないが、それは憲法で保障された「黙秘権」の否定であり、否認や黙秘を理由の拘束は違憲である。
 これは本気で運動しているJR労組への弾圧であり、多くの市民と労働者の理解と世論で跳ね返さなくてはならない!

 

「再チャレンジない社会こそ」(06.9.2・東京新聞「発言」)


 23日付「再チャレンジ、敗者を見下す響き」に同感である。
 資本・自由主義社会は格差社会でありそれを放任するのではなく、その格差を一定の
範囲内に納めるのが政治の役目である。
それが富の再分配としての「税制」であり「社会保障」であるが、それが機能していない。それどころか所得税の最高税率引下げの一方で、課税最低所得額を引下げたり、贈与・相続税の減税、物品税を廃止しての消費税の導入など、格差拡大策をやってきた。
 小泉首相の規制緩和策で弱者が犠牲になり、生活保護所帯の増加、授業料を払えない、修学旅行に行けない生徒たちも多い。また、自殺者は毎年3万を超えている。
 再チャレンジではなく再チャレンジしないで済む社会でなくてはならない。弱者を保護し、格差を一定限度に抑えるための「規制」は必要なのである。 

 

(2011年)

 

「労働組合は再編成すべき」(11.11.23・東京新聞「発言」)

 

 16日付本欄ミラー「労組が企業倫理監視を」を読んだ。今の組合は「経営者サイドの組合が実態」との指摘通りであり、特に総評から連合になって以来その感が強い。
 かつて春闘で毎年私鉄がストライキで闘ったが、今や新聞に「ストライキ」の字を見ることもない。労組役員体験が出世コースになっている御用組合も少なくない。
 企業は能力主義、成果主義と言いながら正社員とパート、派遣などの「同一労働同一賃金」は守っていない。そして、終身雇用も年功序列も終わりと言うなら「企業別労組」はナンセンスであり、この企業別労組が御用組合の原点である。職種別、職能別労組に再編成すべきだと思う。

 

【2012年】

 

 「過労死から労働者守れ」(12.5.28・東京新聞「ミラー」)

 

 居酒屋チェーンを展開するワタミフードサービスに入社し、わずか2ヶ月後に自殺した26歳の女性が労災に認定されたが、ご家族の悲しみはいかばかりであろうか。17日付本紙が、その実態を明らかにした。
 女性を過労死に追い込んだ時間外労働は労働基準法で、会社と労働組合もしくは従業員の過半数の推薦で選ばれた代表者との合意で協定を結べば認められる。しかし、同社はこの手続きを踏まずに役所に協定届けを提出していたのである。
 記事でも指摘しているように、こんな会社は同社だけではない。今や労組の多くが御用組合のうえ、労働者派遣法の成立で、労働者の多くは正規雇用されず、派遣やバイト、パートなどの使い捨て状態で、到底労働同条件を会社に要求できる状況にはないのである。
 仕事の内容も配属先も会社のご都合次第で、非正規雇用者に社員と同じ仕事と責任を負わせながら「同一労働、同一賃金」を守らないため、安定した生活さえ成り立たない。この結果、結婚も諦め自暴自棄やパラサイトになる若者が発生するのは当然である。
 記事にある原宏之弁護士の「労基局や労働組合が守らず、誰が労働者を守るかの」との発言に同感である。しかし、労組には既にストライキを打つ力もない。国際社会で「カローシ」がそのまま通用し、10年間で自殺が30万人を超える社会が先進国・日本の実態なのである。
 労働者を保護すべき労働基準局は何をやっているのか。政府と企業に労働者を「人間」として扱うよう猛省を促す。


【2014年】


「労働者は奴隷ではない」(2014.11.21『週刊金曜日』)


 東京地裁(山田明裁判長)は11月4日、24歳で自死した青年の「過労・パワハラ自殺 」を認定した。「カローシ」は翻訳が要らず通用し、11月から「過労死防止法」なるものが施行されることを、政府は「恥ずかしい」とは思わないのか。僅か24歳で大事な大事な息子を、死ななくてもいい「自死」で亡くしたご両親の悔しさ悲しさは如何ばかりかと思う。

 会社側は「他にも原因がある」と主張したが「長時間労働やパワハラ以外に原因はない」と断定されたのである。名ばかり管理職やサービス労働など労基法違反は日常茶飯事であり、厚労省や労働基準監督署は何をしているのか!

 「労働者派遣法」が労働者の身分・生活を不安定にしたが、キャノンの御手洗富士夫氏は経団連会長時代に『雇用の調整弁』と評価したが、調整された労働者はどう生きていくのか。

 企業・経営者は労働者を人ではなく単なる「労働力」としか見ず、少しでも安く目一杯効率よく働かせるのが目的である。阿倍首相は「会社が儲かれば賃金も上がり消費が増える」と戯言を言っている。バスの車掌が居なくなったのも、鉄道に改札や出札係が居なくなったのも、無人電車の運転や無人駅も「人が足りないから」ではあるまい。最低の人数で最低の賃金で働かせるのが経営の鉄則である。

 首相は今春闘でも賃金が上がったというが、それは輸出中心の大企業だけであり、しかも、それは物価上昇に追いついていない。儲かっている企業の法人税を減税して赤字の中小企業にまで外形標準課税を強いて、ベアも無い年金や生活保護所帯は円安で食料品などが上がり、より生活が困難になり格差が開きその固定化が進んでいるのである。