【1976年】

 

「ニセ電話事件国民こそ迷惑」 (76.10.18・朝日新聞「声」)

 

 ロッキ-ド事件に現職の裁判官が間接的にせよ、積極的にかかわっていたという今度の「鬼頭事件」には心から驚かされた。ロッキ-ド事件そのもの同様、重大な事件ある。
 ロッキ-ド事件そのものは金と企業と政府との関係であり、決して認めるわけではないが、考えられる話である。しかし「鬼頭事件」は決して考えられる話であってはいけないのである。鬼頭氏は「責任を感じ進退を考えている」とのことであるが、とんでもない話である。責任を感ずるなら、疑惑を明らかにした上で責任をとるべきである。民間会社で、仕事のミスから辞めるのとわけが違う。鬼頭氏は裁判官の立場というものを全く考えていないようである。テ-プの入手先は迷惑をかけるのでいえないとのことだが、ロッキ-ド事件同様個人の迷惑より国民全体がこの事件のためにいかに迷惑をうけているか考えていただきたい。
 人間が人間を裁く、それは大変なことである。しかし法治国家においては裁判権は一番に信頼し、信頼されなくてはならない。この事件のために裁判所が信頼されなくなったら大変である。それは法治国家の崩壊にもつながることになる。少なくても、この事件は裁判所の信頼を傷つけたことは確かである。司法の信頼と威信を守るため最高裁は事情聴取に終わらせず自らの手で徹底究明すべきである。また国会、検察当局、マスコミも事件究明に努力を願いたい。


【1983年】

 

「秦野法相発言やなり不適切」 (83.11.19・毎日新聞「読者の目」)
                       
 先日、秦野法相の発言について「歯に衣を着せぬ小気味良さ」「根が正直なのだと親しみすら覚えた」との主婦の発言があった。私も自分の考えを堂々と言い合うことには賛成です。だからマスコミがたたこうと、野党が追求しようと自分の考えを発表することは大いに自由です。時には辞めるのを覚悟で発言する必要もあるでしょう。
 しかし、今回の法相の発言はその内容に問題があります。政治倫理を否定する発言は国会議員として、ましてや法相として妥当性を欠きます。現実を肯定するのみならず、そのままでよいというような発言は許されない。法相としては前向きに努力する姿勢を示さなくてはならない。「現実をそのままで良い。理想を述べても仕方がない」というような理想をなくした人間など法相の資格が無いのは当然です。
      

【1984年】

   

「国に過失なくなぜ冤罪に」 (84.6.29・朝日新聞「声」)
                            
 冤罪の米谷四郎さんに、国家賠償が認められなかった。その東京地裁判決の中で、一つだけ納得がいかないのは、自白の任意制を追認したことである。再審で無罪確定時に、その任意制は結果的に否定されたはずである。
 やってもいないのに、強要や誘導なくしてだれが自供するだろうか。それを見抜けなかったのは当時の裁判官の責任であり、そして、いまなお自白重視の捜査や裁判が行なわれている証拠でもあろう。
 裁判官は被告の誤認起訴などを配慮し、白紙の状態で接しなくてはならない。それなのに、無実の人が起訴されてくるとは思っていない傾向があるのではなかろうか。
 いま問題になっている代用監獄での取り調べ、弁護士立ち会いのない自白調書の有効制、そして、冤罪が確定しても捜査当局や検察などだれもその責任を問われないこと・・・この3点が続く限り、今後も冤罪事件は発生するだろう。 

    

「裁判所にも責任の一端が」 (84.12.1・読売新聞「気流」)

 

 また危うく殺人冤罪事件が熊本で発生するところだったという。裁判所が警察を信用しないようでは困るが、警察を信用し過ぎて、請求されるままに逮捕状を出している安易な傾向はないだろうか。結果として、裁判所も責任の一端を担うべきである。
 冤罪の原因は、別件逮捕と見込み捜査、そして本紙社説の指摘する代用監獄制度である。先進主要国では、被疑者を逮捕して拘束して取り調べができるのは、数時間から数日である。。つまり、逮捕が捜査の締めくくりであり、終了なのである。
 しかし、日本では別件等で逮捕して自供をとり、その裏付けを取る。逮捕は捜査の始めであり、四六時中20日以上にわたり、代用監獄の名の下で警察に拘束されている。
 今回の熊本の場合、自供の裏付けが取れず、物的証拠もなく、真犯人が浮かんだため令状の執行はされなかったという。これは非常にラッキ-であった。警察当局は猛省し、今後に生かさなければならない。そして、一日も早い代用監獄の廃止を願う。


【1985年】

 

「法で死の判定強制に反対」 (85.4.7・朝日新聞「声」)
                            
 3月26日付論壇、落合武徳氏の「脳死は国民の多くが認知」に反論する。私は腎臓移植等が多くの人に福音を与えていることを認めるとともに、脳死を「死」として認める者だが、脳死を法的な認知として死の判定を一律に強制されることには反対である。
 また氏は「脳死が 100パ-セント生き返ることのない死であることは、化学的、客観的事実である」と言う。しかし、その見方は人を人間として見ず、物として見る見方である。理屈としての死は理解してもなかなか割り切れない、それが心を持った人間の心理であろう。先進諸国で認知されていても、文明も宗教も死生観も違うのである。
 脳死を認める前に、人口呼吸器の使用をやめ、自然死を採るべきである。人口呼吸器が脳死をつくり出している。それは救命のためではなく、臓器保存のために使われることになる。
 私も氏の言う通り臓器提供希望者の自己決定権まで否定するつもりはない。脳死を死の判定とするよう国民の合意を得る努力はしなくてはならないが、決して急いで立法化などによって、死の判定を強制してはならない。

 

「納得できない鬼頭氏の復権」  (85.4.15・朝日新聞「声」)

 

 ニセ電話事件の鬼頭元判事補の法曹資格回復請求にお対し、国会の裁判官弾劾裁判所では支持する意見が多数を占めてた模様であるという(6付社会面)。
 私は納得できない。当時、鬼頭氏の行なったことは過失ではなく故意、しかも裁判所の中立制や独立制、そして、信頼性をも左右する重大な事件であったことを忘れてはなるまい。
 8 年たとうと、10 年たとうと時効になる筋のものではない。氏の社会復帰は何も法曹界でなくてもできるし、氏に法曹界に戻る資格はない。当時から氏は一貫して「電話の主に関しては迷惑をかけるので言えない」と言ってきた。しかし、一番迷惑を受けたには国民であった。
 なんでこんな思想、考えの人に法曹資格を与えなくてはならないのか。なんのための罷免だったのか、世の騒ぎの収まるのを待つ一時的なものだったのか。日本人は熱しやすく冷めやすいと言うが、私は鬼頭氏の資格回復に断固反対する。

 

【1986年】

 

「弁護士の信頼自らの手で」 (86.5.24・毎日新聞「みんなの広場」)

 

 日弁連が、過日の司法研修所卒業試験不正8人のうち、弁護士登録希望した7人の登録申請を留保したという。私はこれを支持する。
 人が人を裁く・・・それは並大抵のことではない。だから法曹資格には公正さが要求される。最高裁は、もう一度試験の機会を与え、そのうえで認めるべきであった。
 不正の8人が、もし裁判官を希望したら任官したであろうか。恐らく不採用であろう。 弾劾裁判所が鬼頭元判事補に法曹資格を戻したのも、私には理解できない。「裁判官や検察官は駄目でも、弁護士ならよいのか」と言う声は当然である。三者は同一資格である。弁護士は一ランク下と見られるのか。
 先日、四億円詐欺で弁護士が除名になったばかりである。弁護士会自らの倫理自己規制が。唯一の独立と信頼を守る道であろう。

 

「量刑の東高西低統計で論じるな」 (86.11.27・読売新聞「気流」)
                            
 19日付「量刑が東高西低であり、甘い裁判は犯罪者を増長させる」に反論したい。裁判は法律と裁判官の良心によってのみ行なわれる。量刑が東高西低とは、その結果である。「同じ憲法や法律に拘束されて、なぜ大阪だけ量刑が軽いのか」と言うが、事件や犯罪の内容、状況はすべて一つ一つ異なっている。「同じ憲法、法律なら量刑も同じ」と言うなら裁判は必要なくコンピュ-タ-の一台もあればいい。
 私は、死刑廃止には反対だが、「甘い裁判は、犯罪者を増長させる」にも反対である。刑を重くすればよい、いうものではない。やはりケ-ス・バイ・ケ-スであろう。そして、もし量刑が不満なら、控訴や上告の道も開かれている。
 統計を基準に論じる問題ではない。裁判官、検察官、弁護士が真剣に取り組んだ結果であるなら、尊重すべきであると思う。 

 
【1987年】

 

「脱税”弁護士信頼の回復を」 (87.2.17・読売新聞「気流」)
       
 申告に疑問のある弁護士の所得調査とはいえ、その9割もから合計19億6千万円、一人平均400万円もの申告漏れがあったという。サラリ-マンの平均年収を超す。
 しかも、この数字は、東京国税局のほんの一部の調査結果なのである。弁護士とは「社会正義と基本的人権を守る仕事」と心得ていた私の常識はもう通用しないのであろうか。 弁護士は、その独立と権力の介入を防ぐため、弁護士会を設け、加入を義務付けているが、このような”脱税”が続けば、明らかに社会的信用は落ちてしまう。日弁連はどう考えているのか。


【1988年】

 

「園児暴行犯人逮捕に全力を」 (88.3.11・毎日新聞「みんなの広場」)
                       
 兵庫県で5歳の幼稚園児が、見知らぬ男に連れ去られ、衣服に火をつけられ大やけどを負った事件があった。園児は自分で近くの飛び込んで火を消し、倒れていた。まだ5歳の園児である。
 こんなひどいことがあるだろうか。この園児は、事件による心と体の傷を一生背負って生きて行くことになる。純真無垢な子に、こんな残酷なことをした犯人に心から憤りを感じる。
 犯人はまだ捕まっていない。兵庫県警は全力をあげ、絶対に犯人を逮捕してほしい。それが再発防止にもつながることになる。

 

「現行証言法でなぜ喚問しない」 (88.10.20・毎日新聞「みんなの広場」)

 

 リクル-ト前会長の江副氏に対する臨床質問は、結局”子供の使い”に終わった。
 氏は譲渡を認めない人には「存じあげない」、認めた人には「そう発言しているとすればその通りだと思う」と二通りの発言をしている。そして、「氏名を公表すると辞める人や、バツの悪い人が出る」、「発表するなら死んだほうがいい」と言う。それが氏の言う「経済人の真義」というものなのか。
 「決算対策で他意はなかった」というなら、なぜ公表できないのか。安定株主対策といいうなら、なぜほとんどの人が上場直後に売却したのか。しかも譲渡資金丸抱えをどう説明するのか。そんな人たちにキャピタルゲインをうんぬんする資格があるのか。
 野党は引き続き氏の承認喚問を要求しているが、自民党の阿部幹事長は「議員証言法が改正されない限り応じない」と公言している。ロッキ-ド事件も豊田商事事件も、現行法で承認喚問した。首相をはじめ、党三役や現行閣僚に疑惑がもたれている場合は、法改正後でなくては応じないというのか。こんな政治倫理の逸脱を許してはならないと思う。 
                           
「盗聴に次いで隠し撮りとは」  (88.11.25・毎日新聞「みんなの広場」)
                      
 電話盗聴事件の後、今度は共産党本部のVTR隠し撮りが発覚した。公安当局は、その事実を認めながらも「なんら問題ない」と広言している。それなら隠し撮りなどせず、なぜ堂々と行なわないのか。
 それどろらか、事件が発覚すると、証拠保全の仮申請がされているにもかかわらず、まるで証拠隠滅を図るかのように機器を持ち出し途中で通行人に骨折まで負わせたという。 暴力集団でもない公党に、こんな国家権力の行使が許されていいのか。先の電話盗聴事件も、警察のかかわりを認めながらも、結局不起訴に終わっている。こんなことがまかり通る国が、本当に民主国家なのだろうか。
 同様な電話盗聴を一般人が行なった場合のは、有罪判決が出ている。それが国家権力なら許されるのか。私は民主主義を守るため、公安当局に抗議する。そして、この告訴、告発の行方をしっかり見定めたい。


【1989年】

 

「誤判をうんだ不自然な証拠」 (89・4・26・読売新聞「気流」)
                           
 ひき逃げ事故発生ら14年、遠藤被告の無罪と下級審の誤判が確定した。遠藤さんが疑われたのは、第一発見者の前を走っていたという推測だけであり、検問時には何の異状も発見されず、二日後、乗っていたトラックのタイヤに人血らしい不着物があった、という非常に不自然な証拠である。しかも、その不着物は、タイヤ側面からホイ-ルにかけて付いている。車でトマトやカボチャを踏んでみるがいい。決してホイ-ル方向までは付着せず、証拠捏造の疑いさえある。その上、人血でない可能性が強く、そのタイヤの証拠保全の処置も取らなかったという。
 検察は、この不思議な証拠と、「ショックがあったような気がする」と言う自供を基に、すれ違ったバスの運転手のアリバイ証言を排除して起訴したのである。
 給料を注ぎ込んでも足りず、借金をしながらの裁判であり、その間、執行猶予の言葉に何度も惑わされたという。冤罪で青春を棒に振った遠藤さん。今後の人生、きっと幸せでありますように。


【1990年】

 

「下田缶ビール事件捜査当局にも責任」 (90.3.30・「裁判と科学」第5号)

 

 下田缶ビール事件で、嘘偽の目撃証言者に対し損害賠償が認めら れた。安易な証言、証人を戒めるためにも当然である。「似ている、・・・だろう」の表現は往々にして警察には断定の表現と受け取られる。
 この判決で納得のいかない点がある。「捜査機関は裏付け捜査も一応行っており、責められるべき点はない」と判決は言う。裏付けは一応では困り、確信を持たなくてはならない。
 警察は当時、被疑者の言い分やアリバイ主張を聞く耳を持たなかった。前日、阿佐ケ谷の銀行で預金をし、事件当日は杉並電話局へ移転申し込みに行ったのである。当然「移転申込書」という物的証拠が残っていた。
 しかし、被疑者の言い分は無視され、目撃証言を鵜呑みにしたのである。警察はなぜ、被疑者のアリバイ主張を確認しなかったのか。電話局への電話一本で、この冤罪は防げた
はずで捜査のずさんさにも一因があり、猛省を求める。服役後、自ら真犯人を見つけ非常にラッキーであった。普通ならそのまま濡れ衣を着たままであろう。請求されるままに
逮捕状が発行されている現状にも問題がある。
 私は、冤罪に関心の薄い人には、よくこの「下田缶ビール事件」を話します。非常に説得力があると思うのです。
 多くの冤罪に関心のない人は、まず、「やっていないのになぜ自白する。民主主義の今の時代に自白の強要はありえない」と言いまず。そして「冤罪なら他に真犯人がいるはず」
と、真犯人が捕まらないと冤罪であることを信じたがりません。しかし、この事件を知れば納得させられるのです。
 被疑者のアリバイ主張に耳を傾けず、自白偏重の捜査が続けられています。それを後押ししているのが代用監獄と別件逮捕です。そのうえ冤罪が晴れ無罪が確定しても捜査当局も裁判所も何の責任を間われないということでず。
  私は、朝日の紙面でこの「裁判セミ」を知りました。読んでみて冤罪を身近に考えさせらるいい本だと思いました。大きな冤罪を扱うことも必要ですが、小さな身近な冤罪を知らせることも大切だと思いまず。缶ビール事件はその典型でず。
  酒を飲んだためにミニバィクを転がし、途中用足しのため電話ボック一スに入り、出てバイクを転がし始めたら、ミニバイクのエンジンが冷たいにもかかわらず、酒気おびで捕まった話など、日常生活にいくらでもありそうな話でず。
  身近な事件を多く載せ、何よりも多くの人に冤罪に関心を持ってもらうことも大事だと思います。第4号は特集のためありませんでしたが、是非続けて欲しいと思います。
  次号からの「裁判と科学」の発行を楽しみに待っています。できたら年4回の発行をとも思いますが、無理をしないで、廃刊などにならぬよう続けることが大切だと思います。

 

「取材の制限心配」 (90・5・26・読売新聞「気流」)
                           
 取材方法が批判されるのは当然だが、テ-プを証拠として押収されるのとは別問題で次元が違う。取材の自由は知る権利、つまりは言論表現の自由に結びつき、それは取材側と、される側との信頼関係によって保たれる。
 それを証拠として押収されたならば、その信頼関係がくずれ、今後、取材が制限さえることになりかねない。
 今回はデモや騒乱罪のような不特定多数を対象とした事件ではないことを考えれば、なおさらであり、警察はマスコミに頼り、テ-プを安易に証拠として押収することなく、自らの努力で証拠収集をすべきである。

 

「テ-プ押収は取材の信頼崩す」 (90・7・27・毎日新聞「みんなの広場」)
                       
 24日付「テ-プ押収認めぬ社説に一言」の高田氏に反論する。
 氏はテ-プ押収について「如何なる利益を侵害するかであり、今回の押収に付いて何等の不利益はない」と言うが、報道の自由とは取材する側とされる側との信頼関係があって始めて成り立つのであり、このような押収が安易に続くならその信頼関係が崩れることになり、取材が困難になってくる可能性がある。そしてそれは報道言論の自由という重い問題にかかわってくるのである。
 押収の是非はテ-プの中身とは関係なく、押収自体の是非の問題である。報道言論の自由は公権力の介入を許してはならず、それ故に自己、自主規制し公権力の介入を防がなくてはならない。TBSの今回の行動はそれを裏切った行為であり、そのために公権力の介入を招いた責任は重大である。
 そして、今回の事件はテ-プを押収しなくても十分特定できる事件でもあり、取材側に幾らでも捜査協力を求めることもでき、またその義務こそある。現にテ-プ自体を検察は証拠申請しなかった。

 

「梶山法相の罷免を要求」 (90・9・29・毎日新聞「みんなの広場」)
                       
 人件を守る立場の法務大臣が、新宿繁華街視察の印象を「アメリカにクロが入ってシロが追い出されるというように」と例えた発言をしたと言う。
 原住民のアメリカインディアンを追い出し、居留地に閉じ込めたのは誰なのか。そして、多くの黒人は祖先が奴隷として大陸に送られ、悲劇の生活を送ってきたのは子供でさえ知っている。日本でも北海道のアイヌの人々を内地人に同化させたのは誰なのか。そんなに日本人と白人だけが優秀なのか。黒人も白人も同じ人間であり、先進国と言われる我々は彼らや途上国の人々の犠牲の上に富と教育を得てきたことを忘れている。
 梶山発言は中曽根元首相の放言と同じ次元であり、法務大臣ともあろう者が釈明して済む問題ではない。このような人物は到底人件を守り強権発動もできる法務大臣には値せず、私は罷免を要求する。

「司法の完全独立はいつの日か」  (90・11・21・毎日新聞「みんなの広場」)

 本紙の連載「検証・最高裁判所、百周年の司法」が終わった。私は裁判の裏側も見ることができ、知らなかった多くのことを学んだ。最高裁には報道して欲しくない多くのことがあったに違いない。私は改めて日本の裁判・司法が独立していないことを確認した。  最高裁は自衛隊に対し統治行為論を盾に、自らの使命である「違憲立法審査権」を放棄してしまったのは、最高裁自身の存在意義を問われる重大な責任回避である。
 また、人事、査定の問題、司法行政との癒着、裁判官協議会による「行政局見解」の弊害など多くの問題を含んでいる。
 憲法76条第3項には「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみに拘束される。」とあるが、現実にはその他の圧力や拘束される多くのものがある事実を、我々は認めてはならない。
 裁判は法律や判例を適用するだけなら裁判官は必要なく、コンピュ-タ-の一台もあれば十分である。


1991年】

 

「接見交通権の認容判決を評価」 (91.05.15・読売新聞「気流」)
                           
 被疑者との接見交通権を侵され国家賠償を求めていた裁判で、最高裁は二審を支持し、国の上告を棄却した。この判決を評価したい。
 もともと弁護士と被拘禁者との接見は、刑事訴訟法第三九条で保障され、)同条第三項は例外として「捜査のために必要がある時」と限定して、別の日時を指定できるが、その場合でも「被疑者が防御の準備をする権利を不当に制限するようなものであってはならない」とクギを刺している。
 しかし現実の捜査当局の法運用は、逆に「原則禁止で、例外として接見を認める」状況になっている。弁護士さえ自由に会えず、接見は数十分であるともいう。その間、被疑者は法律上の暫定措置である代用監獄の下で長期間拘禁され、その逮捕も別件逮捕という手段が日常的に行われ、これが、えん罪と自白強要の温床になっている。
 このような接見交通権の侵害は、明らかに、人権侵害であり、捜査当局はこの判決を戒めとして、今後、えん罪防止と被疑者の人権尊重に生かす義務がある。


【1992年】

 

「日経新聞の質問 検察は誠意示せ」  (92.02.05・読売新聞「気流」)
                           
 本紙社説でも取り上げたが、イトマン事件公判の冒頭陳述で、検察は、日本経済新聞社内の協力者にマスコミ対策として一千万円が支払われたと指摘した。それに対し、同社は社内調査の結果、そのような人物は存在せず、また社内には検察に事情聴取された者もなく、検事総長にその証拠または人物を特定するように意見書を提出したという。
 言うまでもなく、このような疑惑を法廷で、新聞社を名指しで指摘することは検察の信用が高いが故に、新聞社の信用に重大な影響を与える。報道機関としては信用が財産であり、報道の根幹を揺るがすものである。
 検察には同社の質問に誠意をもって至急こたえる義務があると私も思う。報道の信頼性を保証するためにも必要である。

 

「『議員証言法』の改正が必要」 (92.2.14・東京新聞「発言」)

 

 リクルiト事件をきっかけに、88年に議院緒言法が改悪され、その後、証人喚問は紙芝居になった。多くの国民はこの状態を見て怒っている。
 音がよくて映像がなぜ悪いののか、国民の知る椎利がクローズアップされている今日、この措置は代逆行も甚だしい。
 いままたに共和、佐川事件で証人、参考人喚問が野党から求められている。共庫党の発議により、議員制度協議会で検-訂することになったが、ぜひこの機会に元に戻すことが必要である。
 嫌疑を受けている政治家は、自ら正々堂々と国会で答弁すベきであり、中よた国会は憲法で保障された国政調査権を行使し、刑市'事件とは別に政治倫理の面から追求する義務がある。なぜなら官憲は法律に基づかない犯罪は関知せず、逆に国会法はその第15条の2により政治倫理の遵守義務が課せられているんである。

 

「代用監獄は冤罪の“温床”」 (92.03.28・読売新聞「気流」)

 

 福島地裁いわき支部は二十五年前の殺人事件で無期懲役確定、二十年服役した斎藤さんの再審開始を決定した。この事件も冤(えん)罪の典型的パターンである、別件逮捕、代用監獄での自白の強要、そして自白調書の証拠採用という軌跡をたどっている。
 警察の留置場は、あくまで代用であって、被疑者は本来、法務省管理の監獄(拘置所)に収容すべきだが、現実は四六時中、捜査官の手元の留置場に収容されるのが現実で、これが自白強要の温床となっている。
 警察に二十三日間もの長期にわたって身柄拘束を認めているのは、先進国では日本だけであるが、政府はこの制度を恒久化しようと法改正すら進めているのである。
 今回の事件も裁判が憲法の「疑わしきは罰せず」の趣旨を逸脱していることを証明している。別件逮捕、代用監獄、自白調書の証拠採用が続く限り、冤罪は続くであろう。

 

「法律違反を厳しく追及しない検察
        国民の期待にこたえ社会正義貫け」  (92.10.1・東京新聞「ミラー」)

 

 佐川事件で検察は金子前知事は起訴する一方で、金丸氏は事情聴取もせず略式起訴したが、これは差別である。いずれも政治資金規正法違反だが、2人の差は金子側は報告したがうその報告をし、一方の金丸側は報告せず金額も違反である。
 つまり、うその報告より報告しない方が罪は軽いということである。それなら報告せず罪を認め罰金20万円を払って一件落着の方がよかろう。どうせもらった金、返せと言われる心配もなく、みらい得である。
 また、金丸氏の受領の5億円の行方や渡部社長から11人の政治家は渡ったと言いわれる22億円のヤミ献金、自民党新潟県連経由で知事選に使われたとする2億円の行方も、立件見送りの方針というが、これも差別である納得できない。
 金丸氏から政治家へ渡った金も政治資金規正法違反(無報告、金額違反)であり、渡部社長から11人の政治家に渡ったという金も同様で処分されるべきである。また、県連経由での2億円は選挙費用に回らず、一部または全額が県連幹部にネコババされた可能性もあり、県連には大物政治家がかかわり、それを検察が意識して避けた可能性もあり、これを追求しないのも差別である。
 そんな中で、金丸氏の不正について、政府・自民党はじめ閣僚の多くが批判、反省どころか、意外とか残念に思うとの発言が相次ぎ、腐りきった日本の政治を物語っている。
 渡部郵政相は「大政治家、大先輩のことでコメントできない」、奥田運輸相は「ザル法といわれる政治資金規正法に問われるのは残念だ。これまで秘書が盾になってきたのに」と公然と述べ、さらに鳩山文相に至っては「前例のないけじめのつけかた。男の中の男」と褒め称えうる始末である。
 いかに名誉があるうとも悪いことは悪く、法律違反は違反であり、政治家は特別に人間でも特権階級でもなく、検察は国民の声に応え社会正義を貫くべきである。
 また首相は何を聞かれても「聞いていません。ノーコメント」との態度は、国民を愚弄するものであり、卑怯である。

 

【1993年】

 

「当番弁護士に予算措置を」 (93.8.29・東京新聞「サンデー発言」)

 

 9日付″特報面″「当番護士財政ピンチ」にもったように、日本の国選弁護制度は起訴後でなくてつかないが、人権保護や冤罪防止のために身柄拘束から起訴までの弁護士との接見が非常大事である。
 冤罪に関心のな人は、「この自由な社会でなぜやていないのに自するの?」と言人が多いが、多く冤罪は起訴前の段階の取り調べで自日を強要されているのであ
 古くは吉田岩窟(がんくつ)王から弘前大授夫人殺人に松川事件、新しくは下田-缶ビール事件、綾瀬母子殺人など冤罪は数え切れないほどある。
 下田缶ビール事件というは、缶ビールたった20ケースの詐欺事件で、電話移転申込書というアリバイと根拠がありながら無視され、やっていない犯罪を自供させられ、服役後、自分で真犯人を見付けた事件である。
 大分弁護士会で始まった「当番弁護士制度」は人権と冤罪防止に大きく役立ち、いま全国に定着しつつある。それが財政難と問いて国は動かないのだろうか。
 幸い今、政権交代が実現し、イデオロギーに左右されてはならない教育と司法に民間からの大臣が実現した。私は新大臣にこの当番弁護士制度への国の予算措置を望む。
 当番弁護士の本場イギリスでは、被疑者が特定の弁護士を知らない場合は捜査当局は当番弁護士への連絡義務があり、その費用は国費で賄われ、その金額は80数億円余りで、起訴後の費用を合わせると500億円を超える。被疑者や被告の防御権保障のために納税者が支払う負担は日本の45倍であるという。
 しかも官憲の身柄拘束は24時間以内で、自白強要防止のため取り調べはすべてテープ録音される。しかし、これは何もイギリスだけではなく、日本の人権感覚は多くの先進国に比ベ大きく遅れている。

 

「冤罪への賠償判決を高く評価」 (93.04.23・読売新聞「気流」)
                           
 殺人の冤罪(えんざい)が確定した原告の国家賠償請求に対し、鹿児島地裁は国と県の過失を認める判決を下した。
 真犯人が現れた「弘前大教授夫人殺人事件」でさえ、最高裁は「捜査当局や裁判所に重大な過失はなかった」と国家賠償を認めなかった。しかし、「重大な過失」がなくて、なぜ冤罪が存在するのか。
 今回の判決は「三か月に及ぶ別件逮捕のうえでの長期間の取り調べは任意捜査の限度を超えている」と批判している。別件逮捕は当局がしばしば使う手であり、長時間の身柄拘束が、冤罪を生む原因の一つになっている。
 捜査当局に猛省を求めるとともに、この戒めを冤罪防止に生かして欲しい。そして、冤罪の悲劇は本人だけでなく、家族にも及ぶことを認めた今回の判決を高く評価したい。
【1994年】


「当番弁護士制公費で負担を」 (94.4.25・朝日新聞「埼玉版」)


 冤罪に関心を持つ市民として「当番弁護士」5月10日~13日付第二埼玉版)の連載を嬉しく読んだ。
 関心のない人は「やっていない人がなぜ自白するの?じゃあ真犯人はどこにいるの?」と、真犯人が捕まらないとなかなか冤罪を信じたがらない。当番弁護士制度は冤罪を防ぐために期待されている。
  冤罪防止には、身柄拘束から起訴までの問(最大23日、欧米では数時間から数日)に、弁護士と接見することが非常に大事だが、今までは十分に実施されたとはいえなかった。しかし、本人が容疑を否認するなど冤罪の可能性を報道で知った場合、要請がなくても、自ら出向く「派遣弁護士制度」も普及しつつある。このような制度つある。このような制度がより充実するよう、多くの人に知っもらいたい普思う。
 そして、善意に頼るほかない資金不足のこの制度には、英国のように公費負担を実現すべきだと思う。人権に公費を使うのは当然である。ちなみに英国では原則として弁護士接見まで取り調べができず、自白強要を防ぐため取り調べの一部始終をテープ録音している。

 

「許せない裁判官の選別」 (94.6.4・「組合新聞」)


 去る4月6日、最高裁は司法修習を終了した裁判官志望の神坂氏を仕官拒否し、その理由を問われ「採用は一人ひとりの個別的な審査によって決まり、偶然今年一人出たということだ」(四月七日付「朝日」) とコメントしたが、裁判官の不採用が「偶然」で行われていいのだろうか。
 いで行わ
 報道によれば、研修所の教官に5回にもわたつて翻意を迫られ、自宅にまで電話され「裁判官には向かな、推薦状は書けない」などの嫌がらせや圧力が公然と行われだが、これが日本の裁判所の現状である。
 本人は「蓑面忠魂碑訴訟(母親が原告団長)やPKO派遣反対などに関与したのが原因では?」いうが、それは思想信条による差別であり、国を裁判に訴えるような親の子は裁判官になれないというのか。翻意させる必要はなく、不的確ならその納得できる理由を公開すべきであり、彼の成績な
ら何ら問題ないことは当局や仲間が認めている。
 社会にいろいろな人がいるように、裁判官にもいろいろな考えの人がいなくてはならず、このように一方的価値観で裁判官を選別するなら、裁判を行う以前に正当な裁判が行われるわけがない。
 1971年、宮本元判事補が青法協に加入している理由(推定)で再任拒否され、また長沼ナイキ訴訟で自衛隊違憲の判決を下した福島判事は、その後冷遇され嫌気をさして89年9月に依願退官したのである。
 裁判官は自らの「良心に従い憲法及ぴ法律のみに拘束され」、その身分を保障するためにて弾劾裁判によらなければ罷免されない」と憲法に記されているが、実態はのように任官拒否や、拒否によって裁判官の選別が行われているのである。
 英米などの裁判官は、護士から選ばれ転勤もなく、「1官職1俸給」で地位お昇進による昇級も転勤もなく、専門職として独立し安心して判決を下せる(「陪審裁判/クオリティー出版」が、日本の裁判官はサラリーマンであり判事補、判事、所長、そして地裁、高裁、最高裁と出世したければ上司や最高裁人事局に、にらまれない判決を出さざるを得ない実態がある。
 そもそも、裁判官は憲法で独立が保障され上司はいないはずであるが、実態は上司などに人事評価され全くのサラリーマンなのである。
そして、再審で冤罪が確定しても、「裁判に過失はなく、故意ではなかった」(過失がないのに冤罪が発生する?)と国家倍書を認めない。勤務中、」交通事故死した自衛隊員をクリスチャンの妻の反対を無視して一方的に護国神社祀っても、「貴女に参拝を強要しないのだから信教の自由には反しない」、そして参院選では「1票の格差が6倍を超えても違憲ではない」・・・など、これが最高裁の判決であり、日本の裁判所が如何に権力追従であるかが分かる。

 

「法律の運用は状況に応じて」 (94.9.12・朝日新聞「埼玉版」)

 

 桶川市で病気がちの79歳の一人暮らし女性が、「クーラーを外さないなら生活保護を止める」と市に言われて外したものの、この夏の暑さで脱水症状を起して40日も入院したという。
 土地家屋や車なら「「換金して生活費に充てろ」ということもあろうが、保護開始前からついていたクーラーまで外させることはないだろう。中古のクーラーは外す手間賃は取られても、有料で引き取ってくれる場合は少なく、普通は監禁できない。
 法律は人間が運用するものである。一律に適用するはかりではなく、年齢や健康状態、家族状況などをなぜ考慮しなかったのか。市は「国の指導に従った」というが、無批判に上意下達することが正しいとは限らない。もしこの話がマスコミで伝わらなかったら、見直しはされなかったに違いない。
 ただ法律を適用するだけならケースワーカーなどいらない。個々の状況を自分で判断するとこそ、担当者個人の善意と良心に任された務めであろう。関係者に猛省を促したい。

