【裁判員制度】違憲の根拠

 

 裁判に市民か参加していない先進国は「日本だけ」などと批判され、参審制度と陪審制度をつまみ食いした「裁判員制度」を導入したが、この制度は憲法違反である。
 その根拠は憲法18条『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いてはその意に反する苦役に服させられない』とある、有罪や死刑判断を「苦役」と感じる人もいる。カトリックでは 教会法の「聖職者は国家権力の行使に当たる公務に就いてはいけない」に抵触する((09.5.15・「東京新聞」夕刊)としている。

 最高裁は「重大判決にかかわっても裁判官と裁判員、みんなの判断。あなたの責任ではありません」と気楽・無責任に言ったが、その判断・責任が如何に重大かを理解せず、裁判によっては裁判員候補者の9割もが辞退(10.11.17「東京新聞」している。そして、出頭に応じないと「過料処分」を課すことができるが、今まで1人も処分を受けていない(10.1.7「東京新聞」最高裁へ確認)。処分をすることは死刑判断などを強制することを意味し処分できないのである。つまり現状は裁判員制度や死刑制度に反対しない人たちだけの『仲良しクラブ』で裁判しているに等しく、裁判員体験者の97%が「良い体験をした」(09.11.18「読売新聞」)との最高裁のアンケートは当然の結果である。

 裁判員は「公判前整理手続き」に蚊帳の外であり、裁判官、検察官、弁護士と裁判員とは「情報の不平等」があり、また裁判官と裁判員が「平等」の訳はなく裁判官の「誘導」の可能性もあり、それでも「守秘義務」で公開や訴えることができない。故に陪審では裁判官を除き陪審員だけの「全員一致」で有罪無罪だけを判断し量刑は裁判官が判断する。裁判員には評議の内容について生涯の「守秘義務」が課せられているが、最高裁では少数意見を表明しており、これは「法の下の平等」に反し、陪審では評決後は守秘義務は解除される。これでは裁判員制度は「市民が参加している」というパフォーマンススのための単なる「お客さん」である。 

 

 私は「全員一致」で有罪無罪だけを判断し、無罪評決後の「上訴権を否定」し、証拠の「全面開示」をしてる陪審制度を導入すべきと思う。「疑わしきは被告人の利益に」は刑事事件の鉄則であり、「同じ証拠」で有罪無罪双方の解釈が可能の場合は「無罪」を採るのが人権である。99人の真犯人を逃しても1人の無辜の犠牲者を出してはならなず、「それは理想」と言う人には貴方自身や家族でもそう言えますか?と問いたい。死刑は取り返しがつかず、終身刑を導入し死刑を廃止すべきと思う。現に「免田、松山、島田、松山事件」で4人の死刑囚が再審で死刑台から生還している。「足利事件」や「布川事件」も無期でなく死刑判決だった処刑されていた可能性がある。冤罪を防ぐために取調の「全面可視化」と「証拠の全面開示」が必須急務である。