【1983年】


「点字の一票は有効のはずだ」
(83.4.18・朝日新聞「声」)


 先日の地方選挙の際、徳山で得票が同数で抽選を行い、その同数票とは点字による投票を無効としたためであった。無効の根拠は、事前に申告して押印を受けなかったからという。しかし押印は、投票用紙の有効無効を決めるものではなく、白票と間違えないようにするための、便宜上の目印にはずで、点字投票と分かれば内容が確認されるかぎり有効のはずである。投票は平仮名でも片仮名での漢字でも読み取れればよく、当然点字でもよいわけである。それを認めないないとすれば差別になる。点字は立派な文字である。
 しかし、それほど選管や自治省が突っ張るなら、それだけのアピ-ルをしてきただろうか。私はそんな放送や注意は、期間中一度も耳にも目のもしたこたがなかった。そして投票所で、選管や立会人はなぜ一言注意しなかったのか。知識がなかったのだろうか。障害者の一票や二票、どうでもよいと思っているのであろうか。
 自治省の役人は本気で考えてほしい。健常者でも50%前後の投票率なのに、小雨降るなか不自由な身で、一票を無駄にしまいと投票所まで足を運んだのである。身障者に前もって投票の方法を知らせる義務も十分に果たさず、あまりにも一方的な扱いではなかろうか。選挙でもこの有様では、心の通った福祉など程遠い気がする。 

 

【1985年】

 

「弱者いじめの在宅投票判決」(85.11.27・朝日新聞「声」)


 「在宅投票復活訴訟」で最高裁は上告を棄却する判決を言い渡した。私はこの判決に非常に不満である。最高裁は憲法に投票制度の明文規定がないと言う。その投票の方法は国会の裁量権だと言う。憲法とはそんな細かいことまで書いてあるものなのだろうか。
 そもそもこの裁判は投票制度そのものの問題ではない。在宅投票制度が廃止されたことによって、一部の人々が結果として参政権を奪われたことを問うているのであり、最高裁はその憲法判断をすべきであった。
 私は、参政権を奪うことは明らかに違憲と考える。手間暇や金がかかるなどと、合理化されては困る。これは民主主義の基本であり、合理化するところはもっとほかにある。それとも、身障者や、寝たきり病人や老人の一票など、大勢に影響なく無視すると言うのか。
 私は58年、徳山での地方選挙のことを思い出した。小雨降る中、一票を無駄にしまいと、盲人の方が投票所まで足を運び点字で投票したが、事前申告し投票用紙に押印を受けなかったと言う理由で無効になった。しかも、選管の事前のアドバイスもにままに。これが弱者へのいじめでなくて何であろう。
 
【1987年】

 

「〝水俣〟控訴は弱い者いじめ」(87.4.14・読売新聞「気流」)


 被告側が前面敗訴した水俣病第三次訴訟判決に対し、国と熊本県が控訴した。
第一次訴訟判決でさえ、もう14年。その間にも多くの人が亡くなった。国のこうそを聞き、「おれたちの死ぬのを待っているのか」との声があった。死後の判決では意味を持たない。
 国は、判決での指摘を無視し、判定基準の見直しは考えていないと言う。そればかりか、県審査会が棄却処分した申請者を全員水俣病と認めることは不本意である、と行っている。
 水俣病は、少なくても国・県・チッソに過失があった結果である。国・県はなぜ「疑わしきは救済する」との考えを持たないのか。そんな所のこそ、税金を使ってほしい。弱者救済どころか、「弱い者いじめ」となる国・県の態度に抗議したい。

 

1998年

 

「車イス傍聴者の排除に怒り」(88.12.24・朝日新聞「声」)
                              
 福岡地裁で、車イスによる傍聴が認められなかったが、私はこの差別に対し心から憤りを覚える。
 障害者にとって、車イスは体の一部である。それを認めないというなら、松葉杖も補聴器もメガネも外さなくては傍聴できないことになる。メガネと車イスのどこが違うのか。 車イスは足の代わりになって体を移動するだけのものではない。体を支え、障害の種類や程度により、座布団の厚さや形まで工夫し、体と一体になっている。こんなことはボランティア経験のある人なら常識である。ましてや普通のイスに座ることは、かなりの苦痛を強いられる。
 裁判官はこんな常識もなく、弱者理解もできないのであろうか。
 社会は、車イスタクシ-、歩道のスロ-プ、駅の改良、そして点字ブロックや盲導犬の普及と、ほんの少しずつだが、障害者が街に出やすくなるよう動き初めている。今回の出来事は、この社会の流れに逆行するもので、私は断固抗議する。

 

【1989年】

 

「身体の一部にまでも消費税」(89・5・10毎日新聞「みんなの広場」)


 私は点字の通信教育を始めて一年半たつが、一向に上達せず、毎回「お書き直し下さい」である。しかし、今日はそんなことどうでもいいのである。その点訳指導の返書の中に、点字用紙にも消費税が課税された旨の連絡が入っていたのである。
 私は常日ころ、どこの国にダイヤや毛皮と、水や食料と同じに課税するバカな国があるのかと、怒っていた。よく考えてみると、障害者の車椅子、補聴器、メガネ、義足や点字用紙にまで課税されているのである。
 政府・自民党はこれを、例外なく広く薄く課税することが平等だという。障害者にとっては、それらは身体の一部であり、何故身体の一部にまで課税するのか、私はこの悪平等を断じて許せない。
 政府は消費税は公約違反ではないという。我々は次の選挙をその可否を問う選挙にし、この弱いものいじめの消費税を廃止に追い込まなくてはならないと思う。

 

「福祉こそ理想追求するもの」(89・10・22・朝日新聞「埼玉版」)