 

「独立してない日本の裁判所」 (94.10.20・「教科書裁判ニュース」)


 「教科書裁判ニュース」317号に、今春裁判官を任官拒否された上坂直樹氏の手記が載ったが、彼の「任官拒否取消訴訟」を強く支持する。
 日本では、「日本は三権分立」と教えているがとんでもない大嘘である。
 憲法には裁判の公平性を維持するため、その78条で「裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を行うことができないとされた場合を除いては、公の弾劾裁判によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は行政機関がこれを行うことはできない。とその身分を保障している。
 しかし、そこには大きな落とし穴がある。上坂氏が体験した任官拒否と、かつて宮本判事補ななどが、青年法律家協会加盟の理由で、(推測)で再任されたことである。
 つまりこの任官拒否と再任拒否が憲法の理念に反し、裁判官の選別に利用されているのである。最低でも任官・再任拒否の理由を最高裁は国民に公にする義務があり、それでなくて裁判官の信頼性を得られない。

 

「下田缶ビール事件」 (94.10.20・「裁判と科学」)

 

 過日、体調を崩されたとのご返事いただき感じ取りましたが、「裁判と科学」が届き一安心しました。来年は古希を迎えたこと、くれぐれもご無理をなさりませんように。
 多くの人は冤罪に関心を持たず「冤罪の可能性がある」といえば、「じゃあ真犯人ははどこにいるのか?」と、犯人が見つからないと冤罪を信じず、また「この民主主義の時代に、なぜやっないことを自供するのか」と多くの人は言います。
 私はそんな人に、「裁判と科学裁判と価格で取り上げ、電話移転申込書というアリバイがありながら、缶ビールたった50ケースで、服役し自ら犯人を探しあてた「下田缶ビール事件」を例に説明します。
 編集後記を読み改めてハンセン病の悲劇を思い出します。死んだことにされた家族や肉親とも会えず、そっと死んで逝ったひとたち、あの瀬戸内の長島にもやっと橋が架かり、患者たちは、「人間回復の橋」とよ呼んでいるそうです。私も推薦の本などハンセン病の本もそんな中で、患者たちの治療と幸せのために働いた人たちの記録読み、本当に頭が下がりました。
 おっしゃる通り、人権を守り、冤罪を告発する弁護士が次々と現れることを期待したいです。やはり素人と違う専門の法律の力を大きく、人権や冤罪に関心を持つ市民とが力を合わせ頑張らなくてはならないと思います。
 経済改革とはいえその人権を三流です。別件逮捕で23日間にも渡RU身柄拘束、そして接見交通権の制限、冤罪確定後も誰にも責任を問われず、そのために緊張感のない安易な逮捕基礎や判決が行われます。
 イギリスでは知り合い弁護士がいなければ、捜査当局に当番弁護士に連絡する義務があり、または取り調べに弁護士が立ち合う権利があり、さらに取り調べ状況をテープに録音する義務があるといいます。何故に日本が人権三流校であるかがわかります。

 

「事務官に責任、疑問を感じる」 (94.11.6・朝日新聞「埼玉版」)


 川口簡裁の事務官が、事務処理の多忙から裁判名の印鑑を勝手に使って有印公文書偽造の疑いで懲戒処分になった。だが、事務官の処分だけで済むだろうか。
 浦和地裁所長は、「訴訟が大変で、ベテラン事務官だったこともあり、事実上任せてしまった」
と語っている。簡裁裁判官も書類に目を通さない無責任ぶりだ。事務処理の遅れは「本人の手際が悪かった」ですまされる問題ではない。事務官に任せにしながら、そのすべてM責任を事務官に覆い被せるのも疑問だ。私は簡裁所長の監督責任を問いたい。
 また法務省は訴訟事務の増加にもかからわかかわらず、簡裁の統廃合を進めている。私の住む小川町でも裁判所がなくなったが、今回のような事態を法務省はどう考えているのだろうか。


「裁判官の身分保障に落とし穴」 (94.11.11・「週刊金曜日」)


 本誌46号に今春裁判官任官拒否された神坂氏の手記と尾山弁穫士の手記が載ったが、私も神坂氏の起した「任官拒否取消訴訟」を強く支持する。
 記事によれば、提訴された東京地裁民事11部は口頭弁論も開かず抜き打ち的に却下しようとしたところ、裁判官忌避も申し立てがその直前で受付けられ取りあえず却下は免れたという。
 いうまでもなく裁判の公平・公正はを維持するためには裁判官の身分の安定保障が必要であり、憲法ははその78条で「裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執るとることができないと決定された場合を除いては公の弾劾によらなければ、罷免されない。・・・」とある。裁判官の身分保障は固く守られなければならず、その人事の公開を義務づけているのであり、その憲法の趣旨からそれは採用、再任についても当然適用され公開されなくてはならない。
 このように憲法にに裁判官の厳正な身分保障があるにもかかわらず、その実態は、神坂さんの任官拒否や宮本判事補の再任拒否という形で、現実には採用、再任の際に裁判官の選別が行われているのである。
 最高裁は際に、再任拒否の理由公開する義務があり、しれなくして裁判の信頼性を保てず、その是非を問うこのこの「任官拒否取消訴訟」を受けて立ち、国民の前でその是非と合理性を論議すべきである。
 そもそも訴えを棄却しようとした地裁11部の遠藤裁判長が、

 

「冤罪や陪審制度にもっと関心を」 (94.11.26・「組合新聞」)

 

 。11月11日、埼玉弁護士会主催の「陪審模擬裁判」が浦和市民会館で行われ、たまたま私は運良くその公募したが陪審員を体験することができた。
 日本の留学生が米国で射殺された陪審裁判で、無罪評決が出たりして陪審裁判を耳にされた方も多いかと思うが、日本の陪審制度は1943年戦争激化のため「停止」されたまま現在に至り、いま裁判の市民参加参加や冤罪防止のために、改めて陪審制度が注目されが最高裁も米国に裁判官の調査に向けている。
 日本の裁判は職業裁判官に任され、その裁判官は簡易、地裁、高裁と、また、判事補、判事、所長などと出世を狙うサラリーマン化しているためと公正な裁判が期待できない(上司や最高裁人事局が人事考課を行っている)という心配があり、現に憲法の「裁判官の身分保障」(78条)に反し任官拒否(今春の神坂氏など)やが再任拒否(青法協事件の宮本元判事補など)という形で裁判官が選別され、長沼ナイキで「自衛隊違憲」の判決を下した福島判事は、その後、家裁に左遷されされ、嫌気がさして一人前に退官したが、その理由を彼は「もう嫌になったからだ。長沼ナイキ判決後ずっと辞めたいと思っていた」(89.9.1「朝日新聞」)と言っている。
 陪審員は選挙に名簿などから無作為に選出された候補者の中から検察、弁護双方の忌避が認められ両者合意のメンバーで構成さる。しかも、有罪無罪の評決は「全委員一致」で協議が終われば解散し、陪審はその都度構成されるため、その評議がそれ以前や以後に何らかの関係影響与えることはない。
 日本で無罪判決が上級審で有罪に逆転することが許され、また合議の名の下に多数決で有罪にもなり、日本では、「疑わしきは罰せず」が通用せず、多数決や逆転有罪などということが許されている。上級審が正しいという根拠はなく、それは権威主義で有罪、無罪判決が別れたときは冤罪防止のため「被告人の有利」に判断すべきである。
 官憲は代用監獄(警察の留置所・本来法務省管理の拘置所に収容しなくてはならない)では自白の強要はもとより、証拠隠し(松川事件)、証拠デッアゲ(新潟津川町ひき逃げ事件)、証拠アリバイ無視(下田缶ビール事件)、アリバイ証言への圧力(綾瀬母子殺人事件)などがあり、今も冤罪を後を絶たないのである。
 欧米先進国は陪審制や参審制が採られ、何らかの形で裁判への市民参加が認められている。裁判を「お上がやること」と諦めず、市民の手に取り戻すため、多くの人に冤罪や陪審制度に関心を持ってほしいと思う。
 減税は、社会正義に反する裁判官に任せず、市民の常識と良心で判断したなら、「自衛隊合憲」などという結論は出なかっただろう。
 これも職業裁判官が良心を捨て判決の影響を配慮した政治判断の結果である。

 
【1995年】

 

「納得できない最高裁コピー判決」 (95.03.02・毎日新聞「みんなの広場」)

 

 大阪の主婦が「政治資金収支報告書」のコピー(写し)を求めた裁判で、最高裁が高裁判断を破棄し、コピーの交付を認めないことを合法としたことは到底納得できない。
 最高裁は、判決理由を政治資金規正法に規定がなく、なお自治省から「写しの交付はできない」との事務文書が出ているというが、規定がないということは、禁止していないということではないか。裁判所が行政の解釈を追認するのではなく、裁判所自身が判断しなくてはならない。
 しかも、「政治資金収支報告書」は既に公開されているのであり、閲覧や手書きのメモが許される中で、コピーを認めない理由は成り立たない。
 国や自治体の持っている情報は国民の財産であり、民主主義ではその情報公開が大原則であって、こんな最高裁判決は民主主義に反し納得できない。

 

「犯罪報道支援に抗議する」 (95.6.2 ・「週刊金曜日」)

 

 オウム真理教の麻原容疑者が逮捕されたが、今回の報道で冤罪に関心のある一人としてその報道主義に抗議したい。
 それは、まず「逮捕状をとる」とか、「逮捕状を用意して」という表現が力しきりに使われたが、官憲はあくまで「逮捕状請求する」のであり「取る、用意する」という表不適切である。逮捕状を発給するか否かは裁判所の判断であり、現在ほぼ請求されるものに「逮捕状自動発行機」と化している裁判所の現状を追認するようなの表現に抗議する。
 また「犯人隠匿逮捕」という表現も不適切であり、「容疑者」として逮捕状が発給されながら、その容疑者を匿ったらどうして容疑者が犯人になり「犯人隠匿」なのかか。刑法に「犯人隠匿罪」があろうとも、容疑者は法律、あくまで判決確定まで「無罪推定」であり「容疑者隠匿」でなくてはならず「犯人隠匿」の表現は間違っている。
 これは、挙げ足取りではなく、冤罪に関心のない人や一般の人に「容疑者と犯人と同一」と印象づけることになり人権上非常に問題である。
 更に、一般的に「逮捕状を用意し、容疑が固まり次第逮捕する」という表現を使われるる。容疑を認めたから逮捕状が発見されたはずであり、息逮捕できるのであり、逮捕状はこの現状がこのように、容疑が固まら固まらなくても請求されされるままに発給されている実態を市民にしてほしい。
 安易に逮捕状が発給されることは別件逮捕で身柄拘束され、「代用監獄」での自白を迫りその自白に基づいて証拠を集めるという本末転倒の捜査により冤罪を生む原因になる。
 容疑者はあくまで犯人ではなく「容疑者」であり、それはあの松本サリン事件でもその悔いが証明されているのである。

 

「被疑者の実名報道禁止を」 (95.7.12・東京新聞「発言スペシャル」)


 私は冤罪を防ぎ人権を守るため、被疑者の実名報道禁止を提言する。
 第三者には、どこの誰まで必要なく、「被疑者が逮捕された」十分である。被疑者の家族にも生活なり「間違いでした」では済まず、法律上も被告は判決確定まで「推定無罪」なのであり。被疑者の実名報道はすべきではない。
 松本サリン事件の高野さんは容疑者ではなく(実態は容疑者としても)逮捕も起訴もされていないが、なかには不本意な家宅捜索や逮捕され起訴猶予、起訴され無罪などという例が少ない。
 スウェーデンのパルメ首相が暗殺された時、国外では被害者の実名報道されたが、国内では匿名報道されたスェーデンの人権尊重の重さを感じる。


「司法試験制度の改革を」 (95.7.26・東京新聞「発言スペシャル」)

 

 17日付「こちら報道部」で、司法試験改革を取り上げたが、私は合格者を増やすべきと思う。日弁連は増やすことに消極的だが、これは希少価値の既得権確保が目的であり、弁護士も競争の自然淘汰でやる気のある良心的な弁護士を残すべきだ。
 裁判官や検察官も増やし、何十年もかかる裁判の早期判決の実現を図るべきであり、まさに「正義は時間と競争」なのである。
 また司法試験は資格試験だから合格者の数を操作することは間違い。ましてや事件回数制限などは言語道断である。逆に一度社会経験を積んだり苦労のうえ合格した人にこそ、司法資格を与えたいと思う。
 本来裁判官は専門職であり、年齢には関係なく人格のできた人にお願いしたものである。しかし、現実は出世も俸給も年功に比例した実態サラリーマンだ。
 種々国家試験がある中で、受験回数制限や受験回数での合否差別があるの司法試験だけであり、これが民主主義国の司法制度と言えるのだろうか。
 私は改めて言いたい、司法試験は採用試験ではなく資格試験であり、あくまで平等に行われ、差別があっていいはずがないと。そして司法試験にだった欠かせないのは、冤罪や人権を守るための法律扶助としての公費負担である。冤罪と人権を守るため、日弁連や各地弁護士会が努力し、彼らの善意や関係者の協力で、日本でも「当番弁護士制度」が定着してきたが、いまその善意の資金が底をつき、当番弁護士制度の危険が迫っている。
 司法改革は「人権」が善意に支えられるではなく、人権は国が保障すべきであり、当番弁護士や起訴前弁護の公費負担抜きに司法改革は語れない。


【1996年】

 

「人権と現在の理解を深めたい」 (96.2月「救援情報」)

 

 先日「当番弁護士を支える市民の会・東京」の設置設立総会に参加、その資料の中に「白鳥決定20周年シンポジウム」のチラシがあり、その会場でこの『救援情報』を知り、非常に参考になる本だと思いさかのぼって読みたいと年間契約したしだいです。
 7号の「読者の声」欄に「埼玉で現在読者が75人」とのことですが、その中に加えてもらいます。小生は欲張りでほかに教育、平和、福祉にも関心があり「人権と冤罪」だけに全力を注ぎ込めませんがせめて『救援情報読』み、近況を知り理解を深めたいと思います。次回は「遠藤事件」の国賠訴訟の学習会の参加を予定しています。

 

「破防法より恐ろしい国家権力の電話盗聴公認」 (96.11.1・「週刊金曜日」)

 

 本誌142号に佐高信市の対談「久野収 治安維持法の恐怖を語る」が載ったが、いま法務省は電話やパソコン通信からインターネットに携帯電話など、有線・無線に限ら通信の秘密を犯す「電話盗聴(傍受)合法化」を法制審議会に諮問した。(10月6日付『朝日新聞』から)これは明らかに憲法21条「通信の秘密」に反し違憲であり許されない。郵便物でさえプライバシーであり、配達され郵便物で所属組織や団体また購読誌(紙)など思想信条や価値観が分かり、以前団地の主婦に配達のバイトさせ問題になった経緯もある。
 電話の盗聴はこれら郵便物を黙って開放するに等しく、いかに捜査のためといえども許されてはならず、合法的に電話盗聴を認める社会や民主主義社会ではない。
 これを認めるなら、それは拡大解釈され、犯罪捜査に限らず、犯罪予防や思想や組織の情報収集に利用されることは明白である。本誌で佐高信氏が破防法について当局が「『限定的に適用するので心配ありません』というのと、若槻の例は全く同じですね」と指摘しているが電話登場も同様である。
 捜査のためにで使うなどという保証は何もなく、現に神奈川県警は共産党国際部長の緒方靖夫氏宅の電話盗聴をし、山梨県警は麻薬捜査のためと電話盗聴した(裁判所が令状を出したことも違憲である)のでる。
 これらは破防法以上に危険なことである。なぜなら、破防法は特定団体の適用の是非が公にされるが、電話盗聴が公開されることはあり得ない。いつ誰が盗聴されているか分からず、闇のままであり「常に官憲に盗聴される不安」を持ちながら生活しなくてはならないことを意味するのである。再びあの治安維持法時代にのしとこんなので、ノルマの社会に戻すことを許してはならない。

 

「盗聴合法化は時代逆行」 (96.11.6・東京新聞「オピニオン」)

 

10月15日付″社説〟「『とりあえず盗聴』では困る」が載ったが、わたしは国家権力による盗聴には断固反対する。
 今オウム真理教への破防法適用の是非が問題になっているが、破防法などの団体組織に適用するかを検討するとことが公になるが、電話盗聴は無断で行われるのであり、それが表面に出る事は有り得ず、闇の中に盗聴されることにより、市民常に官憲による盗聴・監視を恐れながら生活することになる。
 法務省は裁判所の令状を条件にするというが、社説で指摘のとおり今でさえ逮捕状の交付は請求されるままに発行されているのが現実である。令状発行の条件はないに等しく、代用監獄での自白強要とともに、別件での逮捕令状が多くの冤罪を生むの原因の一つになっている。
 官憲の盗聴が合法的に許されるなら、それは犯罪捜査に限らず、予防やは情報収集どころが、政党、宗教や各種組織団体、思想信条や個人に利用される恐れが多分にある。
 通信の秘密は憲法21条で保証されているのであり、それで許されるのは誘拐犯罪などで人命の危機に関する場合のみであり、その他はいかなる条件で許されてはならず、権力による電話盗聴を合法的に認めることは、あの治安維持法時代に戻ることを意味し民主主義の崩壊につながることを意味する。
 社説では第三者の立ち会い、期間限定、傍受の記録、当事者への後日などの条件を述べているが、盗聴はその有無が察知されないように行うのであり、盗聴の有無さえ確認できに「条件」が万守られる保証は何もない。


【1997年】

 

「当番弁護士を支援する会が記念イベント」 (97.1.10・「金曜アンテナ」)

 

 「当番弁護士を支援する市民の会・東京」(代表・佐木隆三)の1周年のイベントが昨年暮れ東京都内で開かれ、約500人が参加した。
 当日は「市民の会」事務局から1年間の活動報告の後、テレビで弁護士役をした俳優の奥田瑛二さんや、松本サリン事件で支持者扱いされた河野義行さんを招いて、トークやパネルディスカッション行った。
 当番弁護士は1990年9月に大分県で設置されたのが始まり。今ではすべての都道府県に設置され、それを支援する会も大分、福岡、大阪、札幌などで次々と誕生している。弁護士の四割を超える6500人余りの登録弁護士が、年間1万5000件以上の事件に手弁当で駈けつけている。      ただ、この制度が普及すればするほど、資金不足が生じる結果になっている。
 日本弁護士連合会は1996年夏に実施した国会議員アンケートでは、当番弁護士制度支持が96%を超え、また72%が「国が補助金を出すべきだ」との意見に賛成している。冤罪を防ぎ人権を守るため、当番弁護への公費負担が1日も早く望まれる。

 

「ご存知ですか、当番弁護士制度」 (97.1.10・「市民じゃ~なる」)

 

 昨年11月30日、日弁連の行動「クレオ」で、『当番弁護士制度を支援する市民の会・東京』の1周年記念イベントが、ゲストに弁護士役も演じた俳優の奥田英治さんや松本サリン事件の冤罪被害者・河野義行さんらを迎え開催された。
 当日は、被疑者に無罪を証明する必要はなく、捜査側に犯罪を証明する義務があるが、案外市民も被疑者に無実の証明を求めていると指摘があった。「被疑者推定無罪」であり、その事実を証明するのが裁判であるが被疑者イコール犯人の扱いがあり、その証拠の一つが実名報道である。
 現在、国選弁護は起訴後でなければ付かないが、人権を守るためには身柄拘束時点からの弁護士との接見が非常に大事であり、多くの冤罪はこの期間に無実の自白強要されている。
 現在、弁護士制度はすべての都道府県に設置されたものの、その運営は弁護士のボランティア登録とそれを支援する人たちにより支えられているため、普及すればするほどその資金運営が困難であり、人権の保障は資金や貧富の差に関係なく国が補償すべきである。英国では逮捕事件から全て公費負担され取り調べに弁護士に立会権があり、なおかつ取り調べ状況すべて連続してテープに録音することが義務づけられている。
 この『支援する会』はすでに当番弁護士発祥の地、大分を始め、福岡、大阪、昨年11日に札幌、今年6月に広島と次々に誕生し、被疑者の公費負担を求める運動を支援しています。

「最高裁判事任命に国会承認を」  (06.1.17・「週刊金曜日」)

 先の臨時国会で、政府・自民党が会計検査院の検査官に大蔵省OBを充てる天下り人事が野党や社民党の反対にあい国会の承認を得られず、見直しを迫られたが閣外協力の利点で3であろう。
 しかし考えてみると、会計検査院の検査官さえ国会承認電子必要なのに、最高裁判事の任命は国会の承認を必要としていないため、内閣が最高裁判事を自由に選んで司法権を牛耳っているも同然でありその結果が最高裁判決に表れている。
 米国では上院の承認が得られず大統領が指名(任命)をあきらめた例があるが、最高裁の判断は国民生活に大きな影響を与えることを考えれば、「国権の最高機関」である国会の承認を得るべきであり、憲法79条の最高裁判事の任命は、「国会の承認を得て内閣が任命」と憲法改正すべきである。

 

「被疑者の弁護、公費負担で」 (97.02.13・読売新聞「気流」)
                           
 刑事事件では、国選弁護人は起訴されて初めてつけられる。個人的に弁護士を頼む余裕がない人は、被疑者の段階では一人で取り調べに対応しなければならない。しかし、冤罪(えんざい)の中には逮捕から起訴までの身柄拘束中に虚偽の自白をさせられた例も少なくない。従って、被疑者の段階でも公費で弁護士をつけられるような制度を整備する必要がある。
 弁護士は、犯罪者や被疑者の罪を軽くするためだけにいるものではなく、冤罪を防ぎ人権を守るのも重要な仕事だ。だが、現実には、法律の知識がなかったり、経済的な理由などで、被疑者とされた当初から弁護士に相談できる人は少ない。松本サリン事件で被疑者扱いを受けた河野義行さんも、「家屋敷を売ってもいいと思って弁護士を頼んだが、それがなければ逮捕、冤罪の可能性もあった」と語っている。
 逮捕後要請を受けてから四十八時間以内をめどに、一度だけ弁護士が無料で被疑者と接見する「当番弁護士制度」が現在、すべての都道府県で導入されている。しかし、この制度は登録している善意の弁護士と、それを支持する人たちのボランティア活動に支えられている。このため、制度を利用する人が増えるほど資金難に陥ることになる。
 冤罪の防止や人権尊重は、人々の「善意」で行われるべきものではなく、個人の権利として、公的に保障されるべきものだ。
 当番弁護士の年間受付件数は、一万五千件余りで、制度発足以来の受け付けは計五万五千件以上になっており、この制度のおかげで無実の罪を免れたケースもある。その使命は、今後ますます大きくなると思われる。
 日弁連が昨年七月に実施した国会議員アンケート調査(回収率51%)によると、96%以上の議員が「当番弁護士制度」を支持し、その72%が公費負担も支持している。英国では、弁護士の公費負担はもちろん、被疑者の取り調べには弁護士が立ち会い、取り調べの状況は連続してテープ録音することが義務づけられている。
 これに比べて、日本の人権意識の低さを感じないわけにはいかない。刑事事件被疑者の弁護に公費負担制度を早急に導入することを検討して欲しい。

 

「刑事被疑者弁護の公費負担実現を」 (07.5.30・「週刊金曜日」)

 

 5月1日付『東京新聞』が「拘置中お腹の赤ちゃん死亡、腹痛・おう吐・・・体調不良の訴え放置」と大きく伝え、翌日「当番弁護士制度を知ら知らされじ」と続報を打った。
 オーバーステイに拘置中の中国人女性の体調不良に簡単な診察と点滴をしたが、その後の腹部激痛や出血の訴えに看護婦がきたものの、出血を押さえるため横になっていた彼女に「貴女は寝過ぎるからよ」と言って立ち去ってしまったという。
 この女性は警察留置中の診断は体調不良はつわりであり、胎児の生存が確認されていたが、拘置を移管以後、産婦人科医師の診察を受けた時にはすでに胎児が死亡し、「拘置執行停止」が認められたのはその3日後で、胎児の処置はさらにその翌日になったという。
 こんな人権無視が許されて良いわけはない。当番弁護士制度通告にも伝える義務はないというのが官憲の人権意識レベルであり、彼女は拘置中の仲間から当番弁護士制度を知らされ即座に頼んだと言うが、もっと早く弁護士と接見できていたら、この悲劇は避けられたかもしれない。
 松本サリン事件のパパ河野義行さんを持ち出すまでもなく、刑事事件では冤罪を防ぎ人権を守るため、逮捕時点での弁護士との接見が非常に大事であり、それが、富の有無などで差別されて良いわけはない、
 現在、当番弁護士制度が全都道府県に確率されたもの、弁護士が特別会費を徴収し資金をつくり運営しているのであり、人権がこのような善意やボランティアで守られていて良いわけはなく、憲法第11時には「・・・この憲法が国民に保証する基本的人権は侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来に国民に与えられる」明記され、それは国籍や人種を問わないことは言うまでもなく、人権を保障する義務は国にある。。刑事被疑者弁護の公費負担の早期実現を求めたい。

 

「法にのっとって保護を」 (97.7.2・毎日新聞「アクションライン」)
                     
 マスコミは松本サリン報道から何も学んでない。百歩譲って少年が犯人と特定できても、14歳の少年なら法により保護されることさえ理解できず、マスコミ先行で容疑者を暴いている。親の保護責任はあるとしても、兄弟らには何の責任もなく、報道の影響は計り知れない。被害者の人権はどうしてくれるという意見もあろうが、それでも法にのっとり少年は保護されねばならず、それが法治国家だ。

 

「松本サリン報道から何も学ばなかったマスコミ」 (97.7.18・「週刊金曜日」)

 

 神戸の小学生殺害事件のマスコミ報道に抗議する。
 NHKをはじめ、テレビ各局や新聞各紙が、この事件報道に際し松本サリン報道で河野義行さんに謝罪した教訓を何ら生かせず、またもセンセーショナルな同じ報道姿勢をとっている。
 「中学生による小学生殺害事件・・・」「A少年はタンク山で遺体を切断し・・・」といずれも断定表現の報道ばかりだ。
 被害者イコール犯人ではなく、成人の場合でさえ「推定無罪」で、白紙の状況から裁判が始まるのであり、警察は学校名も公表せず、少年を容疑者として謙虚したとだけを発表した。マスコミはその少年の通学してる校長にインタビューし、少年の卒業文集まで公表し、すでに学校関係者や地域住民にはどこの誰かがわかっている状態である。松本サリン事件の河野さんの報道とまったく同じマスコミ先行報道である。
 しかも、自白先行で、朝7時から夜7時まで長時間密室の警察所内で子ども取り調べることが、任意情聴取と言えるのか。ナイフやのこぎりなどの何処の家にもあるのであって、自白は何の意味持たず、証拠を示さなくてはならない。
 証拠ところが、神戸地検は「逮捕容疑は固まっておらず、事件の解明が不十分なため拘置請求した」(6月30日朝日新聞)とか、「供述を裏付ける捜査が必要」なのというが、まさに自白先行の捜査であり、自白から証拠を集めている何時もの本末転倒の捜査である。
 100歩譲って少年が犯人と特定されたとしても、14歳というなら明らかに少年として保護されなくてはならない。「殺された側の人権はどうなるのか」という意見もあろうが、それが法治国家なのである。
 少年の親には保護責任があったとしても、兄弟などにはなんら責任のなくこの断定された報道の影響ははかりしれず大きい。その責任はどうするのか。

 

「最高裁で神坂さんにお会いしました」

                 (97.7月「神坂さんの任官拒否を考える市民の会ニュース」)
 過日の最高裁一般公は「当番弁護士制度を支援する市民の会・東京」の三人の仲間と共に出かけました。
 国会開設100年の一般公開では議長席どころか議員席にも座れず、天皇の御座所とやらは何とガラス過ごしでしたが、最高裁の公開もたく建物内どころか、普段は敷地内の撮影さえ認められない裁判所ゆえ、当日は写真撮影不可能と推測し誰もカメラを持参しませんでした。
 何せ、殺人犯くらいでは入れない大法廷ですから、その最高裁判事の席に座れることも予測できませんでした。
 それにしてもなんと豪華な建物があることでしょうか。権威はこれで守の?と疑問を持ちましたが、権威は判決で守るものだと私思います。そして、つい貧乏人は建築費がどのくらいかかったの?と考えました。最高裁のよこしたパンフには長々と好長官のインタビューでそんなことは載っておらず、貴会(最高裁判所五十年奉祝委員会)発行の記念パンフ「国民とともに50年」の方がよっぽど役立ちます。また当日は幻の裁判官?神坂さんにお会いでき、お話する機会にまで持てたことはラッキーで改めて神坂さんにもお礼申しあげます。
 最高裁や神坂さんの任官拒否する理由を述べませんが、本人さえ不採用の理由を公開しないことは到底開かれた採用といえません。過日、私は最高裁に公務員は公募が原則であり「裁判官の募集維持しているのでしょうか?」と聞いたことがありますが、相手は大変困っていました。
 その実態は司法修習生、つまり新卒しか採用せず中途採用しないのであり、何時募集し、何時採用されるか国民の知らないところで行われ、公募しないなら弁護士や警察官から裁判官になりたい人はどうすればいいのでしょうか?故に社会体験のない事件知らずの人間が裁判官となるわけで、下積みどころか社会体験もなくして正面に人が裁けるわけがありません。
 多くの公務員採用でこのような公募もせずに密室の採用は、恐らく他の公務員採用にはなく、それは明らかに機会均等という憲法の趣旨に反しています。
 そして、学校で子どもたちに日本は三権分立と教えますが、最高裁判事を内閣が自由に選んでいることを考えれば、明らかにそれは否定され議院内閣制で国会が首相を選べば結果的に立法府は内閣を否認することなく、憲法には国会は国権の最高機関とうたわれているものの、この国では内閣・行政が国権の最高権力であるのが実態であり、米国では最高裁判事を大統領が指名しても、上院のの承認が必要であり、国会が国権の最高機関であるな国民生活に重大な影響を与える最高裁判事任命に国会の同意を得るのは当然ですが、日本では内閣が自由に選任することが許されているのであり、こんなことでは公正な裁判が期待できないのは当然です。
 さらに憲法は心身の故障を除いて弾劾裁判によらなければ罷免されない(78条)とか、すべて裁判官は良心に従い独立して憲法および法律のみに拘束される(76条)とありますが、神坂さんの不採や宮本元判事補の再任拒否なでるように、任官と10年目の再任時点で選別されているのであり、到底身分を保障してるとは言えません。
 長沼ナイキ訴訟で、自衛隊機の判決を下した福嶋判事に、横やりより、鑑賞した。平和書簡は有名な話ですが、それでも書簡を公表した。福島の高判事が悪いと左遷され、その後とうとう福嶋判事が嫌気を指して食しましたが。これも裁判官が独立していない証拠です。
 最高裁人事局を頂点として裁判所長などが裁判官の査定してること自体、裁判官の独立を否定しているのです。その裁判官の査定の中身も「処理件数」が加味され成績や評価を気にするなら膨大な訴訟件数を抱え精細な審議を行うことは不可能であり、だいたい欧米先進国に比べ人口あたりの裁判官の数が極端に少なく、その定員さえ公表されていない制度は到底開かれた司法とは言えません。
 日本の裁判官は専門職ではなく転勤を含め人事権と査定を握られた年功序列のサラリーマンであり、身分証保証のない裁判官が公正な裁判をできるわけなりません。

 

「接見拒否の不当性を追求する国内訴訟」 (97.8.8・「週刊金曜日」)

 

 4月23日、東京地裁601号法廷で庇護者に対する接見妨害したとして、国家賠償を求める裁判が始まった。
 接見交通権とは身柄を拘束されている被疑者や被告人と弁護士が立会人なしで面談し、訴訟準備するために欠かせない権利で、刑事訴訟法でも原則自由であることを謳っている。ところがこの事件では接見を拒否したではなく検察官の義務とされている「別の日時指定」もしなかった。
 また、この処分が違法であるとして準抗告したにもかかわらず、審理にあたった裁判官は「却下」の決定をした。そこで二人の弁護人が国を訴えたのが、この裁判である。
 この日の法廷では異例の訴状陳述や原告意見陳述が行われたが、国側の代理人(検察官が担当する)は事実認定について、後日文書でお答えしまと述べるにとどまった。提訴からすでに二ヶ月経っているにもかかわらず非常に不誠実な対応と言わざるを得ない。
 接見交通権は被疑者や被告人の防御権を保証する重要な権利であるにもかからず、逆に「検察官が認めたときのみ接見できる」のが事態となっている。そこで今回の裁判では、罰則の意味を込めて賠償金を1862万円と高額にし、代理人には147人もの弁護士が名を連ねている。次回期日は、同法廷で10月、8日、10時からである。

 

「国賠訴訟傍聴記」 (97.8.10・「市民じゃ~なる」)