 十四日付県版によると、草加市で心身障害者施設の統廃合でトラブルが起きているという。紙面によると、市は施設の拡充を図るため、軽、中度障害者向けの認可施設「つばさの森」を作り、新たに民間施設の建設費などの補助制度を設けたため、これまでの暫定施設「あしかび福祉作業所」を閉鎖する。その結果、重度障害者ばかり四人がはめだすはめになったという。
 市は「単に廃止を求めているのではない」と言うが、今まで「あしかび」で就労できた重度障害者が、行き場がなくなったことは、やはり結果として重度障害者の切り捨てになると思う。このような人たちこそ手を貸してあげなくてはならない。「それは理想」と市は言うかも知れないが、福祉や教育こそ理想を追求するものだと私は思う。
 市はぜひ「あしかび」にいた全員が今まで通りに就労でき、社会参加できるように配慮して欲しい。それが障害者に生きる張り合いと希望を与えるのではないかと思う。

 

「死体腎提供に謝礼不要です」(89・11・3・読売新聞「気流」)


 十月二十八日付「死体腎増加へ公的な謝礼を」との意見に私は反対です。私もアイバンクと腎臓バンクに登録してありますが、提供者は、それが他人のために役立ててもらえたなら十分なのです。
 謝礼が出るからといってドナ-が増えると考えるなら、それは安易な考えだと思います。その費用はドナ-の普及活動に充てるべきです。
 先日、腰を上げない厚生省に対し、民間有志で骨髄バンクの正式登録が始まりました。一部の白血病患者は、死を待たなくても、ドナ-さえ見つかれば助かるのです。。しかしHLA(組織適合抗原)検査費用や骨髄採取時のわずかなリスクにも、保険制度が確立されてないのです。
 ボランティアに謝礼はいりません。その費用の都合がつくなら、ぜひ、医療や障害者のために、それを有効に使おうではありませんか。献血のボ-ルペンや牛乳のサ-ビスも、やめるべきです。

 

【1990年】

 

「障害者施設に住民は理解を」(90・1・14・朝日新聞「埼玉版」)


 川越市の障害者デイケア-施設「いもの子作業所」が手狭になってきたため、終末処理場跡地に移転計画を立てたところ、予定地の周辺住民が反対の会を結成し、反対の署名運動まで始めたという。
 その理由は①車が団地内に出入りして危険②跡地は団地住民の福祉のために使うべきだから、という。
 私はたまた職場が「いもの子作業所」の近く。車は数台しかなく、騒音を出しているわけでもない。反対している人は作業所を見たことがあるのだろうか。
 彼らは人様に何の迷惑もかけずに、一生懸命社会参加しようとがんばっているのです。そのけなげな姿を知ってほしい・
 団地住民の福祉を否定はしない。しかし、福祉とはより恵まれない人々こそ優先されなくてはならないと思う。子供や孫に障害者が生まれないという保証は何もないのです。ぜひ団地のみなさん理解せてあげてください。

 

「社会奉仕活動企業も協力を」(90・4・24・読売新聞「気流」)


  17日付社説「国造りを助けた1万人の若者」を読んだ。青年海外協力隊が発足25年を迎え、派遣隊員は延べ1万人を超えるという。その内容は企業退職者が5割、休職者が2割、3割が大学の新卒者だという。
 役所を含め日本の企業は、ほとんどボランティアに非協力的で、そのための休職はまず認めない。日本ではボランティアといえば、お金も時間も自分持ちで、自己犠牲を覚悟する必要がある。協力隊に参加するのも自営、自由業や学生でなくては難しく、一般の人は会社を辞めなくては参加できない実態である。
 企業の利益は株主と労働者に配分されるとともに、できるだけ社会にも還元されるべきである。アメリカではボランティア休暇が認められているという。政治献金に出資しても、ボランティアに資金を出す企業は少ない。企業も資金や休暇など思いやりのあるボランティア参加をして欲しい。その義務があると思う。(気流「月間賞」受賞)
                                        
「脳死の選択は本人の意志で」(90・7・19・読売新聞「気流」)


 人間の死の判定に付いて「脳死、心臓死のどちらを採るかは生前の本人の意志、または家族にその選択権を与え、尚それは法的に保証されることが望ましい」とする北大倫理委の考え(10日付本紙報道)に全面的に賛成する。
 死の判定を脳死、心臓死のどちらを採るかなどということは、そもそも他人がとやかく言う筋のものではない。本人またはその家族が納得する方法でなくてはならい。ましてや第三者が脳死だから「死亡」等と押しつけてはならない。人間は機械ではない。幾ら科学的に間違いない「死」であっても、心を持った人間には割り切れない人もいる。人それぞれ宗教感も死生感も違う。脳死を他人に強制してはならず、医師といえどもそんな権利はないと思おう。そして逆に生前の本人や家族が脳死を認める考えなら、他人がとやかく言う権利もない。是非この北大倫理委の実現を願う。

 

「水俣和解勧告国は理解示せ」(90・10・9・読売新聞「気流」)


 東京地裁は「水俣病東京訴訟」に対し和解勧告を行なった。公式発見後既に34年、この間にも熊本などで裁判中に、また認定申請中に多くの人々が亡くなっていった。   
 因果関係や原因を確定することは大切であるが、裁判が長引き、その間に原告の人々の命が消えて行ったのでは何にもならない。国は裁判がいくら長くなっても困らないであろうが、弱者である原告側は、そうはいかない。     
 国から「和解勧告拒否の考えを理解するよう」圧力さえあった熊本県は、受諾を決意し、国にも受諾を迫ると言う。もう少し早かったらとも思おう。   
 しかし、何よりも彼らの救済を第一としたこの勧告を国は受け入れるべきである。もうこれ以上弱いものいじめはやめよ。

 

「善意の名のもとに寄付強制するとは」(90・12・16・朝日新聞「埼玉版」)


 先日、「歳末たすけあい運動」の募金袋が、隣組を通じて配布されてきた。袋には「寄付期待額は一所帯当たり 300円」の文字後日回収にくるのだという。 助けあうことは否定はしないが、一律に袋を配布するのは既に強制と同じ。ましてや期待金額とはいえ金額の強制につながるのではないか。
 もしこの袋を提出しなければ、あの家はしなかったとかささやかれ、封筒を渡せば触れば金額までわかってしまう。口うるさい田舎では生活がしにくくなるため、事実上強制されるのが実態だ。
 善意の名のもとに寄付を強制したり、頼ったりしてはならないと思う。

 

【1991年】

 

「民主主義への銃弾許すな」(91・3・6・毎日新聞「みんなの広場」)


 本島市長が撃たれた長崎で、右翼団体の新聞への意見公告掲載依頼に対し、新聞社側が掲載を拒否した裁判で、原告の訴えを棄却した長崎地裁と掲載を拒否した長崎新聞社に銃弾が撃ち込まれた。
 これは民主主義を暴力で否定するものであり、断固糾弾されなくてはならない。言論や表現の自由、そして裁判が暴力によって脅かされることがあってはならない。
 私は4年前の朝日新聞の小尻記者が銃弾に倒れたことを思い出す。いまだ解決していない。暴力による民主主義への挑戦を許してはならない。それには犯人逮捕が必須条件である。
 今や右翼や暴力団が銃を持って行動しているのは常識であり、銃の所持は野放し状態に近く、警察の責務は重大である。民主主義を守るため警察は全能力を投入し、市民協力を求めて犯人逮捕にまい進して欲しい。

 

「無収入の成人の年金加入任意で」(91・3・16・東京新聞「発言」)


 この4月から二十歳を超える学生などにも、国民年金加入の義務が生じる。
 これは違憲の疑いがある。なぜなら二十歳を超える子供を扶養するか、自立させるかは、その家庭の判断に任されているわけであり、法的扶養義務はないのである。
 にもかかわらず、収入のない学生の掛け金負担をなぜ親に課すのか。政府は「学生にも障害基礎年金などを支給する目的」であると言うが、それは口実であり、金集めが目的である。
 加入していなければ、当然、障害者基礎年金は支給されないが、加入には選択の自由を保障し強制加入でなく、今まで通り任意加入とすべきである。
 学生を持つ多くの家庭は住宅ロ-ンや教育費に追われ一番お金のかかる年齢で、月9000千円の負担は容易ではない。
 私は障害年金を支給されなても、本人に負担させ私は負担するつもりはない。督促するなら本人に請求すべきであり、もし国が親に負担義務があると言うならその法的根拠を示してほしい。

 

「企業も参加すべき雲仙救済」(91.6.22・東京新聞「発言」)


 雲仙にまた大火砕流が発生、水無川は消え、多くの土地は土砂に埋まり、民家は火災となり、住民は財産を失い困難な避難所生活を強いられている。
 そんな中で自衛隊は命がけで救済、復旧と情報収集に努力し、一般市民の募金やカンパも始まっている。しかし、今のところ企業が支援に乗り出した話は聞かない。
 もちろん助け合いを否定はしないが、「金余り」といわれる日本だが、われわれ労働者には一向に金は余ってぃないところか、住宅ロiンや子供の教育費に追い付かないのが実態である。
 企業は利益の一部を吐き出し、避難民や財産を失つた人たち(島原市)に食料、洗濯機、衣料、布団、建設資材など緊急に必要な生活必需品を提供すべきである。各企業は利益を得るだけではなく、社会に貢献する義務があることを自覚してほしい。大手企業がほんの少しづつ各企業の特徴を生かせぱ、きっと大きな協力ができるであろう。

 

【1992年】

 

「本人の意思『絶対』尊重を」(92.1.29・毎日新聞「みんなの広場」)


 脳死臨調は少数意見を併記しながらも「脳死は人の死」として認める答申を出した。その答申は生前の本人の意思を最大限尊重するというが、最大限ではなく「絶対」でなくてはならない。
 近親者に対し提供を迫る圧力がかからないよう第三者機関を設けるということは、逆にその心配が大いにあるということである。また一番心配なのは新鮮な臓器欲しさから救命に手加減を加えたり、または故意に脳死に導く余地さえ出てくることである。
 現に人間の「死」の定義が始まりではなく、新鮮な臓器欲しさから脳死を認めたいという発想から討議されてきた経緯がある。
 私は腎(じん)臓とアイパンク‐のドナーカードを携帯しているが、臓器移植もこのように本人の意思を確認できる人に限定すベきである。そしてすべて臓器バンクを経由して行わないと不公平やヤミが生じたり、脳死を故意に作り出す心配さえあるのである。

 

「お年寄り大事にする下町自治」(92.5.1・東京新聞「発言」)


 下町といわれる地域でも、貸家などの建て替えが進みつつある。長い間、貸家に暮らしてきた独り住まいのお年寄りが、年金暮らしで家賃の大幅なアップも困るし、だいいち独居老人いうだけで断られる話を聞き、江戸川区ではその救済に立ち上がっているという。
区役所に相談に行くと、区が不動産業者団体に本人を紹介し、貸家を見つける手助けをし、更に今までの家賃との差額や敷金などを区が援助するというものである。足腰が悪いお年寄りが足を運んでも断られる場合が多いが、区が手を貸すことにより貸家探しが楽になったという。
政治とは、地方自治とは、こうでなくてはならない。困っている人を最優先する社会、それこそが福祉国家であり、それは経済大国に優先する。税金はこんなところにこそ使われるべきで、居住権の否定は生存権の否定につながる。
人生の先輩であるお年寄りを大事にする下町の人情に、私は敬服した。多くの自治体や国は参考にしてほしい。

 

「思いやりない障害者エレベーター」(92.5.26・毎日新聞「みんなの広場」)