 

 1月23日、東京地裁631法廷で国家賠償請求の初公判を傍聴をしてきた。
 この訴訟は弁護士の接見を違法に排除した警察官と、その準抗告を排除したした裁判官、つまり、国が被告の民事訴訟である。
 弁護士の接見に対し法には、取り調べに支障のある場合は「別の日時を指定することができる」とあり、原接見自由である。しかし、現実は逆に特別に接見を認めるという状況にあり、本件は別の日時を指定もせず接見拒否し、また後日、被疑者に確認したところ何の取り調べもなく、留置場に居たことが判明し、更に不当な接見接見拒否である旨裁判所に準抗告したものの、裁判官も不当であることを認めなかったという事件である。
 起訴前の被疑者段階での弁護士接見は冤罪を防ぎ人権を守るため非常に大事であり、多くの冤罪ががこの時期にやっていない犯罪を自供させられている
 検、警察側には身柄拘束して自由に何時間も取り調べる一方で、弁護士は1日わずか20分程度では十分な弁護ができるわけはなく、それは防御権の否定であり被疑者に弁護士が付くか否か正に人権問題なのである。
 訴状提出から二カ月も経て(当然、国も届いている。)の公判で、裁判官の「事実認否すますか?」の問いに、指定弁護人(国側の弁護する検察官、検察官は裁判官と日頃人事交流を行われ、これは「判検交流」と言い批判されている)は、何と「後日、書類でお答えします」と事実認否さえできず、私を傍聴しながら「今まで何をしていたのか!」と喉まで出かかった。

 

「法制化が望まれる被疑者国選弁護」 (97.11.28「週刊金曜日」)

 

 11月12日、刑事異議者国選弁護を目指す「当番弁護士制度を支援する市民の会・東京」が、設立2周年を記念したイベントを日弁連講堂「クレオ」で開いた。
 当日はニュースキャスターの鳥越俊太郎と米倉洋子弁護士によるディスカッション「どうして『』悪い人?』でも弁護するの?」や、木村晋介弁護士、福島瑞穂弁護士が出席した「『チョー入門』弁護士のつかいかた講座」が開かれ、約450人が参加。最後に日弁連刑事弁護センター委員長の、寺井一弘氏と佐木隆三氏に変わって「市民の会」代表に就任した村井俊邦氏の挨拶でイベントは終了した。会場はが若い人が多く「市民の会」への入会も受け付けた。
 2002年に「被疑者国選弁護」を導入し、否認事件や少年事件に適用、段階的に適用拡大し、して2010年に拘禁者全員への適用を目指す試案が、10月17日、日弁連の理事会で全会一致で採択された。
 現在日弁連の公式「試案」となり、すでに日弁連は法務省、最高裁、警察庁、国会などに働きかけている。逮捕された場合、本人や家族から要請を受けると48時間以内に弁護士が一度だけ無料で接見してくれる「当番弁護士制度」はから弁護士のボランティアによって定着している。また、現在すべての弁護士会で稼働し、その必要性は実証されている。
 日弁連の提案は起訴されてからでなくてっは付かない国選弁護を、冤罪を防ぎ人権を守るためにも被疑者段階か付ける公的支援を求めるものである。松本サリン事件の河野義行さんの例を持ち出すまでもなく、被疑者に弁護士がつくかどうかは人権そのものであり法制化が強く望まれる。

 

【1998年】

 

「寺西裁判官処分は不当」 (98.1.23・「週刊金曜日」)

 

 旭川地裁の寺西和史判事補が朝日新聞の「声」欄に、が逮捕状がほぼ請求されるままに出されている実態を投書したことにことを理由に、地裁所長から「注意処分」を受けたが、その投書に反論を寄せた東京地裁の田尾健二郎判事が処分されないのは不公平である。
 「裁判官は黙して語らず」というなら、反論を書いた田尾方が、判事も処分されるべきであり、寺西氏の発言が妥当かどうか投書を読んだ読者や市民が判断することである。
 寺西の主張は最高裁発行の「司法統計年表」によっても1昨年の逮捕状発布総件数11万3175件に対して請求棄却はわずか45件。その数は捜査当局自身の請求取り下げ撤回件数367件の約1割で、請求企画棄却率が0.0004%という事実からもうなずける。
 逮捕は「逃亡と証拠を隠滅」を防ぐためであるが、現実には代用監獄とともに、取り調べや自白強要の場に利用されていることを裁判官は認知の上で、逮捕状を発布してる状況がある。裁判は「捜査の終結」でなくてはならならず、捜査の始めであってはならない。
 逮捕状が捜査や人権に重大な影響を及ぼすことを考えれば、捜査や取り調べのための逮捕を認めてはならず(故に、憲法は「黙秘権」を認めている)、寺西氏の発言は事実誤認や誘導発言ではなく、処分は撤回されるべきであり、今度は「処分はなぜ公表した」と寺西氏に圧力が加わることと、再任拒否を心配する。裁判官の任官・再任時点での選別を許してはならない。

 

「『甲山事件』の再控訴に抗議!」 (98.5.1・「市民か~なる」)

 

 検察の「甲山事件」再控訴に抗議する。
 24年前、知的障害児施設の園児2人が園内で亡くなったこの甲山事件は、警察の求刑13年に対して起訴からでも20年の「時間経過」を理由に、警察の再控を批判する声もあるが無実の真相を知らなくてはならない。
 事件発生から16日後、官権は被疑者を逮捕したものの嫌疑不十分で不起訴、その後、約4年も経ってからの園児の証言をもとに再逮・起訴するも1審無罪、検察の控訴に対し高裁、最高裁とも無実判断を破棄し審理を差し戻した。だが、3月24日、神戸地裁が再びの無罪判決したのみならず、アリバイ証言した元園長など2人を官権はアリバイつぶしのため「偽証罪」で起訴した裁判でも無罪判決が出たことがほぼ完全無罪を意味する。
 この事件は物的証拠に乏しく、焦点は自白と園児の目撃証言だが、「自白の任意性」が問われること自体、証拠に乏しいことを示し、自白はあくまで補完的証拠であり所詮証拠にはなり得ない。
 検察は「事実誤認」を再控訴の理由に挙げるか、目撃証言は大人でも非常に曖昧なものであることは科学的にも実証され、事件から4年も経っての園児の目撃証言は知的障害を除いても非常に不自然であり、誘導、デッアゲの可能性がある。物的証拠でない目撃証言を検討する場合「常識」で判断することが非常に重要であり、幼い2人が4年も経って当時のことを思い出して進言することはあまりにも非常識で無理な話である。
 検察はこの無罪判決が「上級審の判断に反する」と主張するが、「差し戻し」は無罪を示すものではなく、疑義があるからと「再調査を求める」ものであり、明らかに有罪なら自判で無罪を判決を下すこともでき、上級審の方が正しい根拠は何もなくそれは「権威主義」であり、各種の証拠提出などで徹底的に事実審理をするする一審こそ事件に詳しく、その再びの無罪判決がは非常に重いものである。
 上級審追従が裁判ではなく、裁判官は憲法と法律と自らの良心にのみ拘束されるのであり、下級審の判決積み重ねで最高裁の判例を変えることも可能であり、冤罪が確定しても処分責任を問われないと、官権のメンツのために安易に再控訴した検察に抗議する。
 無罪から有罪に逆転することは許されず、有罪無罪に別れた事はその有罪が「絶対」ではないことを示し、ましてや合議の多数決で有罪が決まることが許されて良いわけがない。有罪は絶対でなくてはならず、刑事裁判の鉄則である「刑事裁疑わしきは罰せず」を守るため、本来、無罪判決後の検察の上訴権は否定されるべきである。それを守るため、米国の陪審は「全員一致」を採っているのである。

「疑わしきは排除、相模原市に敬意」  (98.6.9・東京新聞「発言」)

 環境ホルモンの溶出の可能性があると言われている、5年と、ポリカーポネートやポリプロピレンなどの給食食器を、神奈川県相模原市が「疑わしきは使わず」と、順次取り替えている勇断を支持する。
 水俣病を思い出してほしい。因果関係が分からない、特定できない(隠していた点もあり)などといっている間に悲劇はどんどん大きくなっていったのである。
 刑事事件では人権を守るため「疑いきは罰せず」だが、ダイオキシンも含めこのようなことは因果関係がはっきりしてからでは手遅れで、取り返しのつかない状況に陥る可能性がある。
 同様に遺伝子組み換え食品の表示も義務付け、消費者に選択権を与えるべきであり、健康に関する限り「疑しきは排除」を徹底すべきである。

 

「密室決まった裁判官の思想調査」 (98.8.7・「週刊金曜日」)

 

 仙台高裁の寺西判事補の分限裁判は、戒告処分が下されたが、裁判官忌避や審問の公開を求めた特別抗告を最高裁が却下した下で行われた。新憲法下で初めて裁判官の行動が「積極的政治活動が否か」を判断、処分を決定するのに、法の番人であるはずの最高裁は密室での審問を認めたのである。
 これはまさに、裁判官の思想による差別か否か判断する重大事件であり、単に裁判所内部の問題ではない。密室で行われて言い訳はなく最低でも公開の場で審議されなくてはならず、このような非公開場でなされた処分は民主主義に反し違憲である。
 寺西氏自身も述べているように、今年の憲法記念日に山口繁最高裁長官は少年法の改正を支持する発言をしたが、最高裁長官の法改正支持発言は問題なく、判事補が立法を疑問視する発言は処分されるのか。そもそも、彼は集会に参加しパネリストとして発言できなくなった経過を述べただけ
である。
 古くは元判事補の「青法協会事件」での再任拒否、長沼ナイキ訴訟で自衛隊違憲判決を下した福島判事の左遷(嫌になったとすでに退官)。箕面忠魂碑訴訟でに関与で94年に任命拒否され、今も闘っている神坂氏、そして、この寺西判事補の処分、憲法上裁判官は身分保障されると言うが、このように任官や再任にチェックされ、さらにこのように処分され、裁判官の独立が守られているとは到底言えない。

 

「ずさんな令状請求と発布」 (98.8.26・「週刊金曜日」)

 

 今年6月、栃木県今市市で起きた殺人事件で、8月13日、2人目の被疑者が釈放された。
 1人は事件発生2日後に逮捕されたが、翌日、アリバイが立証され釈放、その後、警察が誤認逮捕を認めるとともに二人目を逮捕したものの、証拠不十分で釈放せざるを得ず、その間にも被疑者は実名報道された。
 警察の、アリバイ確認もせず逮捕状請求するずさんさ、そして、起訴もできない容疑や証拠で、2人目の逮捕、これは裁判所が、請求されるままに逮捕状の発布をしていることを裏付けている。
 いま政府は「捜査」の名の下に電話などの盗聴合法化を図り、その悪用を心配する市民には「裁判所の令状を義務付ける」とあるが、本来捜査の行き過ぎに対する歯止めなとなるはずの「令状主義」は歯止めどころか、「検証令状」の発行によりすでに甲府や札幌の警察で電話盗聴がなされ「検証令状」の発行が「免罪符」にさえなっている。
 政府は「先進諸外国では認められている」と主張するが環境が全く違う。それらの国々が身柄拘束は数日であり、日本のようにほぼ無条件で23日も身柄拘束されることはなく、弁護士に取調に立ち会おう権利があったり、弁護士の立会のない調書は無効、被疑者いつでも誰にでも自由に電話連絡できる、など全くに日本とは状況が違う。
 捜査目的た盗聴後の本人への事後通告など守られるわけはない。神奈川県警による共産党幹部宅の電話盗聴事件がそれを証明している。

 

「弁護士が被告弁護するのは当然」 (98.11.17・毎日新聞「みんなの広場」)
                       
 11日本欄の「加害者擁護が目につく弁護士」に異論を述べたい。
 真犯人と知りながら弁護士が否認や黙秘を指導するなら言語道断であるが、被疑者や被告が無実の主張や検察・警察に反論があるなら、弁護士は被疑者や被告の主張を受け入れて弁護するのは当然であり、依頼者を信頼せずに弁護活動はあり得ない。
 ましてや投稿者のいう「弁護活動は犯罪者に罪を認めさせたうえ、刑罰の軽減を図るもの」とは、まさに検察官の仕事そのものである。被疑者や被告は「犯人」ではなく、それを問うのが裁判であり、「黙秘権」は無条件で認められている。
 捜査権を持つ警察と法律の専門家の検察側と、法律に素人の被疑者や被告との対峙(たいじ)では公平な裁判は期待できず、そこに弁護団の使命がある。冤罪(えんざい)が後を絶たず警察のでっち上げや、自白の強要が冤罪を生んでいる事実も知ってほしい。

 

「民主主義を知らない最高裁」 (98.12.18・「週刊金曜日」)

 

 寺西和史判事補の分限処分で1日、最高裁大法廷が審問も開かず本人の弁明も聞かず、仙台高裁の懲戒処分を追認したことに抗議する。
 百歩譲って、否、1万歩譲って彼の行為が積極的政治活動としても、裁判官の政治的活動で処分するか否かの審理を問答無用で決定することが果たして公正な裁判と言えるのか。
 仙台高裁での分限裁判も代理人の入廷を制限し、非公開の上、本人の弁明もなしに決定されたのであり、小林啓二裁判長は、手続保障を求め「一分を一秒を争う事件ではではないでしょう」と発言した原告側に、「一分一秒や争うです」と、十分な準備期間も与えず、大衆に知られまいと大急ぎで処分決定がなされたのである。
 裁判官の政治的活動否かは表現の自由や思想信条の自由にも関連し、裁判所内部や個々の問題ではなく、それは市民の生活や裁判に密着した事件であり、当然大衆の面前で十分論議を尽くし、本人にも弁明の機会を与えたうえで判断されるべきであり、この密室での処分は民主主義に反し、最高裁が大衆の批判に堪える自信が無く、審問を開けないことを意味するのである。
 最高裁は「外面的にも公正中立」と、ベールに包み曖昧にするのことが公正中立というが、「黙して語らず」はまやかしの公正中立であり、裁判官にも参政権があり権威や公正・中立が「外面的」ではなく、「判決」で判断されなくてはならない。


  【1999年】

 

「代用監獄の早急な廃止望む」 (99.02.18・読売新聞「気流」)
                           
 法務省は、受刑者の処遇などを定めている監獄法の全面改正について検討することを決めたという。警察の留置場を拘置所代わりに使用する「代用監獄制度」の存廃が最大の焦点とのことだが、その廃止を強く求めたい。
 逮捕された容疑者については、送検後、法務省の拘置所に収容するのが原則だ。ところが、拘置所の数が足りないため、監獄法は警察の留置場を監獄の代用として使うことも認めており、実際にはこちらのケースが大半を占める。
 このため、容疑者は四六時中警察に身柄を拘束されることになり、日本弁護士連合会などからは「自白強要や、冤罪(えんざい)の温床となる」という厳しい批判が上がっている。
 実際、代用監獄で自白の強要があったことを認めた判決は少なくない。代表的なものとしては、千葉県松戸市で七四年に起きたOL殺人事件の控訴審で、東京高裁が九一年、「代用監獄に身柄を拘束して自白を強要したそしりは免れない」として逆転無罪の判決を下した事例などがある。
 警察当局はこうした批判にこたえ、八〇年から、捜査官とは身分的に別である留置担当官を置いて業務にあたらせているが、担当官が警察官であることに変わりはなく、本質的な問題解決にはほど遠いように思われる。
 代用監獄には国際的にも改善を求める声が上がっており、その廃止は、我が国の人権保障のバロメーターといえる。速やかに廃止すべきである。

 

「接見妨害国賠訴訟傍聴記」 (99夏号「季刊刑事弁護」)

 

 私の所属する「弁護士制度を支援する市民の会・東京」では、が七さまざまな裁判傍聴を行っているが、なかでも接見妨害に対する国賠訴訟は被疑者弁護にかかわる重要な問題なので、連続傍聴をしている。
 今回は担当検事、すす。主任検事、検事事務官の証人尋問があったので、その内容をご報告する。
 政権妨害(指定)としては、し連続2日や3日にわたる接見拒否、接見拒否しながら取り調べの事実のなかったこと、また警察からの問い合わせに対して検事事務官が「接見時間は20分」と答えたことなどが問題になっている。
 検事は接見拒否しておきながら、取りし調べがなかった事実については「一応予定はあった。警察のほうに何か(事情が)あったのでしょう」と、まるで他人ごとの答弁をした。
 また、否認被疑者の一律接見拒否の扱いに対しては、「否認の場合、取り調べに時間がかかるので、当然」との発言で、間近に確実な取り調べ予定がある場合のみ接見の制限を認めている判例など全く頭にないようで、担当検事が帰宅途中だったため警察からの問い合わせに「20分」と答えた検事事務官は他部署から転勤してきたばかりで、何の教育も受けずに検事事務官の職務に就いていたことを認め、当日、当直検察官に問い合わせる知識もなかったというあまりにもお粗末な状況で、国の無責任さに呆れた。
  そして、検察事務官に「接見指定」の権限がないにもかかわらず、なぜ「20分」と答えたのかを問われた事務官は、「検察官がいつもそのような扱いをしているでないのか?」と原告側の指摘に答え窮していたが、「接見指定」権限の有無分からない検察事務官や検事の人権感覚のなさを再確認した思いだった。
 若い担当検事は時には返事に窮していたが、主任検事はさすがに落ちつきはらって淡々と自信のほどを述べていたが、こんな検事も退官すれば弁護士に登録するのだろうか?と考え込んでしまった。
 また政権妨害に関する最高裁大使公邸の口頭弁論でも、国の態度は全く同様で、接見交通権は直接憲法で保障されておらず、捜査権に優先しないと主張する始末であった。

 

「被疑者にも法律扶助を」 (99.9.2・読売新聞「気流」)
                           
 法務省は、資力の乏しい人の裁判費用を立て替える「法律扶助制度」のため、来年度予算で今年度の四倍の二十二億円を概算要求するという。現状より前進だとは思うが、それでも他の国と比べると十分ではない。たとえば、人口が我が国の約半分に過ぎないイギリスでは、国の支出だけで二千億円余りが使われている。
 日本には法律扶助を義務付ける法律さえない。政府は「民事法律扶助法案」の提出を用意しているというが、民事より人権の問題である刑事弁護にこそ扶助は必要ではないだろうか。
 現在の制度では起訴され、被告となってからでないと国選弁護は受けられない。しかし、冤罪(えんざい)事件では、起訴前の被疑者の自白調書が証拠採用された結果、罪を着せられていることが少なくない。
 逮捕された時、本人の申告や家族などの電話一本で、弁護士が接見に来てくれる「当番弁護士制度」は現在全国の弁護士会に設置され、年々利用者が増え、大きな社会的な使命を果たしている。
 しかし、この制度は日本弁護士連合会が、弁護士から特別会費を徴収し、善意によって運営されている。このような人権を守る制度は善意やボランティアで守られるべきものではない。国は人権を保障するために、刑事弁護は起訴前を含め、公費で負担すべきだ。
 「なぜ悪いことをした人を、税金で弁護するのか」という声が出るかもしれないが、犯人かどうかを判断するのが裁判であり、それまでは推定無罪の扱いを受けなくてはならない。松本サリン事件の被害者、河野義行さんの例でも分かるように、無実の人が犯人扱いされることもあるのだ。
 幸い先の国会で内閣に司法制度改革審議会が設置された。ぜひこの被疑者弁護の公費負担制度の実現を期待する。

 

「13年放置を棄却に抗議」 (99.8.28「川口自主夜間中学」機関紙)

 

 東京高裁が、狭山事件の第二次は再審請求を13年も放置した末、承認も鑑定人も尋問しないまま棄却の通告をしたことに憤りを感じる。
 高裁は棄却の理由を「無罪を言い渡すべき、明らかな証拠とはいえない」と言うが、そもそも有罪の証拠はなく、元捜査員の「万年筆がなかった」の証言や、「筆跡鑑定」に相違点があることを裁判所自身が認めながら、「文字が書かれた際の環境、緊張の具合、文書の内容などに由来するとみるべきだ」など勝手な解釈をし、更に石川さんが犯人として「合理的な疑いを挟む事実は認められない」と消極的理由で有罪に追い込んだのである。
 なぜこんな判決に至るのか?それは先進諸外国に比べ人権意識の遅れとともに、裁判官の独立が守れず本来専門職として憲法上(76条)「憲法と法律、そして自らの良心」にのみ拘束されるはずの裁判官の実態は、判事補、判事、裁判長、所長、家裁、地裁、高裁、最高裁へと上がっていく(独、米では転勤はない)遠サラリーマンであり、所長が判事たちを査定して、最高裁人事局が人事権や昇給や査定を握り、出世したければ体制に反した判決が出さないようになっているからである。
 そのなによりも証拠が、かつて「長沼ナイキ訴訟」で自衛隊違憲判決を下した札幌地裁の福島判事です。判事はその後に左遷され、最後は家裁送りになり「辞める理由はもう嫌になったからだ。長沼ナイキ判決後、ずっと辞めたいと思っていた」と言い残し辞職したのです。
 この国会で「司法制度改革審議会」が内閣に設置され、参審、陪審、被疑者国選弁護や弁護士経験者などから裁判官を選ぶ「法曹一元」などが審議されるが、冤罪をなくし人権を守るためには遠回りでも逮捕段階から権利として弁護士との接見を保証する「被疑者国選弁護」が必要(英国では逮捕事件から全て公費負担で、費用は日本の1000倍)であり、現在の「当番弁護士制度」は善意で支えられているが、「人権」が他人の善意で支えられていて言い訳はなく、人権は国に保障義務がある。新聞を読めば相変わらず冤罪は日常茶飯事である。一人でも多くの人が冤罪を他人事と思わず感心を持ってほしいと思う。

 

「『冤罪検証制度』の確立を」 (99.10.29.「週刊金曜日」)

 

 「甲山事件」の3度目の無罪、否、無実が確定した。
 この事件のは最後逮捕のきっかけは、何と3年も経ってからの園児の「目撃証言」であるが、事件当時、目撃者捜しは徹底的に行っているはずであり、3年もたってから思い出して証言するということは常識では考えられない。疑惑や目撃証言、アリバイの有無などはあくまで「補強証拠」であり、それに頼るのは危険でありそれが多くの冤罪を生んでいる。
 なぜこのような冤罪が跡を絶たないのかといえば、冤罪が確定しても検察官も裁判官も責任を取らされることがない故、「だろう」で起訴し、「だろう判決」が下されたいるからでないか。
 彼らにはもし冤罪だったとしたら「首が飛ぶ」とか、「処分される」 などという緊張感などほとんどないように思われる。サラリーマンは会社の名誉を傷つけただけで処分されるが、他人の一生を台無しにしても何も責任のも問われないという、こんな気楽な職業ほかにない。
 しかも、冤罪が確定しても、その原因を検証する制度もシステムもなく、「あ、そう」で終わりなのである。冤罪の教訓を生かし繰り返さないためには、裁判所や検察による冤罪の「検証制度」が是非に必要である。
 幸いこの7月に内閣に「司法制度改革審議会」が設置され、今後2年の間に多くの検討項目を審議するこれになっているが、ぜひこの冤罪の検証制度の法的確立を求めたい。
 行政には冤罪の教訓を生かす義務がある。

 

「人権無視の判事は弾劾を」 (99.11.17・東京新聞「発言」)

 

 京都地裁の裁判官が判決文の中でタクシー運転手を「雲助けまがい」とし批判れた。その処分がなんと本人への口頭注意と、所長の遺憾表明で終わらせているのか。
 これは裁判官の資質の問題である。裁判では双方の当事者が問題にしていない問題には立ち入らないのが原則であり、裁判に何の関係もない一般タクシー運転手を色眼鏡の先入観で判断し、しかも、公判の席での発言は言語道断である。
 過日、仙台地裁の判事補が「盗聴法」反対の市民集会の一般席から、「パネリストとして発言できなくなった」と述べただけで分限裁判にかけられた。
 この分限裁判は非公開で、本人に一言の釈明の機会も与えず処分が決まった。果たして、この判事補と雲助け発言の判事と、どちらに資質の問題があるだろうか。人権も理解しない資質の判事は、一般市民の立場として信頼することはできない。考えすべきだと考える。

 

「取り調べに弁護士の立ち会いを」 (99.12.5・「救援新聞」)

 

 11月1い。「ミランダの会」の主張は当然なのである。
 英国のように取り調べに弁護士の立ち会い5日号の記事「無実の人がなぜ自白するのか」を拝読した。
 この国では「被疑者推定無罪」の扱いが守られず、マスコミも被疑者を実名報道し、被疑者逮捕は本来、逃亡や証拠隠滅を防ぐためだけに認められているのに、事態は取り調べに利用され、しかも、被疑者(犯人ではない)のに生活のすべてを制限している。23日間も外界から遮断し精神的に追い詰める自白強要する捜査パターンは人権無視である。そもそも被疑者には無条件で黙秘権が認められ、取調に協力する義務はな権を認め、被疑者弁護にも公費の負担が必要である。

「審 議 審 議 会 の 公 開 を」  (99年「季刊刑事弁護」秋号)

 第1回の議題であった「会議の公開」について、第3回の審議会でも結論が出せないことを遺憾にに思います。最初の審議会で曽根委員が「ここは私たちの職場です」との反対意見は、「審議会の私物化」ではないでしょうか。
 言うまでもなく審議会はプライベートものでなく、中坊委員のおっしゃる通り、委員は「公の立場」であり、審議会の行方は人権上市民に直接大きな影響を与えるものです。
 そして、私たちすべてを審議会に託したわけではありません。審議会からの一方通行ではなく高木委員が「キャッチボールスタイル」とおっしゃる通り、審議会と市民との議論は同時進行すべきで、審議会のその市民の論議は同時進行すべきで、審議会もその市民の要望や意見を参考にすべきで「後でで議事録を公開すれば済む」という問題(次元)ではないと思います。
 公開・傍聴も無原則ではなく、法曹者3者。やマスコミなど一定のルールを作ることは当然ですが、非公開を続けることには断固反対します。
 事務局の説明通り情報公開を民主化の流れであり、それは民主主義の尺度と言っても過言ではなく、民主化と情報公開が比例するものである、何にゆえ、非公開の理由があるのか私の知りたいと思います。1回の審議時間が2時間半、月2回のペースで2年間という少ない審議時間が考えれば、至急結論を出し、盛りだくさんの審議に集中していただきたいと思います。


 (2000年)

 

「司法民主主義の前進を!」 (00.1.20・「市民じゃ~なる」)

 

 市民のカンパで出来たドキュメンタリー映画『日独裁判物語』の自主上映が好評だが、この映画の冒頭シーンは、日本の最高裁判事が運転手付きの黒塗りの乗用車で登場するのに対し、ドイツの連邦憲法裁判所(以下、最高裁)判事はヘルメットをかぶり自らミニバイクで登庁する。
 そしてこの映画の取材にスタッフが、日本の最高裁正門から入ろうとすると警備員が「ダメです」とカメラのレンズを抑えるのである。
 これは日弁連が最高裁に撮影協力を申し入れたものの拒否されたためで、ドイツで最高裁長官(女性)インタビューや判事の撮影はもとより、本人の了解ければどこでも自由に撮影して下さいと作られた映画である。
 ドイツの裁判官には転勤が無く、俸給はほぼポスト(一部年齢加味)で決まり、その最大格差は3.3倍(日本では10倍以上)で査定の余地はなく、一方日本では最高裁が人事権を握り転勤や昇給などで牛耳られ身分の安定はない。
 それは札幌地裁の「長沼ナイキ訴訟」で自衛隊違憲判決を出した福島判事が、東京地裁経由で家裁に左遷され、その後、「嫌になった」と辞職、「青法協」事件で再任拒否された宮本判事補、「箕面忠魂碑訴訟」で母と共に原告であった上坂直樹氏の再任拒否、警察の盗聴法反対集会への参加問題で、本人に弁明の機会も与えず、しかも、非公開の分限処分で懲戒処分を受けた仙台地裁の寺西判事補などの人事がそれを証明している。
 そんな閉ざされた「司法民主主義」の遅れの中で、今年7月、37年ぶりに内閣に「司法制度改革審議会」が設置されたことは大きな意義がある。しかし、3回目の会議で持たれたにもかかわらず、当初議題の一つである会議の傍聴・公開について、曾野綾子委員の「ここは私たちの職場です」との反対意見などで、未だ公開されないことを遺憾に思う。審議会は市民の論議と同時進行で議論すべきで決して審議会のメンバーに全権委任したのではなく、多くの市民やの意見や議論に耳を傾け参考にすべきである。
 そして9月18日。わずか20名の参加だが日本で初めて、現職裁判官が「日本裁判官ネットワーク」を立ち上げた意義も大きい。 
 審議会の検討項目は、裁判の迅速、法曹人口の増加、法曹一元、被疑者弁護の公費負担など田儀に渡っているが、私は特に法曹一元、被疑者弁護の公費負担と代用監獄廃止の実現を求めたい。
 第一に日本では司法試験に合格し、司法修習を終了しただけで、社会の底辺どころか労働体験さえもない人が「裁判官」と呼ばれたて人を裁くことが出来るのだろうか?英国のように嫌でも社会の裏表する弁護士経験者などからの裁判官を採用する「法曹一元」はぜひ必要である。
 この「法曹一元」。は37年前の「臨時司法制度審議会」でも望ましいことだが、実現のための条件が整備されてないと棚上げされた項目であり、その条件整備を行い是非実現させるべきである。
 第2日に、日本では被疑者は起訴され被告なってからでないと国選弁護をつけられず、経済的負担のできなかった人たちは国家権力にたった一人で対峙しなくてはならない。
 しかし、冤罪を調べればこの被疑者段階での自白調書が証拠採用され、冤罪を生んでいる事件が少なくなく、松本サリン事件の河野義行さんも「もし、弁護士がつかなかったら自白ていたかもしれない」と講演などで話している。
 日本は法律扶助を定めた法制度さえなく、政府は「民事法律扶助法案」を検討中だが、所詮民事は金で解決する問題であり、人権差別である刑事事件にこそ公費負担の実現が必要であり、法務省は今年の概算要求で法律扶助費を昨年の4倍の22億円を要求するというが、人口半分のイギリスでは国の支出だけで2000億円を超す負担をしている現状を知ってほしい。
 第3に古くて新しい「代用監獄」の問題である。政府批判を避けるため被疑者の取り調べと留置業務の担当部署を分たが、所詮同じ警察署内では効果はなくそれが無理な取り調べや自白強要の温床になっている。
 取り調べる警察自身が身柄を拘束することには問題があり、取り調べる身柄の扱いは別にするのは先進国の常識であり、この原則通り被疑者は法務所管轄の「拘置所」に収容すべきで、政治家や有名人にのみその扱いするのは「法の下の平等」に反する。
 日本の捜査は被疑者を外界から遮断し、時には弁護士の接見さえ拒否し、心理的孤立不安に陥れ、自白の強要を迫り、自白から証拠を集める本末転倒の捜査をしている。
 その手法は警察が楽(手抜き捜査)ではあるが、それが冤罪を生んでいる大きな原因の一つになっている。先日3度目の無罪判決が確定(「有罪判決」は一度もなし)した「甲山事件」の山田さんも自白されさせられている事実を知ってほしい。
 自白や目撃証言アリバイの有無などあくまでも補強証拠であり、すでに目撃証言のあいまい者は証明され、海外が証明できることは非常に稀なので、
 冤罪や人権を他人ごとと思わず感心を持ってほしい。松本サリン事件の河野さんのように、何時が誰が巻き込まれるか分からないのです。

 

「不当な有罪判決、代用監獄と自白主義が冤罪を生む」 (00.2.15・「市民じゃ~なる」)

 

 97年11日にだった千葉県松戸市で起きた殺人事件の第一発見者でだったが、、通報者でもあるフィリピン女性に、今年9月 8日、千葉地裁千葉地裁が懲役8年の実刑を下したことに怒ってる。
 この女性は事件当日、警察と現場に立ち会ったまま身柄拘束され、その後、「逮捕状」も無いままが24時間監視の下、警察官舎やビジネスホテルなどで9泊10日も拘禁され、その間、食事はすべて警察から与えられトイレにまで同行され、2日目にはポリグラフ(嘘発見器)にかけられ、当初、4日間は通訳も付かず 取り調べるときだけが警察に連行され、自白強要したのである。そして、否認し続けていた彼女の9日間の「自白」を根拠に起訴されたのである。
 憲法には33条で現行犯でない限り「令状によらなければ逮捕されない」と不当な身柄拘束を禁止し、または38条ではが自白の強要を禁止し、第2号では強制、拷問、脅迫、もしくは長期期拘禁した後の自白は無効とされ、さらに第3項では自白だけではが有罪にできないと明記されているのである。
 しかも、この千葉地裁はこの取調の違法性を認定しながら、「被告の自白は任意性があると認められる」と自白を理由に有罪を認定したのである。
 逮捕状もないまま、不当に9日間も身柄拘束された後の「自白調書」だったを有罪理由にするようなことが許されていいのか!日本の捜査別件逮捕で本件を追求し、しかも、だった警察の手もとの代用監獄(留置所)に拘禁し、生活のすべてをコントロールし精神的に追い込み自白を強要し、その自白に基づいて証拠集めるは本末転倒の捜査が冤罪を生んでいる。
 憲法は無条件で「黙秘権」を認め、被疑者はは取り調べに協力する義務はなく、無罪を証明する義務もなく、有罪の証明に自白の必要はなく、検察にはは自白にの有無に関係なくは有罪を証明する義務があり、それを守らないから冤罪が続くのである。