 都内の、ある私鉄本社がある駅のホームに、障害者用のエレベーターが設置されいるが、昼間なのにシャッターが閉まっている。そして、「このエレベーターは車いす専用でそれ以外の方はご利用できません」とあり、さらに利用時間は9時30分から15時30分とある。その表示を見て何のための施設なのであろうかとあ然とした。しかも、「ご利用の方はこのボタンを押して下さい」とあるボタンは、ホームから1.5メートルの位置にあった。
 先日、熊谷駅で車いすの障害者が一晩中障害者用エレベーターに閉じこめられた反省から、連絡用ボタンを低い位置に移したり、カギも取りやめ、また障害者以外のお年寄りなどだれでも自由に使えるよう利用方法も変更したが、この私鉄の駅はその教訓を生かしていない。
 車いす以外使用するな、時間は9時半から午後3時半までとは、ただ設置してあるだけで、弱者に対する思いやりと利用してもらおうという心遣いがまるでない。

 

「貧困行政に猛省促す」(92.7.17・読売新聞「ボラ体験特集」)


 大阪の公団住宅で家賃滞納のため、裁判所の立ち退き予告と財産差押えの強制執行日の未明に、2人のお年寄りが自ら命を絶ったいう。
 私は心から憤りとともに、5年前に1987年1月札幌で病気がちの母子家が、この飽食と言われる中で餓死した事件を思い出す。今回もその教訓は生かされなかった。
 支払い能力のある人を強制執行するならともかく、滞納にはそれなりの理由があるであろうことをなあぜ考えないのか。確かに福祉行政は、公団の仕事でも、裁判所に仕事でもないが、滞納の理由をなぜ調べないのか。なぜ福祉事務所へに斡旋、紹介などをしなかったのか。
 こんなことで市民の公僕たる公務員が務まるのか。法に照らし結論を出すだけならコンピューターの1台もあればよほど正確に判断するであろう。
 公団の家賃さえ払えないお年寄りを救えない国が何が経済大国か。政治家よ、政府よ、猛省せよ。自らの考えや価値観を国民に押しつけるののが教育や政治と思っている政府はそのおぎりを捨て、国民、市民の要望を満たすのが政治であることを自覚してほしい。

 

「私のボランティア体験=第5週特集」(92.07.30・読売新聞)


 ◆山頂に立ったあの感動/登山介助
 好きな山歩きを生かして、6年前から、車いすの障害者にお供して富士山や立山に登っている。きっかけは「富士山車いす登山のボランティア募集」の新聞記事で、「好きな山に登れて、人の役に立てるなら一石二鳥」と応募。1台の車いすを5~6人で引きながら、計10台の車いすと共に山頂に立ったときは、大いに感動した。
 活動を続けていると、働き盛りの男性がいかに少ないか、痛感させられる。企業に「ボランティア休暇」を設ける所が出てきたようだが、こうした動きがもっと広がればと願っている。

 

【1993年】

 

「弱者の意見を尊重すべきだ」(93.6.11・毎日新聞「みんなの広場」)


 5月24日の「差別表現と言えばだれでも黙ったしまう世の中こそ危惧すべきだ」との山野君の意見はもっともだ。
 彼の言うように、意見があるならキチント発言すべき論議すべきである。
 しかし、差別については、差別を受ける側が「差別表現だ」と感じたり「いや」だと言うなら、表現する側に差別意識がなくてもその異議を尊重しその表現をやめるべきだと思う。
 山の君の言うように不快感は人によって違うのも事実でも、表現する側の判断を優先すべきではない。
 発言や表現する側はそのつもりがなくても、知らぬうちに相手の心を傷つける場合もある。
 その場合、やはり私は弱者の意見を尊重して結論をだすべきだと思う。
 差別は受ける側の身にならなくては理解できない。

 

「非嫡出子差別は『違憲』は当然」(93.7.3・東京新聞「発言」)


 東京高裁は遺産相続について、[非嫡出子の権利を嫡出子の二分の-とした民法の規定は違憲である」との判決を下した。
 もともと非嫡出子は、生まれるに当たって何の関与もできず、何の責任もないのに権利を阻害されるのは明らかに違法であろ
 判決も指摘の通り、憲法14条第1項には「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と記されているのである。
 生まれるに当たって何の関与もできない人間に、生まれながらにして差別する民法900条4項は明らかに違憲である。 これは明確に認めたこの判決と共に、勇気を出してこの当たり前の裁判を起こした原告の行動をたたえたい。

 

「安易な規制は差別助長する」(93.11.9・朝日新聞「埼玉版」)


 県内のパチンコ店で「中国人入店禁止」のはり紙を出す店が増え、「人種差別では」と問題になっているという。店側は「中国人に出玉が多く、電波などを使い機械を狂わせていると思われるので」と言い、実際に不正行為が多いというが、安易に特定の人を排除することには問題がある。
 実際に不正をしたならその人が責任を負うベきであり、また犯行が特定できないからと統計上の判断だけで特定の人を拒否することば、結果として人穫差別につながることになる。
 このようなことを安易に求めることは偏見や差罰を助長することになる。

 

「脳死移植は本人の意思で」(93.12.26・東京新聞「サンデー発言」)


 臓器移植法要綱案が示されれたが、その中でドナーに対し本人の意思を尊重をうたいながらも、その獅子が意志が不明の場合は、遺族の承諾で足りるとしている。それは結果として、本人の意志を必要としないということであり、私は非常に危ぐを感じる。
 ましてや「本人の意志だけに限ると実際の移植が進まない」などという意見は到底納得できない。命を救うために臓器の提供が必要ということは理解するが、遺族の承諾でいいというのは死者にたいする冒涜である。
 私は脳死も、臓器移植も否定しないが、それはあくまで本人の文書での意思表示が在る場合に限るべきである。
 脳死を死と受け止める人がいて、心臓死を採る人がいて、そのどちらかを他人が強制することは許されず、たとえそれが不可逆的であろうと、意識がなかろうと、「死」はそれぞれの精神や心を伴う者である、第三者がその処分を自由にしていいとは思わない。
 人のの命を救うことは言うまでもなく大切であるが、人の死を意識がなければただの物・部品であるという考えは、見方によれば「生体解剖」ともいえ、人間を人と見ず物としてしか見ていないことになり、何びともそれを他人に強制する権利はない。
 人の死は尊厳なものであり死生観は人それぞれ違っていることを認めるベきであり、本人が生前に脳死を認める書面がない限り、心臓死を採るベきである。それを守ぢないと「死」に対して、そのタイミングや時間に、人が介入し非常に混乱と危険を招くことになる。
 本人の意思表示がない限り臓器移植のために人間の死を人が左右してはならない。
 脳死での臓器移植も、必ず本人の意思表示確認と家族の同意を義務付けるべきでる。

 

【1994年】

 

「骨髄バンクは信頼関係崩すな」(94.3.1・東京新聞「発言」)


 昨年秋、公的パンクの髄移植推進財団を通し行われた非血縁者のドナーから、ガイドラインを大幅に超える骨髄液を採取していたことが判明したという。
 幸いドナーの健康に問題なく事後承諾も得られているようだが、パンクはドナーの安全と信頼関係がなくては成り立たず、この信頼関係がもし崩れたなら、多くの苦労の末やっとスタートしたパンクの発展を止めることにもなりかねない。
 専門家から見れば、採取量のガイドラインは絶対的なものではないのかもしれないが、それを超える採取の可能性がある場合には、必ず事前の承諾を求めるべきである。バンクを発展させるためにも今後は、このような信頼関係を損なう行為は厳に慎むべきであろる。

 

「黄色いハンカチ運動を広めたい」(94.05.07・読売新聞「気流」)


 福島の障害者が「黄色いハンカチ」運動を広めたいと歌を作ったという。私もこの運動をぜひ普及させたいと思う。
 日本では長い間、障害者を区別して教育してきたため、大人を含め障害者とどう接していいか分からず、声をかけるのにも非常に勇気がいる。障害者も知らない人に声をかけるのは勇気がいるはず。そんな時ぜひ「黄色いハンカチ」をかざしてほしいのだ。知らん顔をする人はいないのではないだろうか。
 急用に限らず、電車やバスに乗りたい時や階段を上りたい時など、いつでもハンカチを掲げて欲しい。それが障害者とのコミュニケーションをはかり、理解を深めることにもつながるのだから。


「臓器移植法に反対する」(94.5.15・「組合新聞」)


 臓器移植法案が今国会に上程された。
 私は脳死にも臓器移植にも賛成だが、この法案には断固反対する。
 何故ならこの法案はドナー本人の意思確認ができなくても家族の「忖度]での了解で足りるとしているからである。
 人間の死生観はそれぞれ違い他人に脳死を強制する権利は誰にもない。それを認めるなら、心臓死で提供するアイパンクや腎臓パンクのドナーカードは何のため存在したのか。それは医師とドナーの信頼関係を保つためである。
 日本救急医学会理事会は「脳死を確認した段階で死亡を宣告する」(4月2日付「東京」)という指針をまとめたが、法案が通れば医師は脳死状態の家族に一方的に臓器提出の機会(方法)の説明を許されるが、要望や申し出がない家族に一方的に話を持ち出すこと自体説得であり、ドナーに提供の意志があれば事前に臓器パンクなどに登録しておくことが可能であり、脳死や臓器移植の説得、強制は断じて行ってはならない。
 人間の死をただ科学的に判断する価値観は、脳死状態の人間を部品として扱い臓器の需要があればその時で人工心肺装置が外され、また需要が先なら保存(生かされる)される」ことになり、心臓をいつ止めるかは人間が左右することになる。
 もちろんドナー登録者はそれを了解しているわけだが、本人が臓器パンク登録や脳死を認める文書がない限りそれを強要してはならないと思う。
 先日、東京都立病産院倫理委員会は救命や治療に宗教上の理由で輸血を拒否する患者には、「本人の価値観を尊重し輸血を行わない」で治療する方針を答申した(4月13日付「朝日」)が、そのくらい人間の'死」の尊厳は重く、そして尊重されなくてはならないのである。
 そもそもこの法案は人間の死が云々ではなく、臓器需要から死の認定を早めようというのが目的であり、ドナーカードを義務付ければ臓器が足りなくなるという本音がある。
 他人の死を期待しなくては不可能な脳死臓器移植はあくまで、ドナーの善意によって支えられなくてはならず、それを強制するようなドナーカード義務付けは最低の条件であり、それが実現すれば医師による説得や強要という心配もなくなる。
 また近い将来数千万円もの治療費が自己負担になり、結果としてその治療費の都合がつく人だけに臓器が提供されるという事態が発生し、結局金で命が左右される結果となる矛盾も感じる。


「ボランティアは見返り求めずに」(94.5.18・東京新聞「発言」)


 4月30日付「「ボランティア切符の導入」に反対である。
 ボランティアは大賛成であり、教育の場でも体験することが貴重]だと思うが、それを評価の対象にしたり、将来のための見返りを求めることには賛成できない。なぜなら、まずボランティアをしたくても自分自身がそれを必要としたり、また家族に障害者を抱えその世話で精いっぱいの人は
どうするのか? その人たちはボランティア切符がなから仕方ないというのだろうか。
 ボランティアとは-部の犠牲のうえになりたつのではなく、出来る人が出来る範囲で無理せず、そして一人でも多くの人がその時点でできることをするのがが大事であり、それが当然のことなのである。
 ボランティアに評価や見返りを求めるなら、気持ちや心が伴わないボランティアも現れ、それはボランティアを受ける人や本気や、ボランティアをしている人にも迷或{であり、単に労働力を提供すればいいというものではないと私は思う。

 

「医療は信頼関係の確立から」(94.11.22・毎日新聞「みんなの広場」)