 

「『草加事件』でも明らかになった自白偏重」 (00.3.17・「週刊金曜日」)

 

 最高裁判所第1小法廷は2月7日、「草加事件」の民事訴訟で損害賠償を認めた2審判決破棄し、審理を東京高裁に差し戻しだが、なぜ自ら賠償否認(無罪)の判決をしなかったのか。
 最高裁が判決要旨の中で「本件事件と少年をを結びつける直接証拠は自白だけであり・・・」、と言い、更にその自白の中に秘密の暴露が無いと判断しているのだったら、賠償否認判決をすべきだったのではないだろうか。
 また、差し戻しの理由を〝自白を裏付ける客観的証拠があるかどうか、自白の内容に不合理な点が無いかどうか吟味すべき〟ともしているが、有罪の証明に自白の必要性はなく「自白の任意性」が問われること自体、ほかに証拠の乏しい証拠ではないだろうか。その自白偏重重視の捜査、裁判が冤罪を生んでいるのだ。憲法38を第3項には「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、また刑罰を課せられない」と明記してある。
 この事件で遺体に残った唾液、毛髪、体液はいずれもAB型だったが、逮捕された5人の少年の血液型はいずれもB型およびO型だった。一審は自白の「血液型不一致」という決定的な物的証拠優先し賠償請求を棄却したが、東京高裁は少女の「A型の垢とB型の少年の唾液が混ざってAB型になった可能性も考える」など、素人だって無理な解釈と分かるこじ付けて賠償を認めたのである。
 捜査当局は少年審判の段階でこの「血液型不一致」の証拠隠し、提出したの処分(有罪)決定後であった。そのため、少年の審判たった2回で決まり、高裁の抗告、最高裁の再抗告も棄却されたのである。
 「血液型不一致」の証拠不提出の理由を、元捜査幹部は「明白な自白があったので必要ないと判断したと」発言した。相変わらずの自白偏重だ。裁判官もそれに引きずられていることを〝証明〟した。これでは何時になっても冤罪は無くならない。

 

「最高裁・草加事件差し戻す。被疑者推定無罪だ」 (00.4.10「市民じゃ~なる」)

 

 2月7日、最高裁第1小法廷は、15年前に女子中学生が殺され、5人の少年が逮捕された「草加事件」の民事訴訟で、2審の賠償請求認定を見直し東京高裁に差し戻したが、少年審判の処分(有罪)決定も無理な判断であった。
 そもそも、「自白に任意性」が問われること自体、他に証拠の乏しいことを表し、有罪証明に「自白」必要なく、自白の有無に関係なく警察に証拠を示す義務があり、そのために強大な捜査権が認められているので。
 最高裁は判決理由の中で「本件と少年を結びつける直接証拠は自白だけであり・・・」とあり、更に、その自白には秘密の暴露(犯人しか知り得ない情報、これがないと自白の信用が崩れる)かないことも指摘している。
 憲法38第3項にも「自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合に有罪とされ、または刑罰を課せられない」に当てはめ、最高裁は自判で無罪を言い渡すべきだった。
 更に、この事件では遺体に付着した唾液、毛髪、体液など何れもAB型であり、5人の少年はいずれもB型およびO型で「血液型不適合」という決定的な無実証拠があるにもかかわらず、当初の少年審判の段階で検・警察はこの血液型不一致という捜査当局に不利な証拠を隠し提出さえせず、そんな中で少年審判をたった1回の審判で処分(有罪)を決めたのである。
 審判の控訴審でも東京高裁は血液型不一致の証拠は「必要ない」と除け、捜査段階の少年の自白を安易に証拠採用し非行事実を認定したが、このような自白偏重の捜査、裁判が冤罪を生み続けているのである。前記の通り憲法は唯一自白だけが証拠の場合は有罪とされないと明記されている。
 少年事件に限らず裁判官自身が公判での証拠より、捜査段階の自白調書を認める方向が強いが、自白はあくまで「補強証拠」であり、それに頼ってはならない。大の大人でも無実の自白してしまう中で、少年の取り調べに弁護士どころか保護者も立ち会わず、自白の強要要することは赤子の手を捻るに等しく人権無視である。
 英国では逮捕段階からすべて公費で弁護士が付き、しかも、弁護士に取り調べに立ちいう権利さえあり、取り調べにはすべて連続して連続し録音することは公的に義務づけられ、電話も自由に(「証拠隠滅」を防ぐため傍受される)にかけられるのである。なぜなら、「被疑者推定無罪」の扱いを受ける権利があるからである。
 これに対し日本では別件逮捕まかり通り、被疑者1つの事件で最大23日(先進国出す時間、3日)もみ身柄束され別件での逮捕もあり、捜査に関係ない食事、睡眠、喫煙、姿勢などすべて生活をコントロールされ、経済力のない人には弁護士がつかない中で取調が行われるのである。
 その上、マスコミは逮捕段階から実名報道どころか写真報道までし、それは「推定有罪」の報道であり松本サリン事件から何も学ばず、この姿勢が冤罪を後押ししている。
 国家権力と法律に無知な一市民が対峙することあ到底平等と言えず、憲法は被疑者被告の防御権、弁護権を認めているもの、取り調べの被疑者段階での弁護権は保証されず、被疑者言語は現在、1度だけ弁護士が無料で接見してくれるボランティアの「当番弁護士制度」で細々と為されているが、人権はボランティアで支えるものでなく政府には人権保障する義務がある。
 そもそも少年審判で2週間の間に無罪を主張することは不可能に近く、少年法の改正が必要であり、また、警察がこのように不利な証拠を隠すことが許されるなら、真実の解明は困難であり捜査当局の証拠を全て法的に提出を義務づけるべきだ。
  現在、内閣制に接された「司法制度改革審議会」の審議が進んでいる中で、被疑者弁護の公費負担も論点の中に含まれたが、冤罪を防ぐためには英国のように取り調べには弁護士に立ち会う権利を認め、「疑わしき罰せず」徹底のため、米国などの様に無罪判決後の検察の上訴権を否定されるべきで、上級審が下級審より正しいとするのは権威主義である。

 

「人権を守り冤罪をなくすために」 (「季刊刑事弁護」00年夏号)

 

 私が冤罪をなくすために被疑者弁護の公費負担を求め、「当番弁護士制度を支援する市民の会・東京」で運動している一人です。
 法律に素人の市民がたった一人で権力と対峙することは到底平等とは言えず、故に法には「弁護権」を認め国選弁護制度があります。
 しかし、冤罪を見ると取り調べ段階での自白調書が証拠採用されての冤罪が少なくなく、それは被疑者段階での弁護活動がいかに重要かを示しています。
 現在、日弁連がすべての地域で「当番弁護士制度」を実施していますが、それは、会員から特別会費の徴収し希望者の登録という弁護士のボランティアで運営されています。
 被疑者にとって弁護士が付くか否かはまさに人権問題そのものであり、それは「松本サリン事件」の河野義行さんの行動などでも明らかで、その人権が他人の善意で支えられていていい訳はなく、人権は権利であり善意で支えるものではなく、経済力に関係なくすべての人に対してその保障義務が政府にあると思います。
 ご案内の通り英国では逮捕段階からすべて公費で弁護士が付き、弁護士には取り調べに立ち会う権利さえあり、法律扶助の国庫負担も日本は欧米選手国に比べて一桁も二桁も少ないのです。
 そして、裁判官が公判の証言より、捜査段階での「自白調書」を信用する傾向を考えれば、被疑者弁護の公費負担が是非必要であることを訴えます。
 もう一つ訴えたいのは冤罪が確定しても、その教訓が生かされていないことです。冤罪が確定したならその過ちを反省し、今後に生かすために、検察は「なぜ起訴してしまったのか?」、裁判官は「なぜ無罪を見抜けなかったのか?など冤罪の検証をする事は最低の責務だと思います。
 また、裁判官は市民や地域社会に馴染まず、別の社会で生活しなかには社会での労働体験のない人も多いのではないでしょうか。そんな人に人を裁けると私思えないのです。日本の裁判官も三猿ではなく嫌でも社会の裏表を知る弁護士経験者などから裁判官を選ぶのは一つの方法だと思います。そして国家予算の1%も満たない司法予算を増やして、弁護士や警察官とともに裁判官を増やすことも必要と考えます。

 

「無罪判決の身柄拘束が人権侵害」 (00.6.2・「週刊金曜日」)

 

 「渋谷女性社員殺人事件」で無罪判決を受けた外国人に、抗告審を担当する東京高裁第四刑事部の高木俊夫裁判官自身が地裁で3年もかけて出しただった判決を、公判も開かれないうちわずか数日で新たな証拠もないまま「罪疑う理由あり」とと検察の勾留も請求を認めて認めたことは、控訴審が「推定有罪」のと偏見の下に始まることを意味し認められない。
 しかも、この請求が東京地裁と高裁第5特別部で、2度も却下されているのである。裁判では被疑者・被告は「推定無罪」の白紙の状態で公判が始まらなくてはならず、ましてや、無罪判決が出て被告を推定有罪の下に勾留交すること到底許されない。
 弁護人が指摘するように、無罪後の控訴審は身柄釈放のうえ継続され、日本人なら。 外国へ行くのも自由であり、そこで逃亡することも可能であり、外国人を理由に無罪判決後の勾留を認めることは差別であり人権に反する。
 警察はその理由を、不法滞在で強制送還されると裁判の継続が困難で、有罪だった場合には刑の執行が出来ないなどとと主張するが、弁護士や書類の調達受取人を受ければ、裁判の継続が可能である。ましてや、「もし、有罪判決の時に刑の執行できなくなるかもしれない」などと公判前から推定有罪の下に勾留を認めることは言語道断である。米国では人権を優先し刑事裁判の鉄則であるで「疑わしき派罰せず」を守るため、無罪判決の警察・検察の上訴権券は否定されているのである。
 一部に「法の不備」を主著する意見があるが。それは今後の問題で法治国家なら現行法内の人権優先で判断されるべきで公判も開かれないうち、推定有罪の偏見を持った裁判官は排除されるべきである。人権より処罰や治安優先の社会民主主義国家ではない。

 

「誤認逮捕の責任はっきりと」 (00.6.16・読売新聞「気流」)
                           
 愛媛県吉田町の男性が窃盗容疑などで誤認逮捕され、一年以上も拘置された問題で、愛媛県警は捜査に関係した警察官に対する懲戒処分は行わないと発表したが、どうにも釈然としない。
 検察や警察は、誤りを認めて謝罪したが、謝罪だけでなく、誤認に至った原因を明らかにし、責任の所在をはっきりとさせるべきだ。そうでなければ、犯行を「自白」した本人が悪いと言っているかのようにも受け取れる。
 問題は、なぜこの男性がやってもいない罪を「自白」しなければならなかったのか、ということだ。捜査当局はそれを明らかにする責任がある。
 男性の潔白が証明されたのは、判決公判の直前にたまたま捕まった真犯人が余罪を自供したからで、そうでなかったら有罪判決が下りた可能性は高い。
 いったん自供すれば、裁判で無実を主張しても、真犯人が現れない限り、そのままぬれぎぬを着せられかねない現実を、今回の事件は物語っている。
 「処分なし」とする県警の決定は、威信を守り捜査員の委縮を防ぐという組織防衛のように思える。こうした対応を認めるならば、ずさんな捜査を助長することにもつながるのではないか。

 

「市民感覚とかけ離れた最高裁の判決」 (00.9.22・「週刊金曜日」)

 

 9月6日、最高裁大法廷は1998人の参議院選挙での、一票の格差4.98倍を「国会の立法裁量権の範囲内」とし、その多数決で合憲とした。私のこれに対して憤りを感じる
 いま司法制度改革で法曹一元の必要性が訴えられているが、キャリア裁判官は往々にして社会を知らず、市民の常識とかけ離れた判決を出す。どう見ても2倍を超えることは許されず、子供に聞いても5倍の格差は不平等であると答えるであろう。地方格差を考慮しても、この数字が許される範囲を超えており、今回の最高裁の判決が政治判断と言われても仕方ないだろ。これは合憲判断をした判事の出身構成を見てもわかる。
 翌7日も第1小法廷は刑務所で訴訟打ち合わせの弁護士の接見制限を合法とし、2審の違法判断を破棄した。英国では逮捕段階からすべての容疑者に公費で弁護士が付く。取り調べに際しては弁護士が立会う権利を持ち、弁護士が「立ち会う」言えば、弁護士到着まで警察は取り調べを開始できないのであり、弁護士の接見制限をとするこの国の人権感覚がいかに遅れているかがわかる。
 また過日、「渋谷女性社員殺人事件」でも1審無罪のネパール人被告の強制送還を止めるため、控訴審も始まらつまらないうち、東京高裁の担当判事自身が「犯人の疑いあり」と検察の勾留請求を認め、最高裁がこれを3対2で追認した。これも市民の常識と到底合致しない。これでは1審無罪の控訴審が「推定有罪」で始まることになる。ちなみに米国では無罪判決後の検察上訴権はを否定されている。
 このような最高裁では到底憲法裁判所の機能を果たすことはできない。市民常識とかけ離れた裁判をなくすためには、嫌でも社会の裏表を知る弁護士などから裁判官を選ぶ。法曹一元や裁判に市民常識を取り入れるため、現在法的に停止状態にある陪審制度の復活がぜひ必要である。

 

【2001年 】

 

「不当な取調べによる自白強要許さぬために」 (「季刊救援情報」01.2月号)

 

 現在「国選際弁護」は起訴されて、被告となってからでないと付かず、冤罪の多くは逮捕・身柄拘束された被疑者段階の「自白調書」が証拠採用されている例が少なくありません。
 愛媛県宇和島所管内で1年以上も勾留され、結審後の何と判決4日前に誤認逮捕が確認された事件(2000年4月25日に予定されていた判決4日前この男性は釈放され、結局5月26日に松山地裁宇和島支部で無罪判決が言い渡された)でも、この冤罪被害者は自白させられていたのであり、被疑者段階で弁護士が付く否かは、まさに人権問題そのものです。それが経済力や富の有無で差別されていい訳はありません。
 2000年大分弁護士会で初めて「当番弁護士制度」が発足し10年になり、昨年11月25日、大分弁護士会と弁護士を支援する市民の会をおいたとの共催で、「当番弁護士制度10周年集会」が大分市で開かれました。
 東京の弁護士会でできることが地方でできるとは限りませんが、地方の弁護士会にできることなら全国でできると、98年には全ての地域でこの「当番弁護士制度」が実施され今やその存在価値を否定することはできません。
 しかし、この制度は弁護士から「特別会費」を徴収という形で運営され、つまり、ボランティアであり人権がボランティアで支えられて行っていい訳はなく、11月20日に提起された政府の司法制度審議会の「中間報告」にも、公費による被疑者弁護の必要性が盛り込まれましたが、この制度の1日も早い法制化が望まれます。
 しかし、権力から人権を守るためにこの制度の運営が、権力に監視されるものであってはなりません。金は市民の税金であり「金も出すから口も出す」様なことを認め必ず、日弁連や法律扶助協会などのように完全に独立した機会に委ねられるべきです。
 そして、さらに人権を守り冤罪を防ぐために密室での入質司法に対して、取調の可視化を求めます。
 つまり、英国のように弁護士に調べに立ち会う権利を求めます。英国で逮捕段階からすべて公費で弁護士が付き、しかも、弁護士には調べに立ち会う権利や、取調状況すべて連続したテープ録音が法的に義務づけられているのです。
 これは英国でも当初導入に反対していた警察も、今は逆に公判で自白を翻しても取り調べで強制してないことを逆証明できると、最近はビデオの導入も始まりました。この導入が日本でもぜひ必要です。
 さらに本誌27号の特集「なぜ警察は証拠を隠すのか」でも指摘されていた通り、「証拠開示」を義務づけるべきです。冤罪でないなら捜査当局の集めた証拠はすべて合理的に説明されなくてなりません。
 有名な松川事件の「諏訪メモ」に限らず、冒頭に述べた宇和島の誤認逮捕でも警察が「防犯ビデオに映っている」と嘘をつき、認められない親戚の家に宅捜索を入れると脅迫し自白を迫ったのであり、写っていないビデオ見せられるわけがなかったのです。
 このように官権が嘘までついて自白を強要しているのは日常茶飯事の状況にあります。証拠開示が必要なことは多くの冤罪が証明しています。
 そして、人間のやることに「絶対」はありません。万が一冤罪が判明した場合には何よりもその原因を追求し、教訓として生かすために検察・警察はもとより、裁判所にもなぜ逮捕・きそそてしまったのか?なぜ有罪判決をしてしまったのか?の検証を法的に地味義務づけ、その検証結果を公表すべきです。
 警察や裁判官が冤罪の検証をしないなら、何の反省もせず教訓として生かせないことになり、「検証」なくして冤罪の教訓を生かすことはできません。

   

「飲酒運転常習は未必の故意では」 (01.2.16・読売新聞「気流」)
                           
 本紙の連載「裁く」で、酒酔い運転の大型トラックが渋滞の列に突っ込み幼児二人が焼死した事件の二審判決を取り上げていた。
 判決は、控訴棄却で、一審の「懲役四年」は覆らなかった。「同種事故と比較しても、懲役四年は軽すぎるとはいえない。この被告だけ重い刑を科すことは処罰の公平性を損なう」というのが判決理由だったという。
 他の同様の事件と比較して同程度の判決を下せばいいのなら、パソコンの一台でも置いておけば足りるのではないだろうか。類似の事件でも、個々の事件の問題点の違いを詳細に検討するのが裁判官の役目ではないか。被害者の母親は「裁判所の物差しは一般国民とあまりにも違う」と言っていたというが、同感だ。
 「被告なりに反省を深めている」という一審での情状も支持されたようだが、常習的に飲酒運転をしていた加害者が反省するのは当然だろう。失われた幼い命は二度と帰らない。
 この事件の被告の行為は「過失」というより、どうみても「未必の故意」のようなものではないだろうか。

 

「司法の改革へ課題は数多く」 (01.5.2・朝日新聞「声」)
                            
 最高裁と法務省はそれぞれ司法改革審議会に、裁判官、検察官の具体的人員増の意見書を提出したが、これは司法改革審を含めた世論の力だろう。
 今まで日弁連を始め、裁判官や検察官の人員不足を社会は訴えていたが、最高裁は耳をかさず、民事事件では現在、裁判官1人当たり180件ぐらいの事件を抱えている。しかし、この人員増はなかなか実現されてこなかった。
 言うまでもなく弁護士を含め日本の法曹資格者は先進諸国に比べ極端に少なく、弁護士を特権階級とみて敷居が高いと感じている人も多い。裁判の長期化は裁判官の人員不足と無関係な訳はない。
 今年度の裁判所の一般会計予算は約3200億円、法務省予算が約6100億円、合わせても1兆円に満たない。両者の一般会計予算は国家予算の約1・13%に過ぎず、これでは十分な人員増はできない。
 司法改革審の中間報告には公的被疑者弁護制度も盛り込まれたが、冤罪を防ぐため取り調べ全体のテープ録音の義務づけや、冤罪が確定した場合に裁判所と検察が経過を検証し、その結果を公開することなども求めたい。

 

「裁判所、検察、警察に冤罪の責任を取らせよう」 (01.7.6・「週刊金曜日」)

 

 本誌3376号(6月15日)の「金曜アンテナ」に、米国で殺人罪で処刑された黒人が80数年ぶりに、無罪と名誉を回復した記事を読んだが、誤判の原因はやはり物的証拠によらず「目撃証言」を信頼したことだったという。
 目撃者がを立ち去った黒人を「見たような気がする」との証言に、複数の黒人のならばせ面通ししたところ、住民の一人が彼を指差したという。
 このようなことは今も日本で起きている。昨年春、愛媛・宇和島で50万円の詐欺窃盗を自白し、1年以上も勾留されていた男性が真犯人が判明して、なんと判決4日前に釈放された「宇和島事件」も同じである。
 この事件では被害者に防犯ビデオを見せたところの男性に「似ている」との証言に、警察はこの男性に「防犯ビデオに映っている」と嘘をついて自白に導いたのである。警察は似ていれば犯人、被疑者は犯人という意識で冤罪を作り上げるのである。
 私が冤罪に関し思ったキッカケになった「下田缶ビール欺事件」(缶ビール50ケースの詐欺)でもそうだった。真犯人と直接対面した酒店と民宿の人たち3人は、面通しによる当初の印象は「似ている」だったのに、警察に誘導でだんだん自信をを持ち、この人に「絶対間違いがない」との証言となった。これより他の物的証拠が無視され罪を生んだ。目撃証言は非常に曖昧であるにもかかわらず、いまだ物的証拠無視した自白偏重捜査が厳然と行われているのである。
 先の「宇和島事件」の冤罪確定後も「捜査に何ら問題ない」と警察・検察の処分は一切ない。しかも、日本には冤罪の法的検証義務さえなく、この「金曜アンテナ」書かれた米国のような「名誉回復」はあり得ない。裁判所・検察双方に冤罪の法的検証義務付けが必要である。


「日本の捜査は『人権尊重』か」 (01.7.8・朝日新聞「声」)
                            
 沖縄の女性暴行事件で米兵容疑者の身柄がようやく引き渡された。国民感情としては当然だが、県警の「日本の刑事司法システムは人権に十分配慮しており、そのなかでやっていくのが当然ではないか」という主張には、異論がある。
 容疑者は米軍に身柄が確保され、任意の事情聴取にも応じてきた。だが、日本では「まず逮捕ありき」である。自白を求め、それによって証拠を集める。そんな手法が、いかに多くの人権を侵し、冤罪を生んできたことか。
 先進諸外国では、取り調べの弁護士立ち会いや弁護士の公費負担などが常識であり、逮捕後は、情報を遮断して密室で連日23日間も自白を強要する取り調べは、到底「人権を守っている捜査」とは言えない。昨年春、1年以上も逮捕勾留(こうりゅう)されていた男性が真犯人の出現で、判決4日前に誤認逮捕と確認された「宇和島事件」も自白からであった。警察は今後、自白を強要しない取り調べの姿勢を堅持するべきである。

 

「日弁連は立場を自覚してほしい」 (01.11.2・読売新聞「気流」)
                           
 日本弁護士連合会(日弁連)が、元法相の保岡興治衆院議員(自民)の政治資金パーティー券を購入していたという。さらに会員から質問状を受けた日弁連が明らかにしたところでは、約二十年前から、与野党の複数の政党や国会議員に同様の支出をしていたそうだ。
 全国の弁護士会で構成される日弁連は、弁護士の強制加入団体であり、「権力」から独立した団体として、市民は信頼を寄せている。弁護士個人には思想や信条の自由があり、どの政党を支持してもいいが、団体としての日弁連が、特定の政治家や政党を支持することには問題が多い。
 日弁連は、今後パーティー券を購入しないことを決めたというが、当然だろう。会見した日弁連会長は「問題を深刻に考えず、不適切な支出との認識が欠けていた」と述べたそうだ。
 よく「裁判官は世間知らず」との批判を耳にするが、これでは弁護士も非常識と言われても仕方がないのではないだろうか。

 

「自白の強要防ぐシステム作りを」 (01.11.15・読売新聞「気流」)
                          
 京都市内の国立療養所で九八年、電気ポットにアジ化ナトリウムが混入され医師ら七人が薬物中毒になった事件で、京都地裁は、被告が混入を認めた調書について「取り調べが不適切で、任意性に疑いがある」と、検察側の証拠請求を却下した。取り調べの中で「担当刑事が脅迫的なことを言った」と認定したためだ。
 多くの冤罪(えんざい)事件に共通するのは、事件が立件される際に、被告の“自白”が大きな決め手となっているということだ。昨年五月には、愛媛県の窃盗事件の判決直前に「真犯人」が現れ、被告とされていた男性が無罪となる裁判があったが、この男性も逮捕直後に、犯行を“自白”させられていた。
 憲法三八条は、自己に不利益な供述の強要、拷問や脅迫などによる自白を禁じている。しかし、今でも「自白の任意性」が争われる裁判は少なくない。
 今月九日に司法制度改革推進法が成立したが、このような自白の強要を防ぐ方策を講じることは重要だ。「代用監獄」の廃止とともに、イギリスのように、取り調べ内容をテープレコーダーに録音するよう義務付けることも実現して欲しい。

 

【2002年】

 

「市民の常識に逆行した判決」 (02.6.16・朝日新聞「声」)
                            
 談合の疑いを追及する原告が、公正取引委員会が集めた資料の公開を請求したことに対して、5日、東京高裁が閲覧とコピーを認めた公取委処分を適法とした一審を取り消し、企業側の開示処分取り消しを認めた判決を下した。これは情報公開時代に逆行している。
 高裁はその理由を、公取委の審判が確定していない段階では、訴訟を起こした住民らはこの「利害関係人」とは言えないからだという。市民常識とかけ離れている。また、企業側に不利益を被る可能性の考慮を認め、収集資料で違法が認定されない状況で、証拠として用いることは、法が予定していないという。企業への不利益は考慮しても、原告の不利益は考えないのか。収集したすべての資料・情報を公開して検討すべきで、裁判も同じである。
 密室での審議や裁判は、信頼を失う。権威は、力ではなく市民の「信頼」で保たれるのである。

 

「自白の強要を防ぐため、被疑者公的弁護制度の実現を」 (02.10.4・東京新聞「ミラー」)

 

 テーマパーク「USJ」に爆弾を仕掛けたと携帯電話からの110番したと、威力業務妨害容容疑で男性を誤認逮捕していたと大阪府警が明らかにした。この事件では任意の取り調べ段階での「自白」に基づき、10日間拘置されたが、逮捕直後からの否認と携帯電話の記録から時間が違うことは判明し釈放された。
 しかし、これは電話記録と言う動かし難い証拠が在ったからで、相変わらず「自白偏重・強要」の捜査取り調べのある事を裏付けている。自白は、「秘密の暴露」と言われれる犯人しか知り得ない内容が含まれなければ、信用したり、証拠採用してはならないことは鉄則であり、安易に自白を信用した結果である。
 99年2月に愛媛県宇和島署に窃盗・詐欺容疑などで逮捕された男性が1年1ヶ月も拘置されたまま結審。その判決公判4日前に運良く、高知県警に強盗傷害容疑で逮捕されていた真犯人が、この「宇和島事件」を告白したため無罪となった。つまり、自白は安易に裁判所まで信じるのであり、真犯人が自白しなかったら間違いなく有罪判決が出ていたであろう。
 「秘密の暴露」がない限り自白は証拠になり得ないことは警察はもとより、市民に知ってほしい。自白が無くても物的証拠などで立証するために、警察には強力な「捜査権」が与えられているのだ。
 この様な自白を防ぎ人権を守るため、英国でも実施されている取り調べへの弁護士の立ち会いやテープ録音、そして、司法制度改革審議会からも答申された逮捕段階から公費で弁護士をつける「被疑者公的弁護制度」の実現がぜひ必要である。

 

「著しく信頼失う警察の事件放置」 (02.10.18・読売新聞「気流」)
                          
 不祥事続の続いている埼玉県警で、今度は警部補が3年間に恐喝や暴力行為など68件の少年事件を捜査を行わずに放置していたことが発覚した。さらに問題なのは、こうした不祥事への処分の甘さだ。
 未処理だった事件のうち3件は、すでに当該少年が成人したため家庭裁判所での審理ができなくなっていた。このため県警は警部補を処分したものの、それは内部処分である本部長訓戒で、地方公務員法の懲戒処分ではなかった。
 残りの65件は、問題発覚後に県警として捜査を行ったことなどを理由に、警察庁や県公安委員会にも報告されず、事実上、「不問」とされていたという。
 同様の捜査放置問題で他県警では、停職や減給という懲戒処分が下されている。埼玉県警の対応は不祥事に対する認識があまりにも甘いのではと思われる。
 様々な事件が相次ぐ昨今、1人ひとりの警察官の負担も少なくないであろうが、県民の信頼を裏切ることにないよう、もっと気持ちを引き締めてもらいたい。

 

「司法試験の門戸閉ざす改革」 (02.11.19・東京新聞「発言」)
                           
 このほど発表された司法試験の合格者は1183人で平均年齢は27.57歳、音楽大学出身の合格者もいたと言うが、今後そんな人は出なくなるだろう。衆院で法科大学院制度導入のための関連法案が可決されており、参院を通過すれば司法試験の受験が大幅に制限されることになる。
 これまでの司法試験の受験は学歴や受験回数などには何の制限もなく広く門戸が開かれた数少ない国家試験であった。しかし今度は原則として法科大学院卒業が受験資格になり、受験回数も5年以内に3回と制限され門戸を閉ざすことになる。
 裁判官などは学問だけ優秀な頭でっかちの「専門バカ」では困り、社会体験もない人に人間が裁けると私は思わない。しかし、恵まれた環境でなければ法科大学院などに行けなくなる。試験に何度落ちても必死で頑張ったような経験を持つ裁判官に私は裁かれたい。 往々にしてこれまで、裁判官の世間知らずが指摘されていることをよく考えてほしい思う。


「警察の取り調べ記録してほしい」 (02.11.29・読売新聞「気流」)
                                                     
  神奈川県警戸部警察署で、取り調べ中の容疑者が証拠品の拳銃で自殺したとされた事件で、横浜地裁は22日、拳銃を撃ったのは警官と推測されるとして、同県に慰謝料などの支払いを命じた。県側はこの認定に誤りがあると控訴した。
 警察の取り調べ状況は、警察以外の者が知ることはとても困難である。このため今回のような事件が起きても、真相の解明はとても難しくなってしまう。このほかにも、捜査段階での容疑者の自白調書の信用性が裁判で争われるケースも少なくないようだ。
 冤罪を防ぐためにも、海外でも行われているように、取り調べ時点での弁護士立ち会いや、取り調べの録音を制度化するようなことも必要でなのではないだろうか。
 そうすれば、捜査側にとっても、自白が強制したものではないことを証明するのが容易になるだろう。、人権を守るために法整備を進めてほしい。

 
【2003年】

 

「人権を理解しない森山法相は辞任せよ!」 (03.3.21「週刊金曜日」)
                                                  
 名古屋刑務所での暴行致死、否、「虐殺事件」で法務省は事務次官ら11人の処分を発表したが、森山真弓法務大臣の”閣僚給与3ヶ月自主返納”の認識にあきれる。大臣は人権が金で買えるとでも思っているのか。しかも、給与の「「自主返納」は処分ではない。
 消火栓の高圧水流を肛門めがけて放水、とはあきれた破廉恥罪で、これは小林多喜二の拷問死と同じである。いまこの国の人権レベルは、当時と同じということである。
 このようなことが、なぜ生じるか。受刑者を刑務所に収容し、自由を奪うだけではなく、刑務所内でも自由を拘束し、作業場で行くのにも隊列を組み、作業場では話もさせない。米国では手紙も電話も自由だが、日本では電話どころか手紙にも面会にも制限ある。刑務所内でもあらゆる自由を制限しようとするから、制裁や虐待が起きる。
 しかも、キャリアたちは自己保身のため、「偽造報告書」さえ提出したことは報道されたとおりおである。
 しかも、森山法相は虐待発覚当時の国会で「検察が捜査に乗り出しており、断片情報をいちいち私に上げる必要はない」と答弁。処分にも国民は納得するかとの記者質問に、「このはんが適当。まあまあ適当」との軽い発言・解釈に憤りを感じた。受刑者の人権をまったく理解していない。
 韓国では昨年10月26日ソウル地検で被疑者が捜査官の暴行で死亡したが、法務大臣と検事総長は翌月4日、その責任を取って辞表を提出した。人の命とはそのくらい重いものであり、それでも命は戻らないのである。森山法相に人権を云々する資格はない。

 

「第三者機関で刑務所『監視』」 (03.3.29・東京「発言」)
                                                     
 名古屋刑務所で暴行死事件が発生し、隠していた「死亡帳」が国会の追求で提出されたが、今度は刑務所内での変死の「検視」を法律で定められた所長ではなく、処遇部長が代行していたことが判明したという。
 不審死や医師の立ち会いのない死亡は「検視」に回されるが、そもそも所長は医師なのか。医師どころか処遇部長が代行検視とは言語道断である。いま、警察でさえ建前上は、留置と捜査は別の部署に分かれている。
 これでは事件性が問われて「司法解剖」されるべきものでも最初に、死亡や事件を知る刑務所内で「行政解剖」の名の下に処分される可能性があり、現にこの暴行死事件も司法解剖されていなかった可能性がある。
 刑務所内での死亡事件は、すべて刑務所外の観察医や大学病院などの第三者機関に委ねるように法律改正すべきであり、現状では到底、刑務所内で「人権」が守られている状況にはない。