 16日夜、TBS系で放映されたオランダの「安楽死」ドキュメントは、いま脳死問題を抱える日本で、一人でも多くの人が死や人間の尊厳を考えるいいチャンスだった。
 番組を見て私が一番感じたのは、安楽死の是非より、医師と患者との信頼関係が確立していることで、だからこそ、安楽死が受け入れられるということである。
 日本では、信頼関係が確立した家庭医を持つ家庭はまれであり、信頼関係がないゆえに、患者はいきなり大病院に行き一日待って三分診療といわれる医療を受ける。
 大病院では往診どころか、医師は患者の顔も名前も看護婦や受付任せが多い。
 開業医や街の病院は、医は算術ではなく、もっと地域住民との信頼関係を築くよう努力すべきである。それには、常に勉強を怠らず、メンツを気にせず他の医療機関や保健所、福祉事務所などとの関係を密にし、患者を自分だけで抱えず、地域全体で医療を行う姿勢で臨むことである。


「ボランティア――読者の投書から」(94.11.25・毎日「家庭欄」)
 8年前に車いすの人や障害者とボランティアで富士山頂に立った感動は今も忘れない。当時百人の大所帯で、私は初めて脳性まひと脊髄(せきずい)まひの違いを知った。毎月例会を開き、山やハイキングに出掛けている。
 今はもうボランティアではなく、ただ山好きの仲間の中に障害者もいるという自然の感じだ。ずいぶん勉強になり、私は街で障害者に出会っても気軽に「手をお貸ししましょうか?」と声を掛けられる。
 会で出会ったボランティア同士や障害者同士、そして障害者と健常者などが結婚までこぎつけ、喜ばせてくれる。その「野菊の会」の会長自身もボランティアの女性と結ばれ、今は三児の父である。
 山や自然の好きなこの仲間の中にいつまでも私をおいてほしいと思っている。

 

【1995年】

 

「助け合いに心傾けない経験者」(95.1.28・「組合新聞」)


 今回の兵庫県南部地震で犠牲者5000人を超え、5万個が損壊し、30万人が避難所生活を強いられ,また同様に鉄道を未曾有の被害を出した。
 この災害に、個人でのカンパも大事だが、わが労組も20日からカンパに立ち上がったことをは嬉しさと誇りに思う。私は念のため東武鉄道本社広報担当窓口にの「社員だとあ」と電話(1/20,16時)し、会社が何らかの援助活動を起こしているかと聞いたら「特にしていない」とのこと。
 今後の支援予定はあるのか聞けば「今のところない」。更に「組合でもカンパ活動を始めたであろう」と言えばは、「本社支部ではそのようなことはしてない」と開き直りとも取れる返事に腹が立った。
 助け合いやボランティアそれぞれの価値観で、自発的によるものであり私は労組でやっているんだから会社もやれとは言っているわけではない。
 多くの企業が食料や義援金など次々と手を差し伸べ、国内ところが米国の毛布、スイスから救助犬、そして、子供達まで小遣いをカンパし、知らぬ者同士が助け合いパソコン通信も無料開放で死亡者名簿掲載から交通情報、尋ね人、義援金の受付と大活躍した。
 そんな中で、自分で勤める大企業の経営者が見返りを狙った政治献金をしても、助け合いに心を動かされないことに腹が立った。それは金額の大小や貢献度の問題ではなく、平然と「何もしていない」と言うからだ。
 自治体の協力もちろん、運輸業者は無料で飛行機やトラック出し、食品会社も無料で緊急送付、電子工業から小型ラジオの配布と避難所のテレビ設置。す ガス会社はカセットコンロとボンベの支給、新聞の無料配達など各企業や団体・組織が協力。ボランティアの登録も5000人を超え、街の食堂は無料でラーメンやたこ焼き食べさせた。
 そして遠くや現地で協力できない企業や人たちは、義援金利協力、芸能人の子供さえも協力した。
 これを書いている今もテレビは、フランス、アメリカからの災害 救助隊や韓国から26トンの水の到着を伝え、アメリカや資産を中止して日本向けにす縫っている企業も。
 そして、すあの時「す杉原ビザ」で命を救われたニューヨーク在住のユダヤ人が、杉原(千畝)への恩返しと「神戸救済資金」を設置した。
 その上、みん徹夜で救命・救助、そして復旧作業に頑張ってくれている。
 それなのに、この企業の経営者は一体何考えているのだろうか。助け合いやボランティアの大切さ(緊急位置だけではない)を理解していない。こんな時だけでも、企業、団体、個人ができる範囲で協力することが大切であるが、ボランティア休暇もない会社の経営者に、その理解が無理かもしれない。
 私はカンパ始めた労組員であったことを誇りに思うが、子供に「お父さんの会社も何かしたの?」聞かれて肩身が狭く、社員としても誇りを持ちたかった。

 

「過去乗り超えた韓国援助に感謝」(95.2.2・東京新聞「発言」)


 阪神大震災です韓国からいち早く飲料水21トンの援助を届けられた。何と、す政府の救援1番機が成田から関西空港に到着する前日だった。私は韓国・朝鮮人がいちばん嫌いな国が「日本」にあることを知っている。その韓国から韓国からの援助に私は胸が一杯になった。韓国でも今回の地震が大きく伝えられ「秩序正しい」と日本向け援助募金も行われているという。かつてあんなに差別され、虐げられ、一番嫌いな日本人にいち早く援助、本当に頭が下がります。韓国の皆さん本当に有難う御座います。

 

「押し付けでは信頼関係壊す」(95.2.25・東京新聞「発言」)


 年配者の「学生は被災地でボランティアを」に反論した16日付「学生ボランティアは必要か」の意見を全面的に支持する。
 ボランティアは他人の価値判断ではなく、自分自身の価値と判断で行動を起こすものであり、他人がとやかく言うものではない。まして、それを評価する考えは危険であり、特に受け入れる人や、共にやる人に迷惑をかける場合さえあり、その信頼関係を壊すことにもなりかねない。
 ボランティアのにも、こんな非常時だけではなく、普段の生活の中でいくらでもでき、電車で席を譲るのも、道や公園の空き缶をごみ箱の入れのもそうであり、心がけ次第で、この大震災で神戸に行った(私も一週間ボランティア参加)人だけ偉いわけではない。
 ましてや「若い人や学生はボランティアをすべきだ」と決めつけるのは間違っている。
 やる気されれば、年寄りだって、障害者だってできる。自分で出来る範囲内のことを、日常の生活の中で手を貸すがことを心がけることである。

 

「懸念していた被災老人自殺」(95.3.3・東京新聞「発言」)


 心配していた一人暮らしの被災老人の自殺がついに発生した。この老人は入院中に被災し他の病院へ転送を経て、老人ホームに入所していたという。老人ホームにも入れず、まだ体育館や役所の床で暮らしている多くの老人が入るであろう。現に、風邪をこじらせて肺炎などで次々に亡くなっている(災害死ではないとして「見舞金」は出ないとう)。障害者やお年寄りの弱者を至急ほごしなくてはならない。年金頼りその月やっと暮らしてきた老人たちは、もう再起する力はなく、これまで働いてきた老人たちに「もど、どうせ死ぬんだ」などと思わせせてはならず、この責任は我々にある。

 

「小川教会との出会い」(95.3.12・小川キリスト教会「50周年誌」)


 「小川キリスト教会創立50周年」お目出度う御座います。
 私がこの教会に立ち寄るようになったのは3年ほど前です。と言っても私はクリスチャンではありません。そのきっかけはたった1枚の手作りの「手話サークル募集」のポスターでした。
 「毎週木曜日、 7時半から9時まで」、これなら無理なく行けると思い教会を訪れました。 「手話を習おう」という程の大それた意気込みではなく、「時間を有効に使いたい」という程度の気持ちでした。現在も半分は話に言っているようで教えて下さる村田さんには申し訳ない思いがしますが、聾唖の前田さんなど多くのクリスチャンの方たちと出合い、知らなかった多くのことを学び私の視野を広げたこの出合いに感謝しております。
 私の思想に大きな影響を与えたのは子供の頃に知った宮澤賢治の生き方でした。そして、貧しい農民のため権力と闘い谷中村滅亡を自ら体験した田中正造、そして正造の研究者で教育者でもあった林竹二などでした。正造はクリスチャンではありませんでしたが、彼が最期まで手にしていた頭陀袋には聖書が入っていました。
 私はクリスチャンではなくても多くの尊敬するクリスチャンを知っています。内村鑑三の影響を受け山形の山中で日本一小さい高校「基督教独立学園」でl00歳まで教鞭を執ったうめ子先生、命をかけて天皇の戦争責任を発言した本島長崎市長、あの普段着のサリーと草履姿でノーベル平和賞を受け「POOR IS BEAUTIFUL」と言ったマザー・テレサ、そして日本人のために募金活動をし清里に「清泉寮」や「聖路加国際病院」を建設やし、エリザべス・サンダース・ホームにも手を差しのベたポール・ラッシュ、そのエリザべス・サンダース・ホームの沢田美喜、……私はこんな人たちに本当に頭が下がります。
 世界各地に争いが絶えませんが、その原因の多くは貧しさからだと思います。そして、その貧しさは貧しいが故に生きるのが精いっぱいで、「教育」を受けられないからだと思います。遠回りでも教育が貧しさと争いを無くす方法だと思います。
 今後も小川キリスト教会とその皆様が民の心の渇きを潤し、争いのない社会に貢献なされることを期待します。そして貴教会が益々栄えることをお祈りいたします。
 私ももう少し手話サークルでお世話になりたいと思います。

 

「人権意識欠く行政」(95.05.24・読売新聞「気流」)


 熊本県から水俣病に認定されず行政不服審査を請求していた七十九歳の男性について、環境庁は県の処分取り消しを決定した。男性は申請以来二十二年ぶりに水俣病に認定されるというが余りにも長過ぎ、行政の責任は重い。
 遅れた理由は、審査に対する県の弁明書が九三年まで提出されなかったからだという。国はなぜ指導しなかったのか。二十二年前と言えば男性が五十七歳の時。人権意識の薄い行政に猛省を促したい。

 

「同じ親の子、差別許されない」(95.07.13・毎日新聞「みんなの広場」)


 五日付で最高裁大法廷が、非嫡出子の遺産相続を嫡出子の二分の一とした民法を「合憲」とした判断は納得しかねる。
 法律婚を守るために嫡出子の立場を尊重しながらも、非嫡出子の保護もしているという。「本来権利のない非嫡出子にも権利を認めてやっているんだ」ということだが、同じ親の子でありながら生まれた状況による差別を、憲法は認めていない。
 憲法一四条は法の下の平等を保障し、親同士は差別や偏見を覚悟でも、子は自らの意思で生まれたのではなく、責任もないにもかかわらず差別されることは許されない。
 夫婦別姓の考えも出始め、民法改正も進みつつある今、時代に逆行する判決であり、差別に「合理的理由」は存在しない。
 七日本紙社説も指摘のように、国連人権規約委員会からも「人権規約に反する」と勧告されている。日本の人権意識がいかに遅れているかを知るべきである。

 

「弱い者いじめ許してはならぬ」(95.10.24・毎日新聞「みんなの広場」)