「取り調べ録音日本も導入を」  (03.8.3・朝日新聞「声」)

 法務省は取り調べの透明性の要求に対し、身柄拘束中の被疑者・被告の調べ時間や調書作成の有無などを記録保存するという。密室で作られた身内の記録が当てにならないことは名古屋刑務所の改ざんで例も分かる。まやかしのナンセンスな手段である。
 立ち会いのない密室の取り調べでの「自白調書」が証拠採用され、多くの冤罪を生んでいる実態を理解していない。
 英国では連続したテープ録音が法的に義務づけられ、ビデオ録画さえ導入されつつあり、米国では立ち会いの無い調書は証拠採用されない。人権を重んじる国なら被疑者・被告の当然の権利である。
 沖縄米兵の引き渡しもこの問題で引っかかっているのであり、この国の人権が如何に遅れているか法務省は理解すべきである。自白の強要を防ぐため、安価で手軽に即実施でき、事実しか記録しないテープ録音を導入すべきである。
 「逮捕」は取り調べのためではなく、「証拠隠滅や逃亡」を防ぐために認められているのである。

 

「最高裁判決とプライバシー侵害」 (03.9.26・「週刊金曜日」)
                                                     
 98年11月、早稲田大学で開かれた、中国の江沢民前国家主席の講演に参加した学生名簿(氏名、住所、電話番号、学籍番号)を、大学が本人たちの同意を得ず無断で警察に渡したことは「プライバシーの侵害」と訴えた裁判で、今月12日、最高裁第2小法廷は学生側の主張を全面的に認めた。
 判決は警備という「公務」であっても認められず、さらに「提供による不利益がなかったとしても、無断の開示は不当に当たる」としている。
 住基ネットで氏名、住所、生年月日、性別など、「もともと公開情報であり、何ら問題ない」と主張している片山総務相は、この判決をいかに受け止めているのか。
 住所、氏名もプライバシーであり、受刑者や精神病院入院患者、DV(家庭内暴力)の家族などは住所さえ知られたくない。、最近は、住宅地図からの削除を求める人たちもいる。大阪市や市川市のように「性別」はプライナシーと、公文書から削除する自治体も出ているのであり、片山総務相は人権もプライバシーもまったく理解していない。
 住基ネットは自己情報の運用等に本人が何ら関与できず、どこでどう利用されるか分からない。個人情報が他人や役所、国家権力によってコントロールされることはプライバシーの侵害であり強制接続は即刻中止すべきである。
 民間利用が禁止されながらすでに住基番号が銀行に漏れ、防衛庁は住基ネットを利用し個人の健康情報まで入手していた。、どちらも処分されず、それでも政府はセキュリティーは万全だというのである。
 「ICカード」に至っては自分の情報でありながら、本人にそのICカードの中身が分からない。カードを相手に渡し何を読み取られたか、何を書き込み、書き換えられたか本人に知ることが出来ないカードの使用など許されていい訳はなく、住基ネットは即刻中止すべきである。

 

「『無罪推定』の原則守って」 (03.10.11・東京新聞「発言」)
                           
先日のひろば欄の「拘置所の中で陳情おかしい」の投書に異論を述べます。私は鈴木宗男議員を支持する者ではありませんが、冤罪に関心があり、再審問題に関与している者として意見を述べます。
 先日の投書者の主張は「被疑者は犯人」と断定している意見ではないでしょうか。警察、検察が容疑者して捜査、起訴したのは事実ですが、その裁判結果は出るまでは「推定無罪」の扱いが保障されなくてはなりません。
 逮捕・起訴イコール犯人ならば裁判は必要なくなります。刑事裁判は99.9%の有罪率の中から「無実を見つ出すこと」と言う学者もいます。
 松本サリン事件の報道被害者の河野義行さんも、あの事件の被告を「麻原さん」とあくまで犯人断定の扱い、表現を避けています。それは自身が危うく犯人にされそうになった苦い体験からです。
 投書者が言われる「一般常識では通用しない」ような人を選んだのは誰か、そして次回立候補するなら、その選挙民が決めることだと思います。

 

「物的証拠を無視した最高裁判決」 (03.11.21・「週刊金曜日」)
                                                    
 私は冤罪を無くすために「被疑者公的弁護制度」の実現と、「神戸少年事件」の再審(処分取り消し)請求運動に参加しているが、一審無罪の「東京電力社員殺人事件殺人事件」で10月20日最高裁が東京高裁の有罪判断を支持し上告を棄却したことに抗議する。
 一審無罪判決後、ゴビンダさんの身柄拘束を最高裁が異例の追認したことも人種差別である。日本人なら控訴されても身柄釈放され、海外旅行に裁判所の許可さえ必要ない。もし欧米人なら国際問題なる。
 なぜなら米国では陪審無罪評決後は検察の「上訴権」さえ否定されている。それは人権を守り「疑わしきは罰せず」を徹底するためであり、日本のように無罪から逆転有罪などあり得ないのである。
 しかし、この事件は同じ証拠でありながら、その見方により地裁と高裁で逆の判断がなされた。有罪は「だろう」の可能性では困る。判断が分かれた場合は無罪を採るのが人権であり、地裁より高裁が正しいという根拠はなくそれは権威付けである。
 この判決は「精液」という時間的経過を示す証拠物が在りながら、状況証拠の積み重ねという推測判断でしかなく、ゴビンダさんの「合い鍵の保持」は殺人の証拠ではない。
 また、ゴビンダさんにはアリバイ主張もあり、被害者の定期券がゴビンダさんの生活圏外である巣鴨の民家敷地内で見つかった物的証拠にも、東京高裁は「たいした問題ではない」と一蹴し、説明責任を逃げているのは言語道断である。また、10月1日に弁護団が補充証拠を出したばかりで余りにも早い判断である。
 「神戸少年事件」の再審(処分取り消し)請求でも、新たな鑑定証拠を付けた再審請求を神戸家裁は受理しながら、わずか半月余りで何と書類ではなく電話で「立件しない」と伝え、弁護士の「理由は?」の問いにも、「理由は言わない」と言う状況であったが、これでは到底法治国家ではない。
 検察の持つ証拠は全て開示し、有罪の場合はそれらが全て合理的に説明されなくてはならず、被告の生活圏外の巣鴨で定期券発見を説明できないのは、ほかに犯人が居る可能性を示している。警・検察は無理に被告に押しつけず原点に戻り捜査をやり直すべきであった。弁護士らの善意の再審請求に期待したい。 

 

「一定条件の下処遇改善が必要」 (03.12.29・読売新聞「気流」)
                           
 法相の私的諮問機関「行刑改革会議」が、刑務所内での受刑者の処遇者の改善などをまとめた。提言には、受刑者には、知人友人との面会や、電話の利用、外出外泊を認めるなどが盛り込まれている。こうしたことに、慎重さを求める意見もあるようだが、私は賛成だ。
 イギリスやフランスなどでも、条件付きながら、受刑者が外部と電話連絡をすることが認められているという。日本でも「面会」に立会人を付けたり、「電話」は傍聴したりするようにするなど、一定の条件を付ければ認めてもいいと思う。
 受刑者にとっては、身柄拘束されること自体が精細であろう。日本では、刑務官の号令に合わせて、」受刑者が隊列を組んで移動するということも行われているようだ。このような環境では、受刑者のストレスもたまり、反抗する者も出てくるのではないだろうか。
 名古屋刑務所で起きたような刑務官による暴行をなくすには、受刑者の処遇改善が必要だと考える。明治時代の監獄法は時代遅れだと思う。

 
【2004年】

 

「冤 罪 を 無 く す た め に」 (04.2.1・「季刊・救援情報」)

 

 私が具体的に冤罪を身近と感じたのは82年の夏に起きた「下田缶ビール事件」を、関原勇弁護士が冤罪を無くしたいと自費出版した『季刊 裁判ゼミ』の創刊号で知ってからです。
 その後「被疑者公的弁護制度」実現の運動や、「神戸少年事件」の再審(処分取り消し)請求と、その警察・検察の告発などに参加しています。
 『救援情報No39が「なぜ冤罪は起きるのか」を特集したが、刑事裁判とは「起訴された中から無実を見つけ出すこと」と、何処かで読んだ(聞いた?)ことを思い出すが、まったく全く同感である。罰の軽重より、冤罪を作ったらその人の一生を無にすることになるからで、99人の真犯人を逃しても1人の無辜を出してはならないのです。
 冤罪の多くが自白しており、裁判中にその「自白の任意性・信用性」が問われている例が多く、それに誰も疑問を感じず「自白の信用性」を本気で争っているのを不思議に感じている。
 そもそも「自白の信用性」が問われるような訴訟指揮は間違いであり、それは他に証拠が無いことを示し、自白の信用性を問う訴訟は本来ナンセンスです。捜査当局は自白や人間の記憶という曖昧な目撃証言以外の方法で立証すべきです。
 目撃証言の曖昧さはこの「下田缶ビール事件」は典型であり、真犯人と直接面談した複数の目撃証言を判決は優先し、他の証拠を無視して有罪とされたのです。また、弁護士も被告の訴えに誠意がなかったのです。彼は裁判官も裁判所も信じられず控訴もしないで服役し、出所後、同じ「海の家で」バイトをしていた真犯人を自分で探し出したのです。
 目撃証言の危うさは本誌登場の浜田寿美男氏の『自白の心理学』や、菊野春雄氏の『嘘をつく記憶』などでも明らかにされています。自白や目撃証言はあくまで「補完証拠」であり、それ以外の方法で立証すべきです。しかし、現実には安易に自白や目撃証言を証拠採用する傾向があり、また、それは捜査当局が有罪を導く方法として非常に楽だからです。
 そして多くの場合、官権の密室で作成された「自白調書」が証拠採用され、裁判官自身が被告を「推定無罪」で見ていないのです。
 取り調べの「可視性」のために少なくても英国のように、取り調べには「連続したテープ録音」を義務づける必要があります。現在のように官権の都合の良い部分のみ録音し証拠証拠提出する様なことが許されていい訳はありません。テープ録音は非常に安価で手軽に即実施できるのです。
 官権がこれに抵抗していることは、無理な取り調べや自白の強要をしている裏付けでもあります。当初、英国でもテープ録音導入に抵抗があったものの、公判で「強制された自白」と翻した被告に対し、逆に「そうではない」との証拠にも使え、今は何の抵抗もなく、最近はビデオ録画さえ導入されつつあります。
 しかし、何故「自白」するかと言えば、先進諸外国と違いは、何と23日間も外界と遮断され密室で連日長時間取り調べられ、何を言っても聞く耳を持たず被疑者ではなく真犯人と断定し自白の強要を受けるからです。
 冤罪に関心の無い人どころか、裁判官でさえ「やっていないなら自白などしまい」と思っているのです。誰にも会えず密室で自白強要を受ける心細い心理が如何なるものかを理解する人は少なく、「自白調書」を取られるか否は「有罪、無罪の分かれ目」と言ってもよいのです。
 特に少年審判では「真実の解明」などまったく頭に無く、最初から「やった」という前提で、その処分をどうするかしか考えていないのです。それは私の参加している「神戸事件」を始め、「草加事件」や「山形事件」等の少年審判と、その後の民事の逆転無罪を見ても明白です。
 不本意の自白を防ぐにはどうするか?それは、はやり外国の様に取り調べに弁護士の立ち会いを認めさえることである。米国では証拠隠滅を防ぐために官権に聞かれることを承知なら電話さえかけられるのです。日本では家族どころか捜査当局の勝手な「接見禁止」で、弁護士さえ面会を制限され、これで被疑者や被告の人権が守れる訳はない。
 また、起訴後も官権が自分たちの都合のいい証拠しか開示しないことにも冤罪の原因がある。これは松川事件の「諏訪メモ」を持ち出すまでもなく、未だに官権には都合の悪い証拠を出ささなくて済む問題は否定されるべきである。権力と税金で集めた証拠は被告側にも全て開示されるべきで、冤罪でないなら官権の集めた証拠は全て合理的に説明できる筈であり、矛盾を隠す様なことは人権上許されないのである。
 最後に、国選弁護やこれから実現する被疑者公的弁護制度の「弁護士選任権」を被疑者・被告に与えるべきである。信頼関係のない弁護活動はあり得ず、弁護士の当たり外れでその人の一生が左右されるようなことは許されない。

 

「常識生かせる裁判員制度に」 (04.2.13・朝日新聞「声」)
                                                      
 11日の「私の視点 裁判員制度、辞退する権利を尊重せよ」に反論したい。
 寄稿した田中治氏は裁判員の選任に「やってみようと思う人だけに絞って、召喚するよ」うにすべきだ」と述べている。「強制したところで・・・司法の質の充実・改善に逆行する」とも言う。そうだろうか。
 この制度は市民の司法参加と共に、社会体験が乏しく世間を余り知らない裁判官の裁判に市民常識を反映させるのが狙いだろう。
 だとすれば、時間の都合のつく人や裁判に関心の強い人ばかりではなく、例えばリストラされた失業者たちのものの見方が生かされることも必要だ。裁判や法律に関心や知識の乏しい人も裁判員に加わってこそ、制度が生きる。
 新制度は刑事裁判に市民の側から風穴をあける好機だ。幅広し市民参加得られる道を望みたい。

 

「録音を導入して捜査透明化を」 (04.5.20・東京新聞「発言」)
                           
 法務省が取り調べに録音・録画導入の検討を始めたというが、早急に実施してほしい。冤罪を被った多くの人が「自白」をしており、また裁判のなかで自白の信用性・任意性が問われることが少なくなく、これは密室での自白強要の結果である。
 英国では法的な録音義務や弁護士立ち会いの権利があり、米国では弁護士立ち会いのない自白は証拠とされず、取り調べの可視性は先進国の常識で、沖縄の米兵犯罪で取り調べの立ち会いを求めるのは当然の権利なのである。
 法務省はおとり捜査や盗聴の導入を条件に検討と言うが、条件を付ける必要はなく、録音・録画の導入は人権を守るための当然の権利であり遅すぎた。法務省や警察は「捜査に重大な支障」と言うが、なぜ日本だけ支障が生じるのか。その支障とは人権を無視した取り調べや、自白の強要などができなくなるということで、それ以外何の理由があるのか知りたい。

 
【2005年】


「不起訴不当は当然の結果だ」 (05.2.1・朝日新聞「声」)
                             
 東京第2検察審査会は、自民党旧橋本派「平成研究会」の1億円献金隠し事件で、橋本龍太郎元首相を不起訴とした東京地検の判断について「不起訴不当」の議決をした。同地検は再捜査する方針だという。市民の感覚からいえば当然の結果である。
 検察当局は橋本氏の献金授受の事実を認定しているにもかかわらず、事務を取り仕切る元会計責任者だけが起訴して、派閥会長だった橋本氏を嫌疑不十分で不起訴としたのか。本末転倒の捜査だったと言わざるをえない。
 橋本氏は、「日歯連から受け取った1億円の現金を政治資金報告書に記載しなかったことは客観的に明らかなことだ」などと、まるで他人事のような発言をしている。日歯連側と接触したとされる当時の政策秘書や、有罪が確定してた元会計責任者らに責任を押す着けて済まされる問題ではない。
 十分な取り調べもせず、不起訴とした検察当局の処分は正義に反するのではないか。再捜査後、橋本氏を起訴すべきであると考える。

 

「『冤罪』の防止に取り調べ改善を」 (05.2.25・読売新聞「気流」)
                                                   
 昨年春に起きた宇都宮市内の強盗事件で逮捕起訴されていた男性が、誤認逮捕だったことが判明した。別の事件で逮捕された真犯人とみられる男性が犯行を自供したためだという。
 この記事を読み、私は2000年に愛媛県宇和島市内で発覚した誤認逮捕を思い出した。この事件でも1年以上も拘置された男性が、判決4日前に真犯人が判明したため釈放された。
 いずれも運良く真犯人の「余罪自白」で誤認が判明した。真犯人が捕まらず、また余罪を自白しなければ有罪判決を受けただろう。
 冤罪の多くでは自白している。多くの人は「やっていのに自白はしない」と思い込んでいる。裁判官も密室での自白調書を証拠採用する。しかし、後に自白の任意性が争点になる裁判は少なくない。それは自白偏重の捜査、裁判が行われていることを示していると思う。
 多くの先進諸国で、取り調べの録音・録画や弁護士の立ち会いなどは常識となっている。人権を守り冤罪を防ぐためには、早急に「取調べの可視化」が必要である。

 

「あまりにも軽い刑務官処分」 (05.3.2・産経新聞「談話室」)
                                                   
 東京拘置所や名古屋刑務所などで刑務官が、勤務中にパチンコをしたり飲酒したりしていたことが判明し、処分された。しかし、停職や減給の懲戒処分という、あまりにも甘い処分である。
 私が勤務した企業では、勤務終了後のプライベートタイムであろうとも、会社の敷地内では一切飲酒禁止であり、それは転勤や定年などの歓送迎会でも許されなかった。ましてや勤務中の飲酒なら当然、解雇の対象になったであろう。
 刑務官の行動は「過失」ではなく、犯罪者の逃亡監視という使命を考えても重大な違法行為であり、言語道断だ。停職や減給処分は社会常識に比べあまりにも軽い。名古屋刑務所をめぐっては刑務官による集団暴行事件は記憶に新しい。反省もなく、これが日常茶飯事であるとしたらあきれるばかりだ。

 
2006年】

 

「検察の姑息な手段に怒り心頭」 (06.1.25・「市民じゃ~なる」)
                        
 都立高校の教師が「日の丸・君が代」の掲揚・斉唱をしないと処分されている。
 被処分者とそれを支持する人たちが04年12月に石原都知事や横山・教育長(当時)らを告訴・告発していた。
 しかし、その後、検察は何ら捜査を開始せず1年近く放置、告訴人と弁護士らが「早期捜査開始」を要求・抗議した結果、検事と9人の告訴人との面会が実現した。しかし、その場でも証拠を残さないように「調書」を取らず、弁碓士らが「何のための面会だ」と抗議した。
 その結果は何と昨年末の29日に告発人の一人である私にも、理由も示されない「不起訴処分決定」通知が届いた。この処分に対する付帯判清求(異議申立て)は「7日以内」であり、明らかに年木年始沐暇を意識し御用納めの「28日」に送達したものである。
 私は念のため地裁と地検に電話を入れたが、案の定、既に年末年始休暇に入り、ただ「テープ」が回っているだけで、質問も意見も抗議も出来ない状況であった。何とも姑息でアンフェアーな手段に怒り心頭である!
 その後、通知を受け放った弁護士が電話で検事に「理由」を尋ねると「電話では言えない」と答えたが、弁護士の追求に「罪に当たらない」とだけ応えた。この「価値観の強制」が許されるなら、今後、天皇は有難く偉い人、天皇の写真にまで頭を下げさせ、宮城遙拝させた戦前回帰の道を歩くことになる。
 正月早々の5日、我々は検察へ「付帯判試求」手続き取ったが、何と守衛が「前もって通告してあるか?」と聞くので呆れてしまった。付審判請求手続きにアポが必要なのか!、そんな法律や決めが何処にあるのか!これも嫌がらせである。
 更に、庁舎に入ると係が書類をロビーで受け取ろうとして、弁護士から「こんな場所で受け渡しをするのですか?」と諭され、受付に案内する始末であった。
 「付審判請求」提出後、東京地裁内の司法記古クラブで記者会見を開き、元日弁連会長の土屋公献弁護士はその不当性を訴え、松川事件など数々の冤罪を暴いてきた後藤昌次郎弁護土は、この重大決定の重みをマスコミは埋解すべきだ!、とマスコミの意識の低さに警鐘を鳴らした。
 同じ敗戦国のドイツ、イタリアもその反省から戦後、国旗・国歌を変えたが、この国は何の反省もなく元に戻してしまったのである。「日の君」は侵略・虐殺、天皇制のシンボルなのであり、価値観の強制は教育ではなく「調教」であり許してはならない。

 

「横浜事件免訴 納得できない」 (06.2.14・朝日新聞「声」)
                                                       
 「横浜事件」の再審で、横浜地裁が9日「免訴」とした判決は裁判所の逃げである。検察側の言い分をのんだ、人権を理解しない判決は到底納得出来ない。
 地裁はその理由として、治安維持法の廃止や大赦が適用されていることを挙げているが、それは無罪を意味しない。名誉回復という、本人死亡後も再審請求を続けている意味さえ理解していない。
 更に、敗戦のどさくさで多くの証拠を廃棄処分したとされる。これは司法当局による証拠隠滅であり、真実を追求するための証拠を廃棄する必要がどこにあったのか。しかも、裁判官は「誠に残念」と他人ごとである。
 そもそも再審開始の理由は、唯一の証拠の「自白」が拷問によるものだったと認定しているのだ。まさにでっち上げの思想弾圧事件だ。犯罪を実行せず話し合っただけで罪になる「共謀罪」が今議論されているが、法制化されれば、横浜事件のような事件がまた起こるだろう。
 反戦ビラを投函し逮捕起訴される時代は、既に「治安維持法」の時代に突入していると思う。私はこの不当判決に抗議する。

 

「共謀罪は『横浜事件』の合法化」 (06.4.10・「市民じゃ~なるる」)

 

 横浜地裁は2月9日、『横浜事件』の再審で「免訴」という判決を下した。つまり、裁判打ち切りである。何のための再審開始だったのだろうか。裁判はその理由をすでに治安維持法が廃止され、また大赦が適用され実質無罪と主張している。しかし、無罪と「無実」は違い死亡も遺族が再審請求続けてきた理由が名誉回復であることを裁判官は理解してない。
 この事件は治安維持法による4人の獄死を出したデッアゲ・言論弾圧事件である。「証拠」はもの言わ「一枚の集合写真」と「自白」だけである。しかも、再審決定理由はその自白は「拷問による」と認定しているのである。また、この事件は戦後のどさくさで証拠書類が何者かによりのが、廃棄されており、それを裁判官はなんと「誠に残念」とまるで他人ごとである。これは権力による「証拠隠滅」であり、なぜ廃棄する必要あったのか、当時は裁判資料のみならず、多くの国軍の証拠資料・書類が焼却処分され「証拠隠滅」されたのである。
 小林多喜二が東京・築地署で拷問により獄死したことは有名だが、あの安維持法で如何に多くの人たちが弾圧されたことだろうか。いま凶暴性が上程されているが「共謀」をどうやって証明するのか。これは予防拘束のまさに「治安維持法」の再帰であり許してはならない。共謀罪はこの横浜事件のように、官憲の一方的判断が許されることになり、今でも裁判所は逮捕状の発布や勾留延長の請求など官権の請求されるまま出され、容疑を否認したり、黙秘を行使すれば裁判所を釈放を認めるず、実質的には「黙秘権」は認められていないのである。
 再び治安維持法の時代や警察国家を許してはならず、「反戦ビラ」の投函で逮捕・される社会は既に治安維持法時代に突入しているのである。

 

「釈明の余地がない誤認逮捕、連続無条件取り調べ録画を」   (06.7.18・東京新聞「ミラー」)

 

 「誤認逮捕、釈明の余地ない」(7日付社説)に同感だ。このひき逃げ冤罪事件を知り、6年前の窃盗容疑の「宇和島事件」を思い出した。1年近く拘置中の被疑者が、逮捕された真犯人の余罪自白で誤認逮捕だったことが確認された。なんと「判決4日前」に釈放された事件である。
 この冤罪被害者は拘置中に父親が死亡し、その葬儀にも参列できなかった。真犯人出現で一番ホットしたのは裁判官ではないのか。4日後には間違いなく「有罪判決」を
下したはずある。
 ところが、愛媛県警は記者会見で「捜査に問題なく、処分はない」と明言した。裁判官や検察官・警察官が冤罪などで他人の一生を台無しにしても、「故意ではない」として、過失責任が問われた例はない。つまり、彼らには「冤罪だったら大変な事になる」という緊張感はなく、安易な「だろう起訴、だろう判決」がなされるのである。
 冤罪の多くが、逮捕から起訴までの間に「自白」におきこまれる。公判で否認しても裁判官は密室での自白をほとんど証拠採用してしまう。したがって、早期の弁護士接見が必須で、逮捕段階から被疑者に公費で弁護士がつく「公的弁護制度」が始まる。
ところが欧米先進国や台湾、韓国でも、すでに取調に弁護士立会や録画・録音が導入されている。日本でも人権を守り、冤罪を防ぐためにも早急に導入すべきである。
 最高検は、この録画・録音導入に対し、警察では行わず、検察の取調べのみ導入し、録画部分やその採否は「検察官の判断」と提案した。到底受け入れられるものではない。警察は都合のいい部分のみ録音して証拠提出しているようだが、諸外国では「連続無条件録画・録音」されている。日本でも至急そうすべきだ。

 

「長期の勾留は、冤罪事件の源」 (06.8.1・朝日新聞「声」)
                  
 杉浦法相は現在の保釈制度について、「保釈は(被告の)権利だが、裁判所はなかなか(拘置所の外に)出したがらない」と語り、「人質司法」は「例外と原則が逆転し入質司法とは、ている」と批判した(7月25日朝刊)支持したい。。私は捜査の見直しを示唆したこの発言を逮捕、勾留によって自白を得ようとし、否認すれば長期間、保釈を認めない司法の在り方を批判した言葉だ。
 法相の発言通り、裁判所は表向き「逃亡、証拠隠滅の恐れあり」という理由を挙げるが、実際には、黙秘や否認を続けると釈放を認めないのが現状だ。
 冤罪事件は、逮捕から起訴までの長期勾中の密室で行われる「自白」が証拠採用されている場合が多く、裁判所にも一端の責任がある。冤罪が確定しても、裁判官や検察官、警察官が「業務上過失」で処分されたことは一度も聞いたことが無い。
 入質司法は、憲法で認められた「黙秘権」の否定でもある。既に諸外国では導入されている取り調べでの弁護士立ち会いや、無条件の連続録音・録画を早急に導入すべきである。

 

「殺人罪の『時効』廃止を検討して」 (06.10.3・読売新聞「気流」)

 

 1978年に小学校の女性教諭を殺害して自宅の床下に埋め、殺人罪の時効成立後の2004年に犯行を自白した男らに、遺族が損害賠償を求めた訴訟の判決に、9月26日、東京地裁は男が26年間、遺体を隠し続けた行為について、不法行為ととらえ男に330万円の賠償を命じた。しかし、殺害行為については、民法上の「時効」が経過しているとして、賠償責任を認めなかった。
 殺人罪の公訴時効(当時15年)を過ぎてから、男は自首し、不起訴になった。遺族はお金が欲しくて男を訴えたのではなく、時効の壁で刑事責任を問えないから、「民事で罪を償わせよう」として提訴してのだ。
 判決後、遺族は、殺人の賠償が認められなかったことについて、「逃げ通せば放免されるのは不公平だ」と悔しさをにじませた。遺族のやりきれなさは理解できる。
 2005年1月施行の改正刑事訴訟法で、殺人など死刑にあたる罪の時効は25年と刑期が延びている。殺人に「時効」の逃げ得があってはならない。殺人の時効は廃止してもいいのではないだろうか。

 

「裁判員制度は全員一致望む」 (06.10.15・東京新聞「発言」)

 

 1日付特報面「議論なき国民総動員」の『裁判員制度はいらない』を出版した高山弁護士の記事に同感である。
 裁判員制度の一番問題と思われるのは、アメリカの陪審のように「全員一致」ではなく「多数決」であることだ。つまり「だろう、推定有罪」ということになる。現在も同様であるが、一応「合議」ということになっている。
 裁判員は裁判官と同等の権利と言うが、果たして裁判員がプロの裁判官に異論や異議が言えるだろうか。現状の合議でさえ陪席判事が裁判長に異議を唱えることは勇気がいるはずだ。裁判員が裁判官の誘導や言いなりになる可能性は十分に考えられる。
 証拠などから有罪、無罪を判断することは、専門家でなくてもできる。そこに市民の常識を生かすことこそが大事である。有罪、無罪の判断は米陪審のように市民だけで、その結果は「全員一致」とすべきである。

 

「甘い検察の身内処分に怒り!」 (06.10.27・「週刊金曜日」)

 

  栃木県宇都宮地検足利支部の副検事が、今年6月に飲酒運転の女性の車で、官舎近くまで送ってもらっていたことが判明した。女性は現行犯逮捕されたものの、同乗していた副検事は送検されなかった。
足利署に電話で聞くと、女性逮捕時点で副検事はすでに降りており、同乗の証明ができないと答えたが、わざわざ「さっきまで副検事が乗っていました」と女性が申告したのだろうか。
 その後、副検事の「減給1カ月」の行政処分と知り、再度、足利警察署に電話し送検しなかった理由を聞くと、責任者の係長と名のった男性は「分かりません、検察に聞いて下さい」との答弁であったが、自分の判断したことが分からないというのである。しかも、この副検事は飲酒運転処分などの担当であった。
 そこで今度は宇都宮地検に電話し、「なぜ立件しないのか。刑事処分なしの減給1カ月の行政処分で済ませていいのか」と聞いたところ、返事につまり「上の判断です」と答えたので、それなら検事正を出せと言ったが「それはできない」とのことであった。
 仕方なく監督機関の最高検に電話したら、報告は受けており批判も届いているが、今後のために生かしたい程度の返事しかなく、刑事処分の検討はしていない。
 いま、飲酒運転が大きな社会問題になり、自治体や民間でも処分を厳しくし、同乗者や飲酒を止めなかった人への処分も常識になり解雇さえあるなかで、この身内をかばう副検事の処分は余りにも軽い。
検察は「社会正義」を追求する機関ではないのか。検察の信頼をつなぎ止めるためにも、こんな不正義は認められず改めて副検事の厳重な刑事処分を求める。

 
【2007年】

 

「世論が導いた『無罪判決』」 (07.2.16「週刊金曜日」)


 鹿児島県議選の買収容疑で、2月23日鹿児島地裁が被告12人全員に無罪判決を言い渡した。裁判官はその理由を「客観的証拠は全くなく、買収資金の原資の解明もされていない」と全面否定した。しかし、それならなぜ1年以上も勾留を許し、判決に4年近くも費やす必要があったのか。
 志布志市の僅か7所帯20人の懐集落の11人に、191万円もの大金で買収すること自体不自然であり、裁判官はこの不自然をどうして理解できなかったのか。また、昨年7月27日地裁は自白調書を「証拠採用」しているが、これも判決と「矛盾」しており、裁判官は官権性善説に立ち明らかに「有罪心証」を持っていたのである。
 この無罪判決は被告やその支援者、そしてテレビ報道など世論の力が導いたと言える。この捜査では一人平均550時間もの取調を受け6人が自白しているのである。
 今年1月、富山県氷見市の男性が服役・出所後、真犯人の余罪自白で無実が判明した事件や、まったく同様の「宇和島事件」など、今も冤罪は後を絶たない。裁判所が否認や黙秘を通すと保釈を認めないのは人権侵害であり、憲法で認められた「黙秘権」の否定であり、その勾留が自白強要の場になっている。
 冤罪のほとんどが「自白」をしており、裁判官は何を「根拠」に密室での自白を信用するのか。欧米先進国どころか、既に台湾、韓国でも取調べの弁護士立ち会いや録画・録音が導入され、先進国で導入されていないのは日本だけである。
 この批判に最高検は録画・録音の試行を実施しているが、警察では行わずすべて検察の判断などという「まやかし」の導入が許されていいわけはなく、人権を守るため弁護士の立ち会いや連続録画・録音の義務化など早急に「取り調べの可視化」導入が必要である。


「裁判官の不当発言に抗議!」 (07.5.11・「週刊金曜日」)

 

 すでに本誌でも報道・解説されたデッアゲ・弾圧・国策捜査の「JR浦和電車区事件」の最終弁論初日(1月19日)を傍聴した。
 当日は仲間や支援者の傍聴希望者の列が、裁判所前から弁護士会館まで溢れ、さらに日比谷公園と続き、その数、何と3617にも達し、傍聴券締め切りのため裁判所は所内に全員を入れるのに1時間余りを要した。しかし、麻原裁判の列は報じても、この冤罪を追求する3600人余り列をマスコミはどこも報道しなかった。
 数分遅れた開廷の直前、裁判長が異例の発言をした。「傍聴があまり長いと、このように開廷が遅れ、結果として皆さんの発言時間が短くなるので配慮してほしい」(要旨)と発言、直たちに、後藤昌次郎弁護士が「裁判長!」と手を挙げ、「それは国民の権利を権力はものですと」抗議、傍聴席から「異議なし!」の声があり、裁判長は「これをお願いです」と答えた。
 傍聴は予約制ではなく、もし、裁判所が「支障がある」と判断するなら、受け時間を漆早めたり、対応人数を増やすなど、その対応は裁判所の「義務と責任」であり傍聴を制限してほしいとの発言は、本末転倒・言語道断!であり、刑事11部の小池勝雅裁判長に断固!抗議する!
 この事件はJR東労組の運転手を労組役員らが、労組脱退・会社退職を強いたという「供与容疑」である。しかし、この被害届の2カ月も前に官憲が捜査に着手、さらに、埼玉県警ではなく警視庁公安2課、そして傷害も与えていない事件で「344日」も勾留流された。酔って相手の多少怪我を(傷害)を与えても、1年も勾留され裁判に5年も費やすことはない。。
 当日、傍聴に漏れた中間や支援者たちは、午後1時過ぎ芝公園を出発、日比谷野音まで無実を訴えて歩き、夕方からは同所で集会を開いた。署名は69万筆にも及び「支援する会」も現在10万人を超えている。マスコミは元より多くの人にこの事件に関心を持って欲しいと思う。