 大阪の道頓堀でホームレスの男性が、若い男たちに橋から投げ込まれ、死亡したという。以前、横浜で少年らの虐待でホームレスの男性が殺された事件を思い出した。
 いろいろな事情から路上で生活している彼らがいったい何をしたというのか。彼らだって好きでホームレスをしているわけではなく、社会の犠牲者であり、決して彼らだけの責任ではない。弱い人や貧しい人たちを理解できず、おもちゃ代わりにもてあそぶ若い人たちを許すことができるのだろうか。そんな社会は間違っている。
 地位、名誉、金、学歴、成績、そんなものだけを追いかけているうち、大切なものが見えなくなってきたのだ。それらを得られなかった者は価値がないと排除され、人として大切なものが目が開いていても見えないのである。
 弱い人たちに援助の手を差し伸べるどころか虐待するとは……。容疑者は逮捕されたというが、この殺人を許してはならない。

 

【1996年】

 

「福祉制度利用遠慮は無用」(96.2.5・朝日新聞「埼玉版」)


 秩父市の母子家庭で65歳の母親が、脳性麻痺の36歳の息子を入浴させている時に急性心不全になり、二人とも遺体で見つかったという記事を読み、むなしさでいっぱいになった。
 母親は自分で介護したかったのか、市の介護補助制度を希望していなかったというが、そこには遠慮がなかっただろうか。今までの日本の社会では障害者や高齢者は、自分で見るべきだという意識が強く、税金を使ったり預けたりすることには遠慮する傾向が強かった。
 遠慮する必要は無い。弱者は社会全体で見るという意識が必要だ。誰もが年を取り、いつ自分自身や家族が事故や高齢で障害を持つようになるか分からない。決して他人事ではないことを肝に銘じて関心を持つべきだ。

 

「職員の国籍条項必要ない」(96.3.12・東京新聞「発言」)


 7日付「TOKYO」によれば、東京都に保健婦として勤務している在日韓国人2世に国籍を理由に管理職試験の受験を拒否され、95年にはそれまでの明文化されていなかった国籍条項を新設し拒否されたが、主任昇格後3年の受験資格の最後の今年再受験を目指す姿勢を支持したい。
 都はただ「公権力の行使に携わる者が国籍を有するのは当然のこと」と説得できる不都合を具体的に説明していない。
 国の外交や防衛などの公権力行使ち違い、地方自治体はその地域の行政事務を司るのであり、国籍の違いは何ら問題なかろう。
 橋本高知県知事が、県職員の採用から国籍条項撤廃を打ち出し、国や異議を訴えたが、国は地方自治体にそのような口をはさむ権利はなく、地方の事は地方が決めればよく、中央集権政治は民主主義に反する。

 

「人権に優先させるな」(96.4.24・東京新聞「発言スペシャル」)


 「国民総瀬名番号制」の利点は唯一の行政事務の効率化だけであり、それは決して人権やプライバシーに優先させてはならない。
 その記録目的が住所、氏名、生年月日だけがないことは明白であり、所得管理や徴税と¥どころが、各役所が同一背番号を使うことにより、個人番号が分かれば学歴、成績、病歴、犯罪歴、勤務先や所得などすべて裸にされ、国や自治体はそれを利用し自由に国民を管理することが可能になるので。
 教育委や学校、警察や裁判所、企業や病院などがそれぞれ別の番号使うなら、この制度は必要なく、すべての役所や企業などがこの番号使うのは明白である。
 政府は情報が漏れないようにする、と言うが、その保証はなく既に漏れているのであり、名簿業者の存在さえ問題になっている。
 情報公開方さえない現状では、国や自治体などがどんあ個人情報を収集しているか分からず、信仰や思想心情さえ記録されかねず、その内容の確認、訂正、削除の権利さえなく、事務効率化はプライバシーや人権に優先せず、断じて認められない。」

 

「ドナーカード早急に義務化し、臓器移植制度のスタートを」(96.8.2・東京新聞「ミラー」)


 7月23日付「核心」に臓器移植法案の推進・慎重両派の意見が載ったが私見を述べたい。
 まず、どうしてこのような論議が起きているのかということである。それは人間の死の定義の問題ではなく、臓器の需要を満たすため人間の死を心臓死ではなく、脳死を「死」と認めさせ「死の認定を早めよう」ということから脳死議論が発生しているのである。
 私は人の命を救う臓器移植法に反対しないが、そのために、本人の意思確認が絶対条件であり、それなくして脳死による臓器提供には断固反対であり、ドナーカードを義務付けない限り賛成できない。
 自分が生きるために本人の意思確認なしに他人の脳死を「死」と断定することはエゴではあり許されない。荒波嘉男氏は意思確認システムが整っていないというが、心臓死の後に取り出す腎臓やアイバンクでさえドナーカードは常識であり、脳死段階での臓器摘出にドナーカードも義務付けないことは納得できない。
 ドナーカード義務付けに消極的なのは、記事に「この条件では臓器提供者が足りない」とあるように、本音は「これでは臓器が足りない」ということである。しかし、だからといって本人の意思に関係なく家族の損得で足りるとすることは到底許されない。
 確かに「脳死臨調」で脳死を人の死という結論を出したが、それが他人にその価値観を強要してもいいということではなく、本人意志未確認の場合は、心臓死会をとらなくてはならず、単に医師や科学者が、物理的可逆性を否定して済む問題ではない。
 臓器移植を希望する人たちがいる一方で、輸血さえ拒否する人たちもいて、その意志が尊重されつつあり、人の死に選択は本人の価値観が尊重されなくてはならず、臓器が欲しいからと本人の意思に関係なく脳死を「死」としたり、臓器提供を強要することがあってはならない。脳死家族が、聞きもしないのに臓器提供の方法もある」、などと伝えることが既に取得なのである。
 ドナーカード義務付けないなら必ず説得が行われ、既に移植センターを通さずヤミ移植の事実があり、コーディネーターの公的資格さえ未整備であり、この先もヤミ移植は考えられそのために患者の治療放棄さえ考えられ、ドナーカードを義務付ければ説得の存在はあり得ない。臓器提供が足りなくてもドナーカードを義務づけ、とにかく早急に臓器移植制度スタートさせて一人でも二人で、命を救うべきであり、その中から理解、意識の向上を目指すべきであり、「それでは足