 

「有罪判決には『全員一致』を」 (07.5.16・東京新聞「発言」)

 

 「袴田事件」で無罪を主張した熊本典道・元判事は自分の発言を「半分は袴田さんのため。半分は自分のため」と述べているのは正直だと思う。しかし、合議に参加したほかの2人の元判事の存命中、反論が可能なときに発言すべきだった。
 しかし、こうした事態になった原因は、はっきりしている。つまり、判決が全員一致ではなく合議の名の下の「多数決」であることである。
 米陪蜜は全員一致が条件である 。無罪後も、検察の控訴権はなく無罪が確定する。日本のように、同じ証拠で無罪から有罪に逆転することはない。「疑わしきはは罰せず」である。
  記事の中にべチラン判事の「合議を尽くすのが裁判で、多数決は、私の経験では皆無だ」との発言もあった。しかし、必ずしも「納得の合意」ばかりではないと思う。
 新しく取り入れられる裁判員制度も多数決である。しかし、多数決で有罪や死刑が決まっていいわけはない。全員一致でも人問のやることに、「絶対」はないのである。有罪判決は「全員一致」を義務付けるべきである。
 また、合議の裁判官の少数意見表明が最高裁にのみ認められ、下級審で認められない理由は何なのか。これは権威主義による差別であって違憲ではないか。法律に決まりがあろうとも、憲法に反した法律は無効であることは言うまでもない。

 

「『裁判員制度』導入凍結を」 (「自然と人間」07年11月号)

 

○「死刑囚の無実」は124人
 デッチアゲの強姦「富山事件」の無実が確定した。しかし、裁判官は判決でその責任にも原因にも触れず謝罪さえなく、何と「お気の毒」と他人事であった。現に判決後、冤罪被害者の柳原さんも裁判所の無罪判決に「嬉しくない」と怒っていた。冤罪は「官憲性善説」に立ち検察に騙された裁判官の責任である。
 しかし、検・警察や裁判官がその責任を問われたことはない。故に、安易な逮捕・起訴、そして多数決・推定有罪の「だろう判決」が下され、彼らには冤罪だったら大変なことになり「自分の首が飛ぶ」などという緊張感などまるでない。
 DAN鑑定技術の進歩で、いま米国では25の州で合計124人もの「死刑囚の無実」が確認され、死刑制度が大きく揺れている。すでに31の州議会で死刑の廃止や執行停止を求める法案が提出され、8つの州で死刑の執行を当面停止することを決定しているという(NHK「クローズアップ現代」8月29日)が日本も他人事ではない。
○「だろう判決」で死刑も
 米国の陪審裁判は12人「全員一致」の評決だが、2年後に日本で始まろうとしている裁判員制度は「多数決」(現在の「合議」も)、つまり推定有罪の「だろう判決」が許されている。全員一致でも間違えるのに、「多数決」で有罪や死刑が決まっていい訳はない。
 冤罪の原因はほとんど「自白と目撃証言」であり、この事件も同様で人間の記憶と目撃証言の曖昧さを裏付けている。自白の信用性が争点になり、密室の代用監獄での自白を「信用できる」と証拠採用され、如何に多くの冤罪を生んでいることだろうか。
 代用監獄の密室での自白が証拠採用される先進国は日本だけであり、取調べの弁護士立会や連続録画・録音の義務化は欧米先進国のみならず、すでに台湾や韓国でも導入され先進国で実現していないのは日本だけである。
 この批判に検察は録画・録音の「試行」を始めたが、肝心の警察では実施せず検察のみ、しかも、その採否や録画部分は全て「検察官一任」とは、官権の道具に利用されるだけで「百害あって一利なし」で、自白部分のみの取調「DVD」が証拠採用され法廷で上映される始末であり、自白に至る「連続」(録画・録音が必須である。また、税金で集めた検察の持つ証拠は全て公開すべきで、冤罪でないなら全ての証拠が合理的に説明できるはずであり、松川事件のアリバイを示す「諏訪メモ」を官憲が最後まで隠していたことは有名である。
○多くの識者も反対
 「袴田事件」の一審陪席判事だった熊本典道・元判事が「当時、私は無実を主張した」と告白している。彼は不本意な「有罪判決文」を書かされ翌年裁判官を辞め、自責の念から酒に溺れ離婚、家族とは音信不通になり警察に「人を殺した」と出頭し、自殺未遂まで起こした。これも合議の名の「多数決」の被害であり、彼はいま放棄した弁護士資格を取り戻し、再審弁護団に加わる手続きを進めている。
 その熊本判事でさえ主張が通らず、裁判官に反論できる裁判員が何人いるか。間違いなく裁判官に引きずられる(米陪審は「市民」だけ)。それは形だけのまやかしの「市民参加」であり、判決・評決の「全員一致」と「取調べの可視化」実現まで裁判員制度導入は凍結すべきである。
 復帰前の沖縄で陪審体験をしている作家の伊佐千尋さん、土屋公献・元日弁連会長、小川修・埼玉弁護士会長など多くの有識者も反対している。
先のNHK番組で、暴行を受けた女性の「目撃証言」で終身刑になった受刑者が11年後、DNA鑑定で無実である事を知った彼女が、「私の責任」と真摯に謝罪している姿が印象的だった。 ( 

 

「取り調べ可視化早く実現して」 (07.12.20・東京新聞「発言」)

 

 秋田の連続殺人事件を冤罪と主張するつもりはないが、弁護側の異議申し立てにもかかわらず、裁判所が捜査段階の供述調書などについて、自白の任意性を認め証拠採用したことに抗議する。公判の証言より立ち会いもない密室での自白に何を根拠に「任意性」を認めるのか。
 冤罪のほとんどが自白しており、先に冤罪であることが確定した鹿児島志布志市の選挙違反事件や、富山県氷見市の強姦事件でも自白しているのである。また富山の強姦事件では、曖昧な目撃証言が冤罪のキッカケとなった。自白や曖昧な目撃する証拠はあくまで「補完証拠」であり、他の証拠で有罪を証明すべきで、そのために官権には強力な「捜査権」が与えられているのである。
 「官権性善説」を疑わない裁判官は余りにも無知であり断固抗議する。既にで欧米どころか台湾、韓国でも導入が始まっている弁護士の立ち会いや連続録画・録音の「取調の可視化」の早急な実現を求める。

 
【2008年】

 

「『裁判員制度』の凍結を」 (『世界』・08.4月号)

 

 先進国では参審や陪審制度で市民が裁判に参加しており、裁判への市民参加には反対しないが、現状のままでの「裁判員制度」導入は人権・冤罪の面から問題があり凍結すべきである。
 長い間、国連からも指摘されいる「代用監獄」もそのまま放置し、更に先進国では常識である「取調の可視化」も実現しないまま導入するなら、その実現が放置される結果となる。
 欧米先進国では弁護士の立会や連続録画・録音が導入され、台湾や韓国でも導入が始まっている。英国では弁護士到着まで取調が出来ず、米国では立会のない自白は自動的に証拠として採用できず、密室での自白が証拠採用される先進国は日本だけであろう。
 いまDNA鑑定の進歩で米国では124人もの「無実の死刑囚」か確認され死刑制度が大きく揺れ、緊急に死刑執行停止などの措置が執られている(07.8.29NHK「クローズアップ現代」)という。米の陪審は「全員一致」であり、それでもこんな重大な間違いを犯している。裁判員制度の評決は「多数決」(現在の「合議」も)、つまり推定「だろう」であり、有罪や死刑が「多数決」で決まっていい訳はない。
 その評決についても多数意見に1人以上裁判官が入ることが条件であり、これは裁判官と裁判員が同等ではないことを示している。また、現状では裁判官の「自己保身」のため意見が割れることは希であり、その裁判官に反論できる裁判員がどれだけいるであろうか。裁判員が裁判官に誘導されることは容易に想像でき、因みに「陪審」は市民だけで有罪、無罪を全員一致で判断するのである。
 また、現在行われている可視化の「試行」は警察では行わず検察だけ、しかも、その採否や録画部分は検察官の判断などは官憲の道具に利用されるだけで「百害あって一利無し」であり、これを全面的拡大することは間違いである。自白へ至る経過が重要であることは、志布志市の買収や氷見市の強姦冤罪でも明らかである。
 その批判に警察庁が「捜査指針」を発表したが、身体に触れない、便宜供与を約束しない・・・・、当たり前であり今更ナンセンスである。また、マジックミラーを設置してそこから誰が見るのか、それなら弁護士に立ち会わせれば済む話しである。今までも留置業務と取調部署は分離されて来た筈であり、それが機能せず更に新たに「監督部署」を新設することは屋上屋を架するだけで意味がない。
 陪審では、「疑わしき被告人の利益に」が守られ、無罪評決後の検察の上訴権が否定され、日本の様に同じ証拠で無罪から有罪に逆転することはあり得ないのである。
 裁判員制度導入の前に「可視化」こそ優先すべきである。

 

「 逃 げ た 最 高 裁 」 (08.4.4・「週刊金曜日」)

 

 3月14日、最高裁は戦時下のデッチアゲ言論弾圧「横浜事件」の再審で、1,2審の「免訴」判決を追認したが、これは最高裁の逃げである。
 拷問により虚偽の自白をさせわずか1日の裁判で有罪判決を下し、それが間違いであったことが判明しても、すでに「法の廃止と大赦」を理由に、刑罰を科せられることはなく実質無罪との「免訴」、つまり、裁判の打ち切りである。
 冤罪が確定し再審無罪になっても、勾留や服役を取り戻すことも、人生をやり直すことも出来ず、ましてや原告だった当人たちはすでに逝き、遺族の目的は唯一名誉回復の「無実」を求めるものであることを最高裁は理解していない。
 最高裁が自らの非を認めず、反省することもなく「免訴」とした恥知らずに強く憤りを感じ抗議する。
 警察の電話盗聴が合法化され、住基ネットで個人情報が集約され、国民保護法で罰則まで科して物資保管命令や交通規制、土地家屋の無断使用、国の金銭債務の支払い延期(先の戦争で「金銭」どころか死んでも何の補償もなし)等々、すでに戦時体制、治安維持法時代に突入している。
 この平和な時に避難訓練をさせているアホらしさに呆れる。これは原爆の落ちる時代にバケツリレーや竹槍訓練させていたのと同じ発想だ。
 権力や軍隊が国民を守らず、権力だけを守ることは先の戦争で証明されている。日本は議院内閣制であり、最高裁判事は国会承認も必要とせず内閣が自由に選らび、政府が3権を握っているに等しい。本来、最高裁は法の番人であり、違憲立法審査権と行政の行き過ぎを監視するのが使命であり、「憲法」は権力の行き過ぎを規制するためのものであることを最高裁は自覚せよ!

 

「『部分録画』冤罪の恐れ」 (08.4.27・東京新聞「発言」)

 

 警察や検察のとりし取調の中「可視化範囲制限は危険 冤罪助長の恐れ」という、6日付社会面の記事に全く同感である。官憲主導の部分録画は公正ではなく、〝有罪証明〟のためであることを自覚すべきである。元検事の土本武司白鳳大法科大学院長の「取調のすべてを録画すると膨大な量になる上、容疑者が真実を話しにくくなる」という抗弁はナンセンスである。
 いまや、録画・録音は、テープに頼らずにできる電子技術が発達しているし、被疑者・被告には黙秘権が認められている。土本氏の発言は黙秘権を否定し、自白偏重の捜査を強調しており人権を理解していない。 
 鹿児島県の志布志事件や富山の好感冤罪事件を見ても、自白に至る「経過」が大事であり、欧米などでは連続録画・録音進んでいる。官権判断の「部分録画」は百害あって一利なしで、断交抗議する。

 

「裁判員制度凍結と鳩山法相の罷免を!」 (08.5.15・「市民じゃ~なる」)

 

 大臣の署名無しに「死刑を自動的に執行したら」と発言し批判された鳩山法相が、今度は「志布志事件は冤罪とは呼べない」と妄言を吐き早々に謝罪した。しかし、その謝罪の中で彼は「今後、冤罪という言葉は使わない、冤罪についての質問にも答えない」と答えた。
 これに対し記者から「注意するのか?」と聞かれた町村官房長官は「子どもではないのだから、いちいち注意しない」と答弁したが、この法相の答弁はまさに駄々子どころか「冤罪」の最高責任者の自覚がまったくない。
 法相は冤罪とは真犯人が確認された場合であり「逮捕・起訴や無罪判決は冤罪ではない」との考えであろう。しかし、それは捜査権を持つ官権さえ真犯人を捕らえられずに、身柄拘束されている被疑者・被告や捜査権を持たない弁護士に「真犯人を捕らえろ」と言うに等しい。有罪判決処か被疑者・被告は判決確定まで「無罪推定」なのである。しかし、マスコミは逮捕段階で実名や顔写真報道しこれは「推定有罪」の報道であり、彼らも冤罪の片棒を担いでいるはその自覚がまったくない。
 冤罪が確定しても裁判官も検察官も責任が問われない処かその「検証義務」さえなく、冤罪の教訓がまったく生かされず冤罪が後を絶たないのである。
 また、法相は「死刑執行命令書」に署名をしたくないのであろうが、如何なる理由があろうとも、国家権力の手によって人の命を抹殺するのに、その最高責任者が知らないところで処刑されるなど言語道断であり、死刑を肯定するならその責任者として死刑の執行に立ち会うべきである。
 彼が署名するのが嫌なら、関係のない刑務官が死刑を執行することはその何百、何千倍も嫌であろう。執行後に清めが出て職場開放されるというが家に帰る訳にもいかず、死刑の執行は誰にも言えず自分の胸にだけそっと閉まっておく苦しみが鳩山法相には解るまい。福田首相にはこの様な無恥・無責任な人間を任命した責任があり、放言・妄言を続ける鳩山法相を罷免すべきである。
 また、取調べの弁護士立会もなく、連続録画・録音などの「可視化」もされない密室の中での自白が証拠採用され、多数決の「だろう判決」で有罪や死刑が決まる「裁判員制度」は直ちに凍結し、「代用監獄」の廃止と「可視化」を最優先に進めるべきである。
 いまDNA鑑定の進歩で、米国では124人もの死刑囚の無実が判明(07.8.29「クローズアップ現代」NHK)し、死刑制度が大きく揺れ、執行の緊急停止などが行われている。「全員一致」の陪審でもこんな重大な間違いを犯していることを自覚すべきである。

 

「対 等 で な い 裁 判 員 制 度」 (08.7.13・東京新聞「発言」)

 

 3日付社会面の「始動 裁判員制度」シリーズ第2部②「迅速化 国民は〝飾りに〟に?」と同じ意見である。
 先進国では陪審や参審制度で市民が参加しており、裁判への市民参加には反対しない。
 しかし、裁判員は初公判前に証拠や争点を絞り込む公判前手続きから外され、多数意見に裁判官が1人以上入らなければならないなど、裁判員は裁判官と対等ではない。
現状でも合議の裁判官が割れることは少なく、結果として裁判員制度は裁判官に引きずられる、形だけの市民参加になる可能性がある。
 ちなみに、米国では有罪か無罪だけを陪審員だけの全員一致で判断する。欧州の多くの国では多数決だが、死刑は廃止か停止されており、多数決で処刑されるのは日本だけである。

 

「ロス疑惑、三浦氏殺したのは日本政府」 (08.11.7「週刊金曜日」)

 

 三浦和義・元社長がロスの留置所で自殺を図り死亡したという。
 日本の司法を無視され主権侵害されコケにされたにもかかわらず、日本政府は何の「邦人保護救出」手段も執らず、その義務を果たさなかった日本政府に殺されたに等しい。
 また、マスコミは「自殺」と米捜査当局の言うままに報じているが、「証拠」があるのか。、マスコミはなぜ疑いの目で視ないのか。マスコミは「官憲性善説」に立ってはならない。
 三浦氏の妻も「信じられない」と言っているが、三浦氏の言動から私を含め「信じられない」人は少なくない。殺された可能性はないのか、密室の中でビデオ映像でもない限り私は彼の「自殺」を信じない。
『東京新聞』が10月16日付の特報欄で「『三浦事件』日本の対応正しかった?」と載せたが、私は間違っていたと確信する。犯罪者だからと差別し「邦人救出手段」を執らなかった日本政府に強く抗議する!

 
 【2009年】

 

「同乗の生徒たちは何を学んだか」 (『自然と人間』09.1月号)

 

 「冤罪」に関心のある読者です。
 12月号に「スクールバスの運転手が刑務所に」を拝読しました。10月23日の片岡様の収監の様子は「TV朝日」の「報道発ドキユメンタリ宣言・なぜ私が収監されるのか」ででも拝見しました。
 ご本人はもとより、ご家族や支援の皆様は、どんなにか悔しく、情けなく、理不尽さを感じたことでしようか。100歩譲つて5~10キロでバスが動いていたとしても、なにゆえに「1メートル」ものスリップ痕がつくのでしようか。しかも「タイヤ溝跡」も無く、その跡はいきなり濃くなっています。ブレーキは徐々に効いてくるのであり、スリップ痕はだんだん濃くなり、止まったところがいちばん濃くなるのです。
 裁判官は物的証拠(しかも官権が作りあげた)を無視し、身内の白バイ警官だけの言い分を聞き人れて何罪とは、まさに「グル」です。こんな理不尽が許れていいわけはありません。
 バスに同乗していた生徒たちは学校では学ベない大人社会の「不正義・理不尽」さを
学んだことでしよう。今後もこの体験を生かして正義を追求して欲しいと思います。

 

「『裁判員制度を』ボイコットしよう」 (09.2.6「週刊金曜日」)

 

 本誌1月23日・735号の「裁判員制度に反対する」を読んだ。
 冤罪は志布志事件や富山氷見事件など今も日常茶飯事であり、殆どが自白し氷見事件の被害者は服役出所後、真犯人が判明するまで認めていたのである。
 「代用監獄」もそのまま、官権は4月から「部分録画」の全面採用に踏み切るというが、この2事件の場合、何処を録画することになるのか。言うまでもなく部分録画は官憲の有利な証拠作りのため利用されることは明白である。自白部への経過が大事であり部分録画など「百害あって一利無し」である。欧米のように弁護士立ち会いや「連続・録音」を義務付けるべきである。
 連続録画を官憲は被疑者との「信頼関係を保てず取り調べに支障」というが、それは自白便りであることの裏付けており、憲法は「黙秘権」を認めている。
 この「密室の自白」が証拠採用される状況下で、裁判員制度を導入することは非常に危険である。そもそも多数決の「推定有罪」で処刑される先進国は無く、米陪審の「全員一致」でもDNA鑑定の進歩で現在100人を超える無実の死刑囚が確認されていることを知っているか。
 死刑制度に反対(宗教上も含む)でもその判断を強要され、無実を主張しても有罪評決になれば量刑を判断させられ、評議内容の秘密を生涯守らなくてはならない(米陪審は評決後は自由)。これは思想信条、良心の自由に反し苦役の強制にも当たる。そもそも、最高裁判事は少数意見を述べられるのに、下級審判事や裁判員に生涯守秘義務を課することは、法の下の平等に反し権威主義である。
 最高裁判所は思想上の死刑反対論者が「不公正な裁判をする恐れ」に当たり排除されるか否かを明言せず(最高裁に問いあわせた)逃げている。排除されるなら死刑賛成論者だけで裁判が進むことになり、また、事前に賛否を問うことは思想調査にも当たる。既に、新潟と栃木弁護士が凍結決議をしているのはご承知の通りである。

 

「痴漢冤罪は氷山の一角」 (09.4.17・東京新聞「発言」)

 

 電車内の痴漢容疑事件で14日、最高裁が1、2審の有罪判決を破棄し、異例の無罪を自判した。その理由は唯一の被害者の証言について「不自然な点があり、合理的な疑いが残る」と3対2の多数意見による無罪である。
 この冤罪被害者は防衛医大の教授であり、地位や名誉に弱い日本人の体質を考えると、私みたいな名もなく市民だったらこのように本気で審理してくれただろうか、と心配が残る。
 もちろん、痴漢は間違いなく存在し、卑劣な行為である。今まで何の証拠もなく女性の一方的な申告で起訴されてきたが、被害者も勇気を出して手を掴むとか爪を立てるなど、何らかの証拠を掴む努力をして欲しいと思う。
 一般的に示談で済むことを考えれば、この裏に多くの冤罪が存在することを想像できる。

 

「『裁判員制度』、その前提が出来ておらず導入は危険」 (09.4.25「市民じゃ~なる」)

 

 「判員制度」が5月から導入されようとしているなかで、埼玉弁護士会会長に小出重義弁護士が当選されたことを心強く思う。既に「新潟、栃木、千葉弁護士会」が凍結決議した事はご処置の通りで、人権、冤罪の上から非常に危険である。
 先進国では米国の陪審や欧州の参審など、何らかの形で市民が裁判に参加しており、私も裁判への「市民参加」には賛成である。しかし、今この日本ではその受け入れの前提が出来ていない。
 欧米先進国では取調の弁護士立会や連続録画・録音など「完全可視化」がなされ、米国では立会の無い自白は自動的に証拠に出来ない。また、再鑑定のために官権には血液など証拠物の保管義務を「処罰規定」まで設けて義務付けており、日本の様に官権が鑑定のために「使い切った」などということはあり得ない。
 また、密室の自白が証拠採用される先進国も他になく、多数決の「推定、だろう」で処刑される国も日本だけである。EU加盟は死刑廃止が条件であり、米の陪審は「全員一致」であるにも関わらず、DNA鑑定の進歩で124人もの無実の死刑囚が確認されている。
 更に、国連からも批判されている代用監獄も廃止されず、この様な状況下でこのまま「裁判員制度」が導入されていい訳はなく、裁判員制度そのものにも多くの欠陥がある。
 まず、死刑制度に反対(宗教的も含み)の人が裁判員を拒否出来るのか否かの判断基準が無く最高裁は逃げている。拒否できるなら死刑制度に賛成の人だけで裁くことになり、また、事前にその質問が許されるなら思想調査にもなる。
 評議で無罪を主張しても「有罪評決」になれば量刑を判断させら、死刑の判断を強制することは良心の自由と共に、憲法18条「犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服されない」にも反する。故に米陪審は全員一致で「有罪無罪」だけでの判断で、量刑の判断(裁判官が行う)をさせていない。
 また、評議の内容に「一生守秘義務」を負わせることは良心に反し苦痛と感じる人もおり、米陪審は評決後の拘束はない。最高裁では少数(反対)意見を公表することが許される一方で、下級審や裁判員に守秘義務を負わせるのは法の下の平等に反し権威主義である。
 裁判員制度は6人の裁判員と3人の裁判官で構成するが、被告に不利益な評決をする場合には双方1人以上入ることが条件である。裁判官が裁判員を説得するのは容易だが、裁判員が裁判官を説得することは困難で、この様な制度は到底両者が「平等」とは言えない。結果として裁判官に引きずられ裁判員はお客様となり「市民参加」は形だけの結果になり、冤罪が発覚しても「市民も参加していた」と逃げ道を開くことになる。故に陪審では裁判官は入れず陪審員だけの全員一致で有罪無罪だけを判断する。
 日本の捜査は自白偏重であり、23日も身柄拘束して自白を強いるが、欧米での身柄拘束は数時間から数日であり、官権に内容を聞かれるが電話さえ掛けられる。身柄拘束は法律上「証拠隠滅と逃亡の恐れ」のある場合に限り認められるが、寺西和史氏(現職裁判官)の発言通り日本では逮捕状も勾留延長もほぼ請求されるままに発布され、身柄拘束が取調のために利用され、それが自白強要の場になっている。
 冤罪の殆どが自白しており、あの富山・氷見の強姦冤罪被害者は、裁判所も裁判官も弁護士も信じられず控訴もせず服役し、釈放後に偶然、真犯人が判明するまで認めていたのである。官権は「部分録画」を導入したが、この事件なら何処を録画するのであろうか、部分録画は官権の武器になるだけである。
 百歩譲っても有罪は「全員一致」を義務付けると同時に、取調の完全可視化と、代用監獄の廃止などが裁判員制度導入の前提であり、このまま導入すれば必ず人権が侵され冤罪が増え更に厳罰化が進むだけであろう。
 また、裁判は事実と法律と理論によって裁く「人間の知恵」だが、最近、加害者が刑事裁判に参加発言することが許され、被害者は法や理論ではなく「感情」を訴え裁判が復讐・制裁の場になりつつある。
 素人の裁判員はこの「感情」の訴えに引きずられる可能が大きく、弁護士も理論や法律ではない感情への反論は不可能と言っている。言い換えれば法で禁止されている 「復讐・仇討ち」の場になる。現に、過失である交通事故でさえ被害者は厳罰を求めるが、また、事実を認め論争のない殺人にも検察はわざわざバラバラの遺体映像を見せるなど、明らかに感情移入であり裁判にこの様な手法は禁止すべきである。
 裁判は法と理論で第三者が裁くという「人間の知恵」であるが、被害者の裁判参加でこの知恵を否定し、感情で裁く「復讐・仇討ち」の場になることも非常に危険である。

 

「守秘義務の見直し賛成」 (09.5.22・東京新聞「発言」)
                                                  
 新聞労連の新聞研究部が、裁判員制度と報道の在り方の見解の中で、裁判員が参加する評議の守秘義務の見直しを提言したことを支持する。
 米国の陪審では評決後は、それぞれの良識と判断に任せ自由である。これに対し裁判員制度では守秘義務が課せられ、評議での裁判官による強引な誘導や不正などを告発することがきず、市民の知る権利も侵される。
 そもそも最高裁では少数意見の表明ができるのに、下級審や裁判員が審議・評議の内容を公表できないのは法の下の平等に反する。
 「袴田事件」の一審で無罪を主張しながら、多数決での死刑判決文を書かされた熊本典道・元裁判官の苦悩をどれだけの人が理解しているだろうか。裁判員も同じことを覚悟しなくてはならないのか。裁判員の精神的負担も大きすぎる。

 

「許されない!推定有罪の死刑」 (月刊「創」09年6月号)

 

 和歌山カレー事件が動機も解明されず直接証拠もなく、状況証拠だけで最高裁判は「推定有罪」で死刑判決を下したがこれでいいのか。死刑は取り返しがつかず、有罪が証明できず少しでも疑義があれば100歩譲っても無期刑に止めるべきである。
 ヒ素が大量に自宅にあり、そのヒ素で殺人を起こせば持ち主が疑われるのは誰にでも解り、そんな行動を取るだろうか。この判決は「名張ぶどう酒事件」同様、被告有罪の証明をせず「被告しかあり得ないと」いう推定の無責任判決である。
 それなら、もし河野義行さんの自宅「サリン」が在ったら、間違いなく河野さんは有罪になったであろう。
 また目撃証言もあると言うが、出所後も認めていたあの富山氷見の強姦冤罪も目撃証言がキッカケであり、同様に出所後に真犯人が判明した「宇和島事件」や「下田缶ビール事件」など、何れもキッカケは「目撃証言」である事を最高裁は自覚すべきである。

 

「 な く な ら な い 冤 罪 」 (『自然と人間』2009.6月号)
                                                    
 毎号、的を射た記事をありかとうございます。
 4月号のデッチアゲ「袴田事件」や「高知白バイ事件」の記事を心を痛めなから読ました。労働音の奴隷化や取り返しのつかない原発の危機なども大切な記事でした。
 また、毎号「良書」の紹介もありがとうございます。冤罪に関心ある私はさっそく『司法殺人』を購読しましたが、とても良い内容でした。
 『波崎事件』を通して冤罪の構図や他の冤罪事件との比較、共通点など本当に具体的にに指摘していると思います。
 巻末に「冤罪事件-寛」もありましたが、この陰にどれほどの冤罪があることでしょうか。4月14日、最高裁が防衛医大教授の痴漢容疑事件に1、2審の有罪を破棄し異例の自判「無罪」を言い渡しましたが、私みたいな名もない一市民だつたら、果たして最高裁は本気で審理してくれたであろうか。私は信じない。
 代用監獄も改善されず、密室の自白が証拠採用され、多数決で処刑される中での「裁判員制度」の導入に非常な危険を感じております。

 

「『冤罪』裁判官も処分されるべき」 (09.6.26「週刊金曜日」)

 

 最高検察庁が足利事件の冤罪被害者・菅家利和さんに謝罪したというが、当然と思う一方でなぜ最高裁は謝罪しないのか?
 検察は決して正義の味方だけではなく、証拠隠滅(松川事件など)やデッチアゲ(菅生事件、志布志事件など)など悪事も働くのである。
 言うまでもなく「疑わしき派被告人の利益に」が刑事裁判の鉄則であるが、多くの裁判官は「官権性善説」に立ち権力を疑う事を知らない。何の根拠もない「密室の自白」の証拠採用はその典型でありそんな先進国は他にない。
 裁判とは真犯人を見つけることではなく、起訴された中に無辜の罪人がいないか発見するのが本来の裁判所の使命である。99人の真犯人を逃しても1人の無辜の犯人を作ってはならない事が裁判所の責務である。
 しかし、冤罪が確認されても裁判所(官)は謝罪処か、金で解決できない他人の一生を台無しにしても、処分や責任を問われる事はなく彼らに「もし、冤罪だったら大変な事になる!」などという緊張感はまるでない。
 それ処か多数決の推定「だろう」で有罪や死刑判断が為され、それでいい訳はない。因みにEUは死刑廃止か停止であり、米の陪審は「全員一致」が条件であるにも関わらず、やはりDNA鑑定の進歩で70年以降237人もの無実の死刑囚が確認(4.23日付「東京新聞」)されている。
 もし、菅家さんが無期ではなく「死刑判決」だったら、既に処刑されていた可能性があり、現に同時期に同じ方法でDNA鑑定一致を根拠に死刑判決を受けた「飯塚事件」死刑囚が昨年10月、14年間の収監後処刑されている。(6月6日付「東京新聞」)
 最高裁も謝罪すべきであると同時に、冤罪を見抜けなかった責任を問われ処分されるべきである。取り返しのつかない死刑制度の廃止と、人権を守り冤罪を防ぐため取り調べの「完全可視化」が必須・急務である。

 

「冤罪の責任司法にある」 (09.7.11・東京新聞「ひろば」)
                                               
 足利事件をテーマにした、6月 27日付社説「冤罪の責任は司法にもある」に同感である。
 裁判官には、刑事事件の鉄則である「疑わしきは被告人の利益に」を厳守する義務がある。しかし、現実の多くの裁判官は″官権性善説〟に立ち、被告や弁護士の言い分に耳を傾けず、密室の自白を証拠採用する。それは冤罪が確定しても″処分される恐れがない〟安心感が、後押しをしているからだ。
 裁判の目的は、真犯人の処罰ではなく、罪に問われない人を発見することである。
 足利事件のDNA鑑定の確立は低く、一致する人は足利市内だけでも十数人いると批判されていたのである。この程度の鑑定を証拠採用したのは、最高裁の責任である。
 最高裁は菅家さんに謝罪して、検証すべきである。

 

「冤罪は最高裁の責任~足利字嫌悪再審決定に思う」 (「自然と人間」09.8月号)


 足利事件の菅家利和さんが再審開始決定を前に異例の釈放をされ、東京高裁が6月23、 再審開始を決定した。しかし、この再審開始決定は菅家さんの「真相究明・検証」の求めに蓋をしての決定であり、菅家さんが「心から喜べない」と言っているのは当然である。
 菅家さんに無罪を言い渡せぱ済むのか。「否」である。この過ちを教訓として生かすために(時間は戻らず、それしか出来ない)検証することは検察・警察に限らず、この冤罪を確定させた最高裁にこそ責任と検証義務があり、検証の否定は横浜事件の「免訴」と同じ裁判所の逃げである。
 最高検と国家公安委員長がマスコミを通して謝罪(本来、直接本人に)し、栃木県警本部長は直接菅家さんに謝罪し受け入れられたが、最高裁はなぜ謝罪しないのか、検察の責任とでも言うのか。検察・警察は悪事も働き証拠隠し(松川事件)や、デッチアゲ(菅生事件、志布志事件)もするのである。
 この冤罪の結果は最高裁が刑事裁判の鉄則である「疑わしきは罰せず」を守らず官権性善説に立ち、自白と当時八百分の一程度のDNA鑑定を証拠採用した結果であり、この確率なら足利市内だけでも数十人いることになる。
 これは幻の「DNA権威」採用の責任であり、本誌7月号でも当時、法医学の権威とされた古畑鑑定が、その後「弘前事件、免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件」など数々の冤罪を生んでいた事が確認され「権威頼り」が如何に危険かを証明している。
 検察官や裁判官は冤罪が確定しても処分された例はなく、私は最高裁に電話でその法的根拠を闘いたが「法的根拠はない」と言う。金が無くて腹がヘり数百円の無銭飲食でも有罪であり、金で買えない他人の生を台無しにしても、過失責任を問われない、こんな気楽で無責任な職業は他にない。その責任を問われない「安心感」から、安易な起訴や多数決の推定「だろう」で有罪や死刑判決を下すのである。
 そもそも多数決の推定「だろう」で有罪や死刑を判断していい訳はなく、米国の陪審は「全員一致」が条件であり、それでもDNA鑑定の進歩で237人もの無実の死刑囚が確認(4月3日付「東京新聞」)されている。米陪審の様に有罪判決は少なくても「全員一致」を義務付け、無罪判決(評決)後の検察控訴(上訴)権は否定されるべきである。同じ証拠で有罪、無罪双方の解釈が可能な場合は、無罪を採ることが人権上「鉄則」である。故に米国の陪審では無罪評決後の検察の控訴権は否定され無罪が確定するのである。
 また、上級審が正しいなどと言う考えは幻想であり権威主義である。日本で同じ証拠で無罪から有罪に転じることを認めていることは、「疑わしきは罰せず」が守られていないことを示している。
 しかし、この足利事件の捜査現場の元警部は「絶対自白の強要はない」と断言(6月24日付「東京新聞」)している、英国では弁護士が立ち合うと言えぱ、弁護士到着まで取調べはできず、また、英国、イタリア、豪州などでは全課程の「連続録画・録音」が導入され、米国の一部の州やフランスでも重罪の成人などに導入(6月30日付「毎日新聞})しされている。
 何の根拠もない密室の自白が証拠採用される先進国は他にない。菅家さんが求める取調べの連続録画・'録音の「完全可視化」は必須、かつ急務である。

 

「取調の『完全可視化』早急に導入を」 (09.9.25・「週刊金曜日」)

 

 足利事件の菅家さんの再審開始日程が9月21日と決まった。ご本人のおっしゃる通り、横浜事件の免訴や単なる「無罪」の言い渡しで終わってならない。
 菅家さんはほかの2件事件についても取調を受け、自白しながら証拠不十分で不起訴になった。その取調の録音が存在していることが確認され、菅家さんはその公開も求めている。
 冤罪は、官権はもとより、有罪判決を下した裁判所(官)や、刑事裁判の鉄則である「疑わしきは被告人の利益に」を守らず、有罪を確定させた最高裁に最大の責任がある。
 裁判の最大の「目的」は起訴された中から無実の人を救い出すこことであるが、多数決の「推定・だろう」で有罪や死刑判決を下す現裁判制度ではとうてい期待できない。
 官権と裁判所には富山氷見事件やこの足利事件の徹底的な検証義務がある。志布志事件を含めこれら冤罪被害者は異口同音に「連続録画・録音」を求めているのは当然であり、密室の自白が証拠採用される先進国は他にない。 
 国連からも長い間指摘されている「代用監獄」も改善されず、取り調べの「完全可視化」もないまま、政府、最高裁自ら欠陥を認める「裁判員制度」を強行導入した事に危機を感じている。
 憲法は「黙秘権」を認めており「連続録画・録音」はなんら捜査には支障なく、それを「捜査に支障」と否定するなら黙秘権の否定であり、捜査より取り調べ(自白)に重点を置いている証拠だ。「完全可視化」の導入が急務である。

 

「冤罪、裁判所はなぜ謝罪も処分も無いのか!」 (09.9.30「市民じゃ~なる」)

 

  「足利事件」の菅家利和さんの無実が、ほぼ確定している。最高検や検事正、国家公安委員長、そして栃木県警本部長は直接、菅家さんに謝罪し受け入れられている。しかし、有罪判決や有罪を確定させた地裁や最高裁は何ら責任を感じていない。
 この事件は当時「DNA鑑定はまだ信頼度が確立されていない」との批判があり、800~1000分の1の確立というなら、足利市内だけでも数百人居ることになる。しかし、裁判所は補強として「自白」があると有罪に踏み切った大変杜撰な判決である。
 冤罪は警・検察にも責任があるが、最終的に「有罪」を確定した裁判所の責任である。現状の裁判は刑事裁判の鉄則である「疑わしきは被告人の利益に」が守られず、多数決の「推定・だろう」で有罪や死刑判決を下している。「三鷹事件」の竹内景助は大法廷で8体7の僅差で一人「死刑判決」を受け獄死している。
 官権は証拠隠滅(松川事件)もデッチアゲ(菅生事件、志布志事件)もするのであり、それでも裁判官は「官権性善説」に立ち何の根拠もなく「密室の自白」を証拠採用している。そんな先進国は他になく、米陪審は「全員一致」が条件で、立会の無い自白は自動的に証拠にできず、且つ無罪評決後の検察の上訴権は否定されている。
 冤罪の殆どが自白しており、原則として「自白」は証拠としてはならず、その為に強大な「捜査権」を与えられている。冤罪は昔の事ではなく、今も「志布志事件、富山氷見事件、足利事件・・・・」などと続いており、この3事件の冤罪被害者が何れも自らの体験を踏まえ取調の「連続録画・録音」を求めているが、官権は「信頼が得られず捜査に支障」と拒否している。
 しかし、一方で自白部分など彼らの都合のいい部分録画・録音は行い証拠採用さえされている。「足利事件」でも起訴されなかった他の2件(証拠不十分で不起訴)に菅家さんの取調に「自白」を含む録音が残されていることが判明し、いま公開を求められている。
 欧米先進国では弁護士の立会や連続録画・録音は常識であり、導入されていない先進国は日本だけであり、なに故彼らは反対するのか。それは公開出来ない無理なな自白強要の取り調べをしているからである。
 そもそも、憲法は「黙秘権」を認めており、取調に応じる「義務」はなく、それでも支障というなら「黙秘権」を否定することになる。
 何故、この様な裁判が行われるのか。それは冤罪が確定しても彼らは何ら処分か謝罪さえしなくて済む故、安心して多数決の「だろう」で安易な判決を下すが、こんな無責任な気楽な職業は他にあるまい。
 冤罪が確定しても裁判官が処分も謝罪もしない法的根拠を最高裁に電話で聞いたが応えられず「法的根拠はない」とのことであった。また、宇都宮地裁にも同様の質問をしたが、此方は「個別の問題にはお答え出来ません」のオーム返しで何の反省もなく他人事であった事に憤りを感じた。
 最後に、足利事件と同じ記事、同じ手法のDNA鑑定一致で死刑判決を受けた「飯塚事件」の久間三千年さんは足利事件の「DNA再鑑定」が報じられた直後どの昨年10月、再審準備中にもかかわらず、判決確定から2年という異例の早さで処刑された。
 これは明らかに「DNA再鑑定」が飯塚事件に及ぶことに「蓋」をしたのである。弁護団は年内をめどに「死後再審」の準備を進めているが、死刑命令書に署名した森法相の責任は重大である。しかし、法相の責任回避のため政治判断される可能性がある。

 

「守秘義務は評決後不要」 (東京新聞「発言」09.11.3)

 

 裁判員裁判の評決後に、裁判員の記者会見が開かれる場合がある。だが、その席になぜ裁判所職員が同席するのか。裁判員が「守秘義務を犯さないように」という配慮ということだが、何の法律にも基づかず、また、裁判員が求めたものでもなく、そんな権限は裁判所にあるまい。
 発言内容が守秘義務に触れるか否かは本人が判断することであり、一般の犯罪でも同様である。そして、その発言が守秘義務に触れるか否かは、裁判所と裁判員の判断が必ずしも一致するとは限らず、その必要性があるというなら、戦前・戦中の特高により発言を停止させた「検閲」と同じではないか。
 公判前手続きも蚊帳の外で、評決後も守秘義務を課し、公判での一言二言の発言だけで、開かれた市民参加といえるのか。これでは内部告発もできない。
 米国の陪審制度のように評決後の守秘義務は外すべきである。

 
【2010年】

 

「裁判員裁判は『仲良しクラブ』」 (「週刊金曜日」10.2.12)

 

 福岡地裁での殺人事件の裁判員裁判で、遺体写真を直視できず、体調が悪くなつた女性がその直後に裁判員を解任されていた(『読売新聞』1月23日付)というが、そんなことが許されて良いのだろうか。
 憲法18条には「意に反する苦役に服させられない」とあり、同様に死刑制度に反対でもその判断を強制し、無罪を主張しても有罪の評決に至れば量刑の判断を強劃することは、「思想・信条、良心の自由」に反し違憲である。
 また、裁判員制度の導入や被害者の裁判参加で、被告が殺人や死体損壊を認めているにもかかわらず、法律や理論ではなく、死体や肉片の映像等を見せ「感情」に訴える傾向は裁判ではなく復讐や制裁の場になる可能性がある。
 2009年11月に最高裁は9月までの11地裁14件の裁判員裁判で、裁判員体験者の97.5%が「良い経験をした」との統計を発表(同年11月18付、各紙)したが、その裁判員の候補者段階で半数以上の52.6%の辞退が認められ(同)、さらに62人が理由を告げず忌避されている。
  裁判員制度はこのように、死刑や裁判員制度に反対しない人、また、面倒なことを言わない人だけの「仲良しクラブ」で裁判をしている可能性がある。
 さらに、裁判員候補者の不出頭には本来「過料」の罰則があるが、その11%に当たる622人が出頭しなかったが、1人も過料を受けていない(「東京新聞1月7日付)のはなぜか。過料の処罰をして違憲などの問題に発展することを恐れている可能性がある。
 このようなことを考えても、陪審員だけの全員一致で有罪無罪だけを判断する「陪審制
度」に切り替えるべきである。

 

「完全可視必ず実現を」 (「東京新聞」発言10.2.23)

 

強制起訴が決まった兵庫県明石の花火大会事故の裁判で、検察官役を務める弁護士が取調の「取調の可視化」を実行するとの弁護士(会)の言行一致高く評価し期待する。
 その必要性は足利事件に限らず、志布志事件や富山氷見事件、再審が確定した布川事件
も自白を強要された経緯を踏まえ、完全可視化を求めている。現在、自白の部分録画が
始まっているが、自白に至る経過を検証できることが必須である。
 逮捕・身柄拘束が逃亡や証拠隠滅でなく、取り調べのために利用されているが、憲法は黙秘権を認めており、被疑者・被告は取り調ベに応じる義務はなく、官憲には目白に頼らず捜査を進めるために強大な捜査権が与えられている。
 人権を守り、冤罪を致を防ぐため、完全可視化は必須・急務であり、先進国で導入のないの日本だけである。

 

「裁判を復讐・制裁の場と化した加害者参加」 (『市民じゃ~なる』10.3月号)


 加害者の人権が優先し「被害者の人権が軽視されている」、と裁判への被害者参加が実現したが問題はないのだろうか。憲法は「仇討ち」、つまり復讐や制裁を認めておらず、その代わり第三者が法律と理論に基づき行うのが裁判であり、それが人間の知恵だと思う。

 しかし、被害者の裁判参加で被告の「無罪推定」などまったく関係なく、被疑者・被告が無実を主張しても被害者は真犯人と断定し極刑・重罰を求めるのが普通である。しかし、それは感情であり裁判は感情で裁く場ではなく、感情にどう法的に反論できると言うのか。
 また、裁判員制度の導入で官権も感情に訴えるようになってきた。被告が殺人や遺体損壊を認めているにもかかわらず、敢えて死体や肉片の映像を見せる必要がなぜあるのか。明らかに法ではなく感情で訴えている。

 日本の判決は多数決、つまり「推定・だろう」であるが、米国の陪審は「全員一致」である。それでもDNA鑑定の進歩で米国では70年代以降237人もの「無実の死刑囚」が確認(09.4.23付『東京新聞』特報欄)されていることを知っているだろうか。
 更に日本では同じ証拠で無罪から有罪に「逆転」することが許されているが、米陪審では無罪評決後は検察に上訴権はなく無罪が確定する。同じ証拠で有罪、無罪双方に解釈できるなら「無罪」を採るのは当然であり、上級審が正しいとの根拠は何も無くそれは権威主義である。「三鷹事件」の竹内景助さんは8対7の1票(人)の差で死刑判決を受け、再審準備中に体調不良の訴えを無視され脳腫瘍で獄死している。

 今までにも「免田、島田、財田川、松山事件」と4人の死刑囚が死刑台から生還しているが、それでも真犯人が判明しないと信じない人たちがいる。しかし、弘前大学教授夫人殺人、下田缶ビール、宇和島事件、新しい処では富山氷見事件、これらは何れも有罪・服役出所後に真犯人が確認された事件である。

 足利事件はDNA鑑定不一致での再審が結審し3月26日に無罪判決が言い渡される。この足利事件の菅家さんは17年ぶりに、また、再審開始が確定した「布川事件」の杉山さんと櫻井さんは29年ぶりに仮釈放されたが、無期ではなく「死刑判決」だったら処刑されていた可能性があった。
 現に、足利事件と同じ方法のDNA鑑定で死刑判決を受け再審準備中だった「飯塚事件」の久間三千年さんは、足利事件のDNA再鑑定が確定した直後に、死刑判決から僅か2年という異例の早さで処刑された。これは明らかに「DNA再鑑定」が飯塚事件に及ぶ事に「蓋」をしたのである。
 そして、言うまでもなく冤罪の殆どはが自白しており、大分県大野市の強盗殺人事件でも2月23日に大分地裁が「自白の信用性に疑問」と無罪判決を言い渡した(2月24日付各紙)。前記、下田缶ビール、宇和島、富山氷見、布川事件など、何れも逮捕のキッカケは目撃証言であり、「自白と目撃証言」に頼る事が如何に危険かを証明している。

 冤罪被害者が異口同音に取調べの「完全可視化」を求めているのは当然であり、裁判官は密室の自白を何を「根拠」に信用し証拠採用するのか。そもそも「自白の任意性」が争点になる訴訟指揮は間違いである。
 官憲は可視化の要求に対し「被疑者との信頼関係が築けず捜査に支障」と言うが、何ゆえ被疑者が官憲と信頼関係を築く必要があるのか。逆に憲法は「黙秘権」を認めており逮捕されても取調に応じる義務は無いのである。
 それ処か、被疑者を四六時中官権の手元におく「代用監獄」が国連からも批判され、その逮捕・身柄拘束が逃亡や証拠隠滅ではなく、取調・自白強要の場に利用されている。
 公費で集めた証拠は全て公開すべきで、冤罪でないなら全ての証拠が合理的に説明できなくてはならず、松川事件ではアリバイの「諏訪メモ」を官憲は最後まで隠していたが、狭山事件でも昨年12月東京高裁が未提出証拠の開示勧告を出している。
 「仙台筋弛緩剤事件」でも官憲は鑑定試料を使い切ったと主張するが、再審などの為に鑑定資料の保管義務を課すべきで、米国では永久保存であり保管義務を侵すと官権が処分されるというが当然であろう。 

 また、冤罪が確定したら裁判官と検・警察官はその責任を問われる処分を課すべきである。処分の無い安心感から安易な逮捕・起訴や、そして多数決の「推定・だろう」で有罪や死刑判決をするのである。

 部分録画など百害あって一利無しであり「完全可視化」の導入が必須且つ急務でり、その導入の無い先進国は日本だけである。

 

「謝罪すれば済むのか!」 (10.4.9『週刊金曜日』)


 3月26日、宇都宮地裁が足利事件の菅家さんの再審無罪を言い渡し、3人の裁判官が起立し菅谷さんに「異例」の謝罪をしたというが、この謝罪をさせたのは世論の力である。しかし当時、菅谷さんを真犯人に追い込んだのもマスコミを含めた世論であった。 
 しかし、裁判官の謝罪が異例であってはならず、過ちを認めるなら当たり前であり、「他人の一生を台無しにしても責任を問われない」裁判官の安心感が冤罪に拍車をかけている。
 確かに3人の裁判官は法廷で頭を下げたというが再審無罪の判決をした裁判官の責任ではなく、冤罪の責任は「有罪を確定」した最高裁判事の責任であり、その責任を追及し責任を取らせるべきである。
 富山氷見事件の強姦冤罪被害者である柳原浩さんは『「ごめん」ですむなら警察いらない』という本を書いているが、まったくその通りであり「ごめん」で済むなら今後も冤罪が減ることはないだろう。何故なら、彼らには「冤罪だったら大変なことになる」という緊張感などまるでなく、「処分」される心配がないからである。
 そもそも多数決は「推定・だろう」であり、米陪審では全員一致でさえ70年代以降237人もの無実の死刑囚が確認されているのである(09.4.23「東京新聞」)。
 民主党は可視化の法制化公約を延期したが、可視化法案を早急に実現すべきである。

 

「裁判員『好調』に疑問」 (10.5.29・東京新聞「ミラー」)                                        

 

 裁判員制度1年の批判的記事がほとんどないなかで、22日付特報欄「裁判員1年『好調』は本当?」を興味深く読んだ。
 最高裁は体験者の96.7%が「良い体験」とし、良いスタートが切れたと自画自賛しているが多くの問題を含んでいる。この数字は呼び出された人の半数以上の辞退を認め、分母を大幅に小さくしていることは記事も指摘している。つまり批判的でない人だけが集まって裁判をしているのではとも思える。
 守秘義務にも大きな問題がある。裁判員と決して平等ではない裁判官の誘導や圧力などもあったと想像できるが、公表していない。また、評決後の記者会見に裁判所職員が立会い、裁判員の発言を監視規制しているようにも見える。米陪審は評決後の拘束はない。プライバシー以外のことは公表されるべきだ。
 また、裁判の行方を大きく左右する「公判前整理手続」きに裁判員が排除されていることは情報の不平等である。これでは裁判員は公判で一言二言発言するだけでの「お客さん」でしかない。
 死刑や量刑判断を苦痛と感じる人も多い。現に70%の人が心の負担を感じているという。しかし、最高裁は導入前に「一人ではなくみんなで判断するのだから、そんな負担に感じることはない」と無責任な発言をしていた。
 そもそも死刑や有罪を多数決の「推定・だろう」で判断していいのか。米陪審は「全員一致」で評決する。それでも米では多くの無実の死刑囚が確認されている。有罪無罪を全員一致で判断する「陪審制度」に切り替えるべきだ。

 

「有罪判決は『全員一致』の義務付けを」 (10.7.25・市民じゃ~なる「荒吐」)


 裁判員制度が一年を経過しマスコミ各紙が特集記事を書いたが、批判や疑問視した報道は殆ど見かけなかった。
 今までの裁判も同様だが「多数決」で有罪や死刑を確定してもいいのだろうか。無罪を主張しながら「死刑判決文」を書かされ、自殺未遂までしている元裁判官の苦悩をどれだけの人が知っているだろうか。
 1966年、静岡市で一家4人が殺害され、今も「再審請求」が出されている『袴田事件』の一審判事であった熊本典道元判事がその人である。
 左陪席だった彼は無罪を主張しながら、二対一の「多数決」で死刑判決文を書かされ、その後退官した。司法試験をトップの成績で合格した彼は判決後、退官し酒に溺れ離婚、一時は家族とも音信不通となり自殺未遂までし、警察に「人を殺した」と訴えた。彼はいま月十万円の生活保護で暮らしている(6月12日付「東京新聞」夕刊)。
 彼の無罪の根拠は「自白に信憑性がない」との理由、つまり他に確かな証拠が無いと言うことである。今の裁判でも如何に「自白」の信用性が争点になっている裁判が多い事だろうか。そして、冤罪の殆どが「自白」しているのでり、「自白」や「目撃証言」はあくまで補完証拠であり原則、証拠採用すべきではない。出所後に真犯人が判明した富山氷見事件、下田缶ビール事件、宇和島事件も、そして、再審開始が確定した「布川事件」など何れも目撃証言がキッカケである。
 熊本元判事の苦悩は裁判員も同様であり、死刑を言い渡すことはそれほどの重みと苦悩がある。しかし、最高裁は裁判員制度導入前に「一人で判断するのではなく、みんなで判断するのだから、そんなに負担に感じることはない」と無責任な発言をしていた。
 有罪や死刑を多数決の「推定・だろう」で判断してはならず、三鷹事件の竹内さんは八対七の一票(人)差で死刑判決であった。米陪審は「全員一致」が条件だが、それでも百人を超える無実の死刑囚が確認(09.4.23「東京」、09.6.14「読売」)されているのである。
 また、米国では無罪評決後の検察上訴権は否定され無罪が確定するが、日本では「同じ証拠」で無罪から有罪に逆転する事が許されている。上級審が正しい根拠など何も無くそれは単なる「権威主義」である。
 同じ証拠で無罪、有罪双方の解釈が可能なら無罪を採らなければならなず、その「疑わしきは罰せず」が人権である。99人の真犯人を逃しても無辜の罪人を作ってはならないのであり、それは「理想」と言う人に言いたい。それが貴方だったら・・・・。

 

「多数決で有罪・死刑を決めていいのか」自然と人間」2010.10月号)

 

  「冤罪」に感心を持つ小生は7月号『美談でほ語れぬ元裁判・熊本典道』を読み、早速「美談の男』を手配し読んだ。
  TVでも何度か放送され知られているが、熊本典道・元判事は「袴田事件」の一審で 無罪を主張しながら死刑判決文を書かされ退官した。その後、酒に溺れ離婚し一時家族と音信不通に、自殺末遂を起こし、警察に人を殺したと自首し、今は生活保護で一人で暮らしている,これが司法試をトップ合格した彼の今の-姿であり、死刑判決はこれほど重いのである。
 しかるに、裁判員制度導入前に最高裁は裁判員の心理的不安に「一みんなで柑談して決めるので、そんなに負担を感じることはない」と無責任な放言を吐いた。
 そもそも多数決の「推定」「だろう」で有罪や死刑を決めていいわけはない。人間は 間違いを犯すことを大前提に、最低でも「全員一致」を義務づけるべきである。
 それでも米陪審ではl00人を超える無実の死刑囚が確認(06・6・14 「読売」、09・4・23 「東京」)されているのである。私は最高裁で8対7のl票(人)差で死刑にされ獄死した「三鷹事件」の竹内さんを思い出す。

 

「官憲を信じた報道を自白したマスコミ」 (「週刊金曜日」2010.10.8)

 

 「郵政疑惑事件」で村木厚子さんの無罪が確定し、逆に取り調べにあたった前田恒彦 ・特捜主任検事が「資料改竄」容疑で逮捕された。

 新聞各紙は社説でも批判し「前代未聞の不祥事」(朝日)、「刑事司法の根幹を揺る がす驚くべき事件」(毎日)などと報じたが、「まさか!」と言うことであろうか。当時、自分たちはどう報道したのか。これはマスコミ自らが「官権は正しい」という前提で信じ報道していたとの「自白」に等しい。官憲は組織や権力を守るため証拠隠滅やデッアゲも するのである。

 横浜事件、松川事件の「アリバイ(諏訪メモ)」隠し、最近でも志布志事件のデッチ アゲ・・・・これらは間違いでなく、ヤラセでありデッアゲであったことをマスコミは 忘れたのか。私は最初から官権など信じていない。

 しかも、前田検事の書き換えの可能性は同僚検事さえ指摘し、しかも検事正にまで上 がっていたにも拘わらず、何ら手を打たなかった事が判明した。これは組織を守るため の隠蔽であり、村木さんの言う通り前田検事一人の責任で終わらせてはならず、検事正 の罷免は当然である。

 他にも「不正がない」確証はなく、この事件に限らず前田検事の関わった全ての事件 を再捜査すべきである。

 「官権は正しく悪い事はしない」等のイメージは払拭すべきである。官権は人権や正 義より「権力や組織を守る」ことこそ最大の使命であることを我々は知るべきである。 そのためには自白の強要処かヤラセ、デッアゲと手段を選ばないのである。

 

 「検察の監視報道に期待」 (10.10.22東京新聞「発言」)

 

 15日付特集「新聞報道のあり方委員会」で小嶋麻美記者の「検察を監視する覚悟」を読んだ。今回の大阪地検のFD改ざんで、ある全国紙は社説で「前代未聞」と書いたが、そうではあるまい。
 大逆事件、横浜事件、そのでっち上げは昔のことではなく、志布志事件も同様であり、松川事件ではアリバイ証拠の「諏訪メモ」を検察は最後まで隠していた。これは今回の証拠採用もされていないFD改ざんどころではありまい。しかし、検事が処分されたり起訴された話は聞かない。
 検察は人権でも正義でもなく、権力を守ることが最大の使命である。これに対し、ジャ~ナリスとは真実や事実に加え、それを実行するためにも「権力の監視」が最大の使命であることを自覚してほしい。「そもそも」検察自体を監視していくこともメディアの使命だ」と書いた小嶋記者に期待する。

 

【2011年】

 

「舞鶴事件の公判を注視」 (11.1.11・東京新聞「発言」)


 3年前に京都府舞鶴市で女子高生が殺害された事件の初公判が昨年暮れ、京都地裁で開かれ、被告は一貫して容疑を否認した。「全部でたらめでウソで、私は無関係です」との主張を私は信じる。
 この事件は、当時テレビでも報道された暗く解像度の悪い「映像」と目撃証言であるが、検察の「同じ人物である可能性高い」とはあまりにも無責任であり、検察自ら断定できない「可能性」では証拠にならない。
 また、人間の記憶はかなり不確かであり、氷見事件も再審の始まった布川事件も逮捕の切っ掛けは「目撃証言」であり、「自白と目撃証言」は原則証拠採用はすべきではない。 さらに検察は被告の供述や秘密の暴露を主張するが、可視化されていない密室での供述や調書は証拠になり得ず、検事の「作文」であることは志布志事件や大阪地検の捜査でも明白である。

 

「完全可視化の実現を」 (「自然と人間」11/3月号)


 本誌2月号、魚住昭氏の「部分可視化は検察の武器になるだけで、百害あって一利もない」に同感である。「自自部分」でほなく、必要な時に自白に至る「経週の検証」ができるシステムが必要なのほ、自白で冤罪がつくられた事実から明らかである。
 村木厚子さんは「検察のあり検討会議」で、私に聴かないで検証がでぎるのですかと怒り、その体験から「完全可視化」を求めている。
 しかし、可視化だげでは足りず米陪審のように有罪判決には「全員一敷」を義務付げ、証拠の全面開示とその保管義務化、そして、無罪判決後の検察上訴権を否定すべきである。多数決や無罪後の上訴は「無罪推定」に反し、同じ証拠で有罪無罪双方の解釈が可能なら無罪を採ることが人権ある。
 大阪地検の大坪前部長と佐賀前副部長の趨訴を理由の懲戒解雇も無罪推定に反し抗議する。

   

「花岡弁護団に怒り!」 (「紙の爆弾」6月号)

 

 『紙の爆弾』4月号、「『花岡和解』の抱える闇」を読んだが、この事件、ほとんど知られていない。弁護団が和解条項を原告に渡さず、口答説明でも「被控訴人の法的責任を認めるものではない旨主張し、控訴人らはこれを了承した」との部分を、説明(通訳)しなかったことは、故意である。敗訴したくない弁護団が原告を騙したのだ。
 当時、マスコミも、弁護団の「原告以外にも補償の道を開いた」との自画自賛そそのまま報じた。平頂山事件弁護団が「お金ではなく尊厳を守りたかった」と、敗訴したにもかかわらず原告に感謝されているのと対照的だ。原告を騙すとは弁護士の風上にもおけない。

 

 『裁判員裁判は陪審制度に』 (「自然と人間」8月号)

 

 本誌7月号「読者からのお便り」の『裁判員制度の3年目』拝読し、私見を述べさせて戴きます。 
 筆者はその中で「参加者の感想では、非常に良い体験をしたという人が多数で、市民参加制度は順調に推移したといってよいだろう」との発言は、最高裁のアンケート調査を鵜呑みにしていないだろうか。
 死刑判断が予測されるような裁判では9割の人が裁判員を辞退(10.11.17「東京新聞」」特報欄)しています。また、呼び出しに応じない場合は「科料処分」を科すことができますが、未だ不出頭で過料処分を受けた人は1人もいません(最高裁に電話で確認)。つまり、裁判員裁判は裁判員制度や死刑制度に反対しない人たちだけの「仲良しクラブ」で行われていると私は思っており、最高裁のアンケートは当然の結果です。 
 憲法18条には『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない』とあり、有罪や量刑、死刑判断を「苦痛」と感じる人もおり、その強制は違憲と私は考えます。これが、裁判所が強制・処分出来ない理由だと思います。
 また、裁判員は公判前整理手続きは蚊帳の外で「情報の不平等」、更に、生涯の「守秘義務」は法の平等に反します。最高裁では少数意見の表明が許され、下級審や裁判員には認めないのは最高裁の特権を認める差別と思います。
 米陪審は陪審員だけで「全員一致」を条件に有罪無罪だけを判断し、量刑は裁判官が行います。また、検察に無罪評決後の上訴権は無く、更に、証拠は全面開示であり、私は陪審制度に切り替えるべきと思っています。

 

 『人権無視の「皇室典範」廃止を』 (2011.12.16「週刊金曜日」)

 

 宮内庁が皇室の女性が〝嫁ぎ〟、皇室を離脱して行くと皇室が減少すると危機感を政府に伝えたという。何も皇室制度を維持する必要はない。
 そもそも、皇室典範には天皇の継承は男子、しかも長男優先などの男女不平等や、女性が結婚で皇室を離脱するか否かの自由もなく、皇室典範といえども憲法の下にあり違憲である。
 それとも『皇室典範』は法律ではなく憲法の上にあるとでも言うのだろうか。それは昔、天皇を「現代神」と教えた価値観と同じで「人は生まれながらにして平等」であり、世に特別の人間などあり得ずそれは造られた価値観である。
 皇室には人権もプライバシーもなく、政府が責任を持つことを条件に一切の責任を持たず、権力に利用される「人形」であることに徹しなくてはならず人間扱いされていない。
 誰々がご懐妊とか、天皇が前立腺ガンなど、普通ならプライバシーと裁判沙汰になるであろう。現に美智子妃殿下は一時声が出なくなり、雅子さんは適応症傷害だという。そして、そのお子さんは不登校も起こしているのである。何の自由もなく宮内庁の価値観に徹しなくてはならない「ストレス」の結果であろう。
 英国皇室は浮気も離婚もあるが日本の皇室ではあり得ず、外の自由を知って皇室に入った人には到底耐えられないであろう。
 皇室問題は大きな「人権問題」でもあると私は考える。

 
【2012年】

 

 「三鷹事件の再審開始実現を」 (「自然と人間」2012.1月号)

 

 本紙12月号「三鷹事件 44年ぶりの再審請求ついに」を読んだ。
 10日前に起きた「下山事件」は自殺と見られ、2日後に起きた「松川事件」は全員無罪となり、この「三鷹事件」だけ有罪、否、死刑判決後、竹内景助さんは脳腫瘍を放置され「くやしいよ!」と言い遺し獄死を強いられた。
 プロならマスコンを「紐や針金」で縛る(しかも、現場で拾った)など考えられず、明らかに素人の犯行である。事故後、米兵が現場から関係者を排除し、運転台の電気機器まで取り外し持ち去ったのは何故か!誰か!「現場保存」は原因追求の鉄則であり、読売新聞が報じた運転台の写真が別の電車であことや、写真の印画紙が国内の物でない事なども確認されている。
 弁護団長だった布施辰治は最初から最後まで竹内さんの無実を信じていた。 故に、単独説を支持していた正木ひろし弁護士らと対峙し布施は一時解任された。しかし、その後竹内は布施に謝罪し弁護を再依頼、布施は気持ちよく引き受けたが上告中に病死した。そのお孫さんの大石進さん(元、日本評論社社長・会長)が『弁護士 布施辰治』を書いたのは知られている。その大石さんが「三鷹事件の再審を支援する会」の世話人を引き受けして下さったことを心強く感謝したい。浦電事件と共に三鷹事件の「支援する会」にも多くの支援を期待し、再審開始と無罪を勝ち取り竹内さんの無念を晴らしたい。

 

「死刑制度は廃止すべき」 (2012.2.3「週刊金曜日」)

 

 1月20日号の本欄、峯博氏の「死刑が執行されないのは」に反論する。 
 氏は「死刑判決」はすべて正しいとでも思っているのだろうか。人間は完全ではなく必ず間違いを犯すことは、今回の原発の対処でも証明されている。
 戦後だけでも再審で「免田、財田川、松山、島田事件」の4人が死刑台から生還したのをご承知と思う。また、先日、再審無罪が確定した「足利、布川事件」も、もし無期ではなく死刑判決だった処刑されていたかもしれないのです。
99人の真犯人を逃しても無辜の犠牲者を出してはならないのです。もし、氏や家族が同じ立場でも「それは理想だ」と言い切れますか。それとも真犯人が判明せず再審無罪も信じないというのでしょうか。 
 氏は死刑執行命令書に署名しない法務大臣を批判すますが大臣も思想信条の自由があり、批判するならその責任は任命権者の総理大臣であり、総理が意に添わないから罷免すべきで、その結果は国民が判断することだと思います。
 また、世論は「死刑は必要が多数」とのご意見ですが、民主主義の原則は多数ですが、全て多数決で判断していい訳ではありません。それは少数意見や弱者を無視することにもなります。死刑廃止国は必しも死刑廃止が多数だった訳ではありません。私が子供の頃に学校で民主主義とは「少数を尊重すること」と習いました。つまり少数意見を無視せず可能な範囲で取り入れるという事です。
 三鷹事件の竹内景助は8対7の1票(人)差で死刑判決を受けたのです。死刑や有罪が多数決の「推定・だろう」で判断していい訳はありません。
 米の陪審は「全員一致」ですいが、それでもDND鑑定の進歩で100人を超える「無実の死刑囚」が確認(09.4.23「東京」、09.6.14「読売」)されていることをご存じでしょうか。
 判決に「全員一致」を義務づけ取り返しのつかない死刑制度を廃止し終身刑を導入すべきと思います。

 

 「 終身刑を検討しては」 (2012.2.11・東京「発言」)


 光市母子殺人事件で元少年の死刑が確定するが、それでいいのだろうか。
 被害者の本村洋さんが死刑を望む心情は当然であり、私も同じ立場なら同じ要求をするだろう。しかし、日本では「仇討ち」つまり復讐を認めていない。その代わり、第三者が冷静に判断するのが刑事裁判であり、被害者の思いを満たす場ではなく、それは民事で要求することだと思う。
 私は「年齢を軽視せず、生育歴を踏まえ、慎重に検討すること」が望まれるとの考えである。生まれながらにしての悪人は一人もいない。それを曲げているのは親を含めた社会の責任でもあると思う。
 死刑判決には最低でも「全員一致」を義務づけるべきであろう。そして、冤罪を考えると死刑を廃止して終身刑を導入すべきだと私は思う。

 

「三鷹事件に思う」 (「自然と人間」2012/4月号)

 

 単独犯とされた竹内景助の8対7の「多数決」の有罪・死刑判決など到底裁判ではない。多数決は「推定・だろう」ということである。
 私は私鉄で同形車両の63型電車の検査をしたいたが、無人電車を走らせる方法は幾らでもあり、マスコンを紙ヒモで縛るなど明らかに素人の仕業である。
 計画的犯行としながら現場で拾ったハリガネと紙紐とは余りにも不自然であり、もし現場に落ちていなかったらどうしたのか。当時、読売新聞が報じた紙ヒモ縛った運転台のマスコンは、事故車両のものでないことが確認され、その印画紙も国内のものではなかった。読売新聞がその写真の入手先を明らかにしなかった理由は何か。
 本誌でも紹介したが、当時三鷹駅のホームで事故を目撃した学生だった堀越作治さんは、救命の協力をしようとしたがM Pから排除されたと証言している。堀越さんの証言通り救命や事故原因調査の労組員らも排除されているのである。事故で完全破壊された駅前交番の警察官は4人だったが、誰ひとり現場にいなかったのも偶然なのか。なにゆえ、MPや検事がそんなに早く現場に来られたのか。スタンバイしていたのではないのか。

 

【2013年】

 

「人権大国」の実態(2013.7.10・東京新聞「ミラー」)

 

 スイス/ジュネーブで5月22日開かれた国連の拷問禁止委員会で、「日本の司法刑事制度は自白に頼りすぎており中世のようだ」との判に対し、外務省の上田秀明人権人道担当大使は「日本は世界一の人権先進国だ」と反論、会場に苦笑が広がると「なぜ笑う、シャラップ(黙れ)」と叫んだという
 日本では取調の可視化導入が遅れ、いまだに密室での自白が証拠採用されている。しかも、検察が都合悪い証拠を隠すことが合法とされ、判決は多数決で有罪や死刑が決まる。さらに、同じ証拠で無罪から有罪に逆転することが許されている国が「世界一の人権先進国」のわけがない。
 可視化は欧米諸国のほか、韓国、香港、台湾でも導入されている。また米国の陪審員制度の評決は全員一致が原則で、証拠は原則全面開示され、無罪評決後に検察上訴権はなくその時点で判決は決着するのである。
 戦後間もない三鷹事件で無罪を訴えていあた竹内気助死刑囚は最高裁で弁論も開かず裁判官の8対7の1人の差で無期から死刑に変更され獄死したのである。
 日本の人権問題や裁判だけではない。学校現場では卒業式などで、教師が「日の丸、君が代」の起立斉唱を強制され、思想信条・価値観の自由まで否定されるなど、各分野に及んでいる。
 朝鮮学校に高校無償化が適用されないのは明らかに「差別」であり、大阪で20代の母親と3歳の男児の餓死遺体が発見されるなど生存権も怪しい。これが世界一の人権国の実態で、世界に恥じない改善が望まれる。

 

【2014年】

 

 『裁判員ではなく陪審制に』(2014.3.29・「東京新聞」発言)


 2月18日付報面で、裁判員の強制は苦役で違憲だと国を訴えた裁判員体験者の記事を読んだ。殺人現場の写真などを見せられ急性ストレス障害になったことがその理由で、死刑判断を強制するなど裁判員制度そのものが違憲とした。有罪や死刑判断を市民に強制することは憲法18条の「 意に反した苦役を服せられない」に違反するのは当然だと思う。
 裁判員法には「正当な理由がなく出頭しないときは、 10万円以下の過料」とある。法的には「過料」は科料と違い罰則ではないが、明らかに制裁金で強制を意味する。だが、今やその呼び出しに応じない人が5割を超え、裁判員の「国民皆参加」は破綻している。これに対して、最高裁は「苦役に当たらない」としているが、今まで不出頭で処分を受けた例はない。つまり、今の裁判員裁判はこの制度に反対しない「仲良しクラブ」で行っているのに等しい。
 ほかにも、裁判官の誘導などの内部告発できない生涯の守秘義務や、「公判前整理手続」への裁判員排除などにも問題がある。
 そもそも、多数決で有罪や死刑が決まり、同じ証拠で無罪がら有罪に逆転する裁判は裁判とは言えない。米国の陪審制度は「全員一致」が条件で、さらに無罪評決時点で検察の上訴権が否定され「疑わしき派罰せず」の原則が守られている。それでも、報道によると米国では少なくとも100人以上の無実の死刑囚が確認されている。人権を守り冤罪を防ぐため、取調べ可視化と証拠の全面開示とともに、裁判員の市民参加は、有罪無罪だけを判断する「陪審制度」に切り替えるべきである。

 

 『知る権利を否定した最高裁』(『自然と人間』2014年9月号)


 7月14日、沖縄密約の「公文書公開請求」裁判で、最高裁第二小法廷(千葉勝美裁判長)が政府の言い分を認め「政府が無いというなら無い」、それを在るというなら「原告がその存在を立証せよ」と上告を棄却した。無理難題、トンデモナイ判決。まさに民主国家の崩壊ではないか。しかも「全員一致」というから最悪である。すでに米公文書館で公開されている資料公開に何の問題があるのか。
 一審は政府に公開を求め、二審では原告敗訴したが不在の立証義務は国にはあると当然の指摘をした。しかし、最高裁はこれをも逆に在ることの立証を原告側に求めたのである。つまり政府が「無い、廃棄した」と言えば公開しないで済むということだ。敗戦直後に国の内外で秘密書類を廃棄中・焼却した時代と時代と同じではないか。
 この第二法廷はその4日後には、永住外国人の生活保護不支給を認めた。生活保護は「人としての最低の生活を国が保証するもの」あであり、外国人は「人」ではないのか。税金は取りながら生活保護は認めないとは言語道断である。第二小法廷は明らかに偏向している。

 

『冤罪の人には年金支給して』(2014.11.28・東京新聞「発言」)

 

 再審無罪が確定している「布川事件」の杉山卓男さんと桜井昌司さんの国尾民年金支給請求に国は応じていないとされる。その理由を厚労省は「死刑囚と違い、無期懲役囚は社会復帰する可能性があり、服役中に保険料の支払いや免除を申請することが想定される」という。

 厚労省は服役し社会で働けないのに、どうして保険料が払えるというのか。刑務省の強制労働の報酬は保険料に足りるのか。しかも、二人は保険料の「免除申請」があることとの説明を受けていなかったが、これは知らなかった二人の責任なのか。

 冤罪で人生を台無しにした責任は国にあり、逮捕されるずに有罪判決を受けていなければ当然、年金保険料は支払い可能であった。

 これは国の責任であり、正義に反して決して許さず、保険料支払いに有無に関係なく年金を支給すべきである。あまりにも冷酷すぎないか。

 

【2015年】

 

「再審棄却の高知地裁に抗議」(「週刊金曜日」1月16日号)

 

 2006年に高知市の交差点内でスクールバスと白バイが衝突し警察官が死亡した「高知

白バイ事件」の再審請求で、12月16日高知地裁(武田義徳裁判長)が再審請求を棄却し

た。

 この事件はスクールバスが動いていたか否かが裁判の争点であり、バスに乗っていた

生徒たちは「動いていない」と証言したが「身内の証言」と採用されなかった。一方で

対向車線を走っていたとされる別の白バイの警官の「バスは動いていた」との証言が採

用されバス運転士は有罪が確定。服役し出所した。対向車の白バイ警察官は「警察の身内

」ではないのか、裁判官は最初から検・警察の立場に立った性善説で判決し、最高裁はそ

れを追認して有罪が確定したのである。

 武田裁判長の『現場に第三者がいる状況で県警がスリップ痕を捏造することはできな

い』等の理由は、証拠に基づかない仮説・推定の判断である。そもそも、事故直後になぜ運転手を現場から遠ざけたのか、そして、なぜ後日いきなり「スリップ痕」の写真を見せたのか、事故後に運転手になぜ現場検証に立ち合わせなかったのか、その間に何があったのか。

 100歩譲って5~10キロで動いていたとしても、なぜ1mものスリップ痕が付くのか。

「TV朝日」で同型のバスに生徒を乗せて実験したが、1mどころかほとんどスリップ痕は付かなかった。さらに、そのスリップ痕はなぜ翌日には消えてしまったのか、急ブレーキのリップ痕は何日も消えずに道路に残っている。さらに、その左右のスリップ痕はなぜ平行ではなく「ハ」の字型なのかタイヤは平行に着いている。

 判決はこれらの物的証拠の疑問に答えることなく、推定で再審請求を棄却したことに

強く抗議する。

 

『陪審制度の導入を』(2015.3.7・東京新聞「ミラー」)

 

 裁判員制度を取り上げた1月16日付のNHK総合テレビ「首都圏特集」で、裁判員候補者の三分の一が辞退していることを知った。この現状で市民が裁判に主体性を持っていると言えるのか。呼び出しにさえ応じない人も多く、いまだにそれで「過料処分」受けた人がいないと聞いている。

 番組では裁判員体験者の半分もが体験後に悩んでいるという。それは、有罪無罪だけの判断ではなく量刑まで判断させるからである。陪審員裁判では有罪無罪だけの判断で、量刑は裁判官が決めるので心の負担は全く違う。

 有罪無罪の判断なら証拠と自らの良心で判断できるが、量刑の判断は正しく出来るかなどと悩むのだ。これは「意に反する苦役に服させられない」とある憲法にも抵触するのではないか。

 また、裁判員には死ぬまで「守秘義務」が課せられるが、最高裁判事は少数意見など発言をしており、裁判員と下級審判事だけ公表できないのは法の下の平等に反する。それに評議の内容で裁判官の誘導などがあっても指摘できない。米国の陪審員は判決後に守秘義務が説かれていると聞いている。

 陪審は「全員一致」が条件だが裁判員裁判は「多数決」である。有罪や死刑を多数決で決めて良いのか。戦後間もない三鷹事件の竹内景介死刑囚は、最高裁が弁論も開かず8対7の一票(人)差で無期から死刑となり獄死している。否、「全員一致」の米国の再審でさえDNA鑑定の進歩で100人を超える「無実の死刑囚」が確認されている。裁判員裁判ではなくより、よりベターな陪審員制度を導入すべきである。

 

◆【冤罪ないよう緊張感もって】2016.9.10 東京新聞「発言」)

 

 9月30日付本欄『冤罪には厳重処分を』に同感である。間違いや過失ではなく、菅生事件や志布志事件など権力の「デッアゲ」や、松川事件など検察「証拠隠し」の冤罪でさえ検察官も裁判官も処分はされないのである。処分どころかその後出世の傾向さえある。

 故に、彼らは安心して安易な起訴や「だろう判決」を下す。私たちはスピード違反や駐車違反でさ処分されるが、人の一生を台無しても処分されない。こんな気楽な職業は他にあるまい。

 「こが冤罪だったら大変な事になる」などの緊張感はまるでない。確かに人間は絶対ではなく過ちを犯すが、重大な人権問題の冤罪には責任を取らせるべきだと考える。結果的に「だろう」起訴、判決を戒めるであろう。

 

【2018年】

 

『有罪死刑多数決でいいのか』(2018.2.2「東京新聞」ミラ ー)


 死刑囚で初めて仮釈放されている袴田巌さんと、一審判事の熊本典道さんの面会が実現した記事を読み胸を熱くした。既に熊本さんは一審で無罪を主張しながら多数決で「死刑判文」か書かされたことを明らかにしていたが、袴田さんとの面会は初めて実現した。下級審裁判官には「守秘義務」があるが、最高裁は熊本さんも処分できず、私は電話でその理由を最高裁に問いただしたが返答できなかった。
 熊本さんは判決後、裁判官を辞めて弁護士に、その後弁護士登録も抹消し、審議の公表後は大変な生活を強いられたという。有罪や死刑を多数決で決めていいのか、せめて全員一致を義務付けるべきである。全員一致の米の陪審でもDNA鑑定の進歩で、多数の無実の死刑囚が確認されている。
 しかも日本は再審開始が決定されても検察の抗告が認められ、袴田事件では、再審開始決定で静岡地裁の村山浩昭裁判長が「拘置をこれ以上継続することは耐え難いほど正義に反すると言わざるを得ない」と発言したが、それでも検察は即時抗告した。これはメンツだけの抗告で、検察は仕事であり、いくら時間とカネがかかっても関係なく、無罪が確定しても責任を問われることはない。故に安易な逮捕、起訴や「だろう判決」になってしまう。彼らに「冤罪だったら大変なことになる」という意識はまるでなく、都合の悪い証拠は出さない。
 人権を守り冤罪を防ぐために、全事件の全面録画はもとより、証拠の全面開示を義務づけ、再審の抗告は認めずに、判決の全員一致を義務付けるけるべきである。 

 

 『司法取引で冤罪増を危惧』(2018.6.21「東京新聞」つながるオピニオン) 

 

今月1日から自分の罪を軽くする条件で、警察に密告する「司法取引」が合法化された。ウソを密告したり針小棒大に密告などで、冤罪が増える可能性があり不正義な捜査である。今までにも警察自身が留置場にスパイを入れて誘導したこともある。

 政府は「慎重適切に運用」というが、証拠を隠したりデッチアゲまでする警察・国家権力をどうして信じられるか。一度出来た法律はその適用範囲が拡大されることは常識である。かつて、公安警察が共産党の緒方靖夫さん宅の電話を盗聴し大問題になった。しかし、現在は合法化され法の改悪で立会人も必要なくなったのである。車へのGPS装着も合法化され、まさににチャップリンが「監視社会」を予期した映画「モダンタイムス」であり危険な社会になった

 冤罪は増えるであろう。

 

「袴田事件 高裁の不当決定に抗議する」(18.6.29「週刊金曜日」)

 

 静岡地裁の袴田巌さんの再審開始判断に対し、東京高裁が検察の抗告を不当にも認めた。

 争点は検察と弁護側のDNA鑑定が違ったことでこれはDNA鑑定が「絶対」ではないことを示した。このような場合は双方の証拠を採用をせず他の証拠で判断すべきである。

 この事件は当初から「犯行着衣の変更」と言う重大な訴因変更があった。パジャマでの犯行が後日、犯行着衣が味噌樽から発見されたとされたと変更された。しかし、その発見されたズボンは小さく袴田さんにははけなかった。これに検察は「縮んだ」と主張したが、弁護側は縮まない事を実験で実証している。さらに、ズボンと下着のステテコの「血痕の位置が違う(重ならない)」だけはなく、下着のステテコの方が「多量の血痕が付着」はあり得ない。この矛盾を検察、裁判官は何と説明するのか。

 検察は全ての証拠で有罪を証明する義務があり、死刑を求めるなら一点の曇りも疑問・矛盾も残してはならない。裁判官は4人もの殺害事件を迷宮入りさせる事はできず、何としても「犯人が必要」なのだ。それには責任を検察に押しつけ検察の主張を受け入れれば済むのである。

 何故このような裁判になるのか、それは冤罪が確定しても検事も裁判官もその責任を問われないからである。故に安易な起訴や「だろう判決」を行い、「冤罪だったら大変な事になる」などと言う緊張感はまるでない。

 

 袴田さんの「再収監」を認めなかったのも、この決定への「自信の無さ」であり、横浜事件の「免訴」と同じく実質自由なのだからいいだろうと言うことである。

 

「裁判員制度を廃止し陪審裁判の制導入を」

                                                    (「週刊金曜日」論争 2019.6.14)

 

 裁判員制度が10年を迎え再検討の時期に入りアンケートなどが実施されているが、9日付朝日「死刑 多数決で決定『適切』54%」を読んで愕然とした。

 先進国で裁判に市民が参加していないのは日本やオランダだけと批判され導入した「裁判員制度」は欠陥だらけである。

 有罪・死刑が本当に多数決で決めていいのか。日本でも「免田、松山、財田川、松山」事件と、戦後4人が再審無罪で死刑台から生還している。再審請求中の「三鷹事件」の竹内景介は最高裁で弁論も開かず8対7の一票(人)差で、無期から死刑が確定し獄死ている。

 園児が2名亡くなった「甲山事件」では一回も有罪判決がない中で、検察の抗告などで無罪確定まで25年も要したのである。

 否、米陪審は陪審員だけの「全員一致」が条件で有罪、無罪だけを決めるが、それでもDNA鑑定の進歩などで100人を超える死刑囚の冤罪が確認さている。そんな中で「多数決」が裁判などと言えるのか。  

 裁判員裁判は裁判官も同席し量刑まで決めるが、言うまでもなくその知識は同じではなく、裁判員は本当に裁判官に異論・反論を主張出来るのか。裁判官に誘導説得される可能性はないのか、それがあっても守秘義務で裁判員はその内容を死ぬまで言えないのである。

 そもそも、先進国で死刑のあるのは日本と米の一部の州だけであり、韓国も実質停止状態にある。死刑を廃止した国も必ずしも世論が死刑反対が多であったからではない。人権や命を本当に多数決で決めていいのか。

 米陪審は無罪判決時点で確定し検察に上訴権はなく、「疑わしきは被告人の利益に」が守られている。しかし、日本では「同じ証拠」で無罪から有罪・死刑への逆転が許されているのである。再審開始への抗告権も否定されるべきで、検察は再審裁判の中で主張すれば済む話である。

 全員一致を条件で有罪無罪だけ判断し、無罪評決時点で確定する陪審裁判への転換が必要である。量刑・死刑を市民に判断させるの酷であり、裁判官はそれを承知で裁判官になっている。

 有罪無罪の判断は証拠から市民でも判断でき、確信がなければ無罪を選べばよく、推定で有罪や死刑を判断してはならない。日本では憲法に「自白だけでは有罪にされない」とあるにも関わらず、多くの裁判で「自白は信用できる」と有罪判決を受けている。

 裁判官は「検察官は正しい」との先入観があり、松川事件で検察はアリバイ証拠の「諏訪メモ」を最後まで隠したが、今も不利な証拠は出さない。税金で集めた証拠は被疑者、被告のものでもあり、法律で全面開示を義務づけるべきであると私は考る。

 

                                        「日本の裁判は裁判ではない」

                                                                     (「さようなら!福沢諭吉」8号 2019.12.10)

 

 本誌の趣旨と離れるかと思いますが、安川先生のお許しを戴き、私のライフワークである「冤罪問題」について少し書かせて戴きます。

 最近ですと「湖東記念病院」の看護助手の女性が人工呼吸器を外し患者を殺害したとの殺人罪で、12年の服役出所後の再審が認められました。しかし、その再審で何と、検察は「有罪立証を放棄」(19年10月)したのです。つまり、検察自ら無実を認めたのであり、それなら、なぜ逮捕、起訴したのか怒り心頭です。

 また、殺人事件の「布川事件」では無期懲役が確定し29年の拘留後に仮釈放され、第二次再審で無実が確定しました。その一人である桜井さんの国賠訴訟も勝訴(19年5月)しましたが、検察は控訴しています。何れも自白事件ですが、警察は自白強要、証拠隠蔽、証拠捏造などを今もしています。

 5人の死刑判決を含む「松川事件」(1949年)では、アリバイ証拠の「諏訪メモ」を検察が上告審まで隠していた事はあまりにも有名です。否、警・検察は事件そのものさえデッチアゲるのです。デッチアゲは昔のことではなく、公選法違反容疑の「志布志事件」(2003年)や、厚労省の村木厚子局長(当時)の「郵政不正事件」(2009年)は、事件そのものがデッチアゲだったのです。

 憲法には「自白だけでは有罪とされない」とありますが、現実は自白だけで有罪判決を受け、また殆どの冤罪が自白しています。今も「自白は証拠の王」なのです。それは代用監獄と言われる警察の留置場の密室で、長時間勾留され心理的に追い込まれ自白を

強要されるからです。日本では23日間も勾留されますが、欧米先進国では数時間から数日です。そもそも「逮捕勾留」は取調べのためではなく、逃亡や証拠隠滅を防ぐため認められ黙秘権もあるのです。

「今市女児殺害事件」(2005年)でも一審で「自白は信用できる」と無期懲役判決でした。しかし、女児の「ランドセル、服、靴」など物的証拠が何も出てこず、どうして、その自白が信用できるのでしょうか。自白に「秘密の暴露(犯人しか知らない事実)」がないのです。二審は何と検察の「殺害の日時と場所の変更」という重大な訴因変更を認め無期を追認したのです。

 また「氷見強姦事件」(2002年)で逮捕起訴されたタクシー運転手は、「アリバイ」を主張しましたが弁護士さえ信用せず和解を勧めていました。彼は絶望し控訴もせず服役出所しました。その後、他県で逮捕された真犯人の「余罪自白」で彼の無実が確認されたのです。真犯人が捕まらなかったら、余罪を自白しなかったら、彼は汚名を晴らす事はできませんでした。また、古くは「弘前大学教授夫人殺人」(1949年)では夫の再審無罪が決まりましたが、この事件では時効成立後に真犯人が名乗り出ました。こんな事件や裁判は幾らでもあるのです。

 私が冤罪に関心を持ったキッカケは「下田缶ビール事件」を知った時でした。「海の家」でAとBはバイト仲間でしたが、そのAが「海の家」を語り酒屋から付けて缶ビール50 ケースを買い、民宿に転売した詐欺事件です。

 しかし、捕まったのはB君でした。その理由はAと面会した酒屋とビールを買った民宿の双方が「B君が似ている」との目撃証言でした。その証言は警察の誘導で似ているから「間違いない」となるのです。B君は否認を通したため「反省がない」と懲役10ヶ月の実刑でした。

 B君は誰も信じられず控訴もせず服役しました。しかし、彼は諦めませんでした。B君はAが賭け事が好きなのを知っており、服役出所後に休みの都度、競馬場や競輪場などでAを探し回り、ついにAを見つけ警察に突き出し自ら無実を実証したのです。海の家でバイトをしていただけで人生が崩壊したのです。この事件を知り私は「冤罪は身近なのだ」と知ったのです。冤罪が確定しても「真犯人は?」と信じない人もいますが、この

下田缶ビール事件や氷見強姦事件などは真犯人が確認されているのです。

 ニッサンのゴーン氏が逮捕され時に、欧米先進国では警察の取調べに弁護士に立ち会う権利があり、フランスでは再審開始に検察の抗告権がないと報道されました。検察に異議があれば再審裁判の中で主張すれば済む事であり当然です。しかし、日本の検察は面子だけで抗告するのです。

 米の陪審裁判は陪審員だけの「全員一致」で有罪無罪だけを評決(量刑は裁判官)し、無罪評決時点で検察の上訴権はなく無罪が確定します。その「全員一致」の米でさえDNA鑑定の進歩で100人を越える「無実の死刑囚」が確認(09.4.23「東京新聞」、09.6.14「読売新聞」他)されているのです。

 これに対し日本の裁判は「多数決」です。冤罪である三鷹事件の竹内景助は、一審で無期、二審で死刑判決、最高裁は7対8の「1票差」で死刑を追認したのです。その後、竹内は脳腫瘍の治療も受けられず獄死したのです。

 多数決で死刑や有罪を決定していいのでしょうか。否、日本では「同じ証拠」で無罪から有罪への逆転が許されています。刑事裁判の鉄則である「疑わしきは罰せず」は守られず、米陪審ではあり得ないのです。しかも、冤罪が確定し他人の一生を台無しにしても、警・検察も裁判官も謝罪もせず処分されることもないのです。

 否、大分県の駐在所爆破の「菅生事件」(1952年)は、共産党弾圧の警察ぐるみの自作自演でした。その主犯格の巡査部長は警察大学校に匿われ、後、警察大学校の教授などを経て、警視長にまで異例の大出世をしたのです。

 日本の死刑制度や拘置所(法務省管理)の代わりに警察の留置場を使う代用監獄も国際的に批判されています。欧州は参審裁判で、米は陪審裁判で市民が裁判に参加していますが、日本では裁判への市民参加がないと批判され「裁判員裁判」を導入しましたが、形だけの導入となっています。

 最高裁は「裁判員制度」見直しの10年目を迎え、裁判員体験者の「良い体験をした」とのアンケートで自画自賛しています。しかし、「市民参加」は実質機能していません。何故なら、今や裁判員候補の呼び出しに応じない人が約7割(18年3月末)にもなり、市民から無視されています。

 現状は死刑や裁判員制度に反対しない「仲良しクラブ」で裁判しているようなものです。正当な理由がなく呼び出しに応じなければ10万円以下の科料を科す事が出来ますが、未だ一人も科料処分を受けた人は居ないとのことです。私は最高裁にその理由を聞きましたが「お答え出来ません」との事でした。科料処分をすれば社会・市民から批判され「裁判員制度」は崩壊するでしょう。

 裁判員裁判の審理には裁判官も参加しますが、裁判員と裁判官の知識には大きな差があり、裁判員が裁判官に誘導されたり、引きずられる可能性もあります。しかし、裁判員にも「守秘義務」があり、その事実を公開することも出来ず泣き寝入りすることになります。袴田事件(4人犠牲の強盗放火殺人)の熊本元判事がその典型です。

 静岡地裁の左陪席にいた熊本判事補(当時)は「無罪を主張しながら多数決で死刑判決文を書かされた」と暴露しました。これは裁判官の「守秘義務違反」であり、私は最高裁に守秘義務違反を犯した「熊本元判事はなぜ処分されないのか」と聞きましたが、これもやはり「お答え出来ません」でした。熊本さんの処分や、袴田さんの再収監は世論に耐えられないからでしょう。 

 2014年3月に静岡地裁が「袴田事件」の再審開始を認め、「これ以上、拘置を続けることは、耐え難いほど正義に反する状況にある」と、史上初めて死刑囚の袴田さんの仮釈放を認めました。しかし、東京高裁は検察の即時抗告を認め再審開始を否定した(2018年6月)のです。

 熊本元判事は自らの良心に耐えきれず裁判官を辞し、弁護士登録も抹消しました。その結果、家庭は崩壊し一時は生活保護まで体験し現在入院中です。 

 この熊本元判事は司法研修所をトップの成績で終了しましたが、こんな優秀な裁判官をこんな事にしたのは誰の責任でしょうか。裁判官は正しいという「正善説」で、その裁判官が警・検察の主張は正しいとの「先入観」で、被告の言い分を聴かないから冤罪が発生するのです。

 人間は必ず間違いを犯すのであり、「多数決」の裁判など許してはならず、取り返しが出来ない死刑は廃止すべきです。今でも警・検察が不利な証拠を隠蔽することは違法ではありません。録画録音の可視化義務も「裁判員裁判」など一部の裁判だけです。「税金で集めた証拠」は被疑者、被告のものでもあり、法的に全証拠の提出義務づけが必須です。自白と目撃証拠は主たる証拠にはならず、あくまで補完証拠です。

 取調べの弁護士立会いを認め、自白強要の場になっている代用監獄の廃止、再審開始への検察の抗告権も廃止すべきです。そして、市民だけの「全員一致」を義務づけ、無罪評決時点で確定する陪審制度に変更すべきです。

 

【2020年】

 

                                                   『 冤 罪 に 歯 止 め を 』

                                                           (2020.1.16『比企丘陵から』99号)

 滋賀県「湖東記念病院」の看護助手の女性が人工呼吸器を外し患者を殺害したとの罪で12年の服役出所後の再審裁判で、今年4月大津地裁が無実を認めた。

 この再審で、何と検察は「有罪立証を放棄」し検察自ら無実を認めだ。それならなぜ逮捕、起訴したのか怒り心頭である。

 「布川事件」では、桜井さんが29年の服役後に、第二次再審で無実が確定した。そして、国賠訴訟でも桜井さんは勝利し(19年5月)、東松山市にも講演に来てくれたが検察は控訴している。

 これらはいずれも自白により有罪とされている。被害者に有利な証拠は隠し、不利になる証拠をねつ造して、自白を強要し追い込んだのだ。5人の死刑囚を含む「松川事件」でも、被告のアリバイ証拠の「諏訪メモ」を検察が上告審まで隠していた事実はあまりにも有名である。

 証拠だけではなく事件そのものさえ平気でデッアゲる。それは昔のことではなく、最近でも公職選挙法違反容疑ので「志布志事件」(2003年)、厚労省の村木厚子局長(当時)の「郵政不正事件」(2009年)も事件そのものがデッアゲだっのだ。

 憲法には「自白だけでは有罪とされない」とあるが、現実は自白だけで有罪判決を受け、また殆どの冤罪が自白が証拠採用され、いまだに「自白が証拠の王」である。

 容疑者は本来法務省管理の拘置所に収容されなくてはならないが、代用監獄といわれる警察の密室の留置場で長時間勾留され心理的に追い込まれ、自白を強要するのである。日本では23日間勾留が可能だが、欧米先進国では数時間から数日である。逮捕拘留はもともと「逃亡や証拠隠滅」を防ぐためであり、取り調べのためではなく黙秘権もあるのだ。

 栃木県の「今市女児殺害事件」(2005年)でも「自白は信用できる」とされ無期懲役判決だった。しかし、女児の「ランドセル、服、靴」などと物的証拠は何も出てこず、自白に犯人しか知らない事実「秘密の暴露」が無いのである。しかも二審は何と検察の「殺害日時と場所の変更」という重大な訴因変更を認め、一審の無期懲役を追認したのだ。

 袴田事件では当時一審の左陪席だった熊本典道判事補(当時)が、自分は「無罪を主張したが多数決で有罪判決文を書かされた」と勇気をもって告発している。死刑囚の袴田さんは静岡地裁の村山浩昭裁判長(当時)から「これ以上、袴田に対する拘置を続けることは、耐え難いほど正義に反する状況にある」として、再審開始決定のみならず、死刑執行の停止と袴田さんの釈放を決めたのである。袴田さんは逮捕から47年7ヶ月ぶりに釈放されたが、長年の拘留で拘禁症で精神を病んでしまったが誰が責任を取るのか。しかし、東京高裁は検察の即時抗告を認め再審開始決定を取消したのである。

 何れも再審無罪が確定した「東電OL事件」のゴビンダ・マイナリさん、「足利事件」の菅谷さん、「布川事件」の桜井さんなどの冤罪被害者が中心になり「冤罪被害者の会」を立上げ、更に「再審法改正をめざす市民の会」も設立された。そのパンフを見ると「こんなに冤罪があるのか」とビックリし他人事ではない。

 なぜこんあにも冤罪が多いのか、代用監獄の廃止、取調べの弁護士立会い、証拠の全面開示の義務付け、自白と目撃証言の証拠不採用・・・等が必須である。

 

【2021年】

 

                                                     『 判 断 は 裁 判 官 に  』

                                                                     (21.11.3・東京「発言」)

「18歳で裁判員『寝耳に水』」(10月21日)を読んだ。法務省は年齢引き下げの論議をしていないことを認めたという。23歳の女性が3年前に裁判員を務め「社会経験ない自分が、人の一生を左右する裁きに加わっていいのか」と責任を痛感したという記事があるが、年齢は関係ないと思う。私のでも、その不安はある。

 裁判員裁判の問題は「量刑」まで判断させることで、命を奪う死刑の判断まで負わされるのだ。私は市民だけで全員に一致で有罪無罪だけを判断する「陪審裁判」に移行すればいいと思っている。

 有罪無罪だけなら、検察の証拠を基に判断しやすく、自信がなければ刑事裁判の鉄則通り「疑わしきは被告人の利益に」すればいい。裁判員の心の負担は軽くなる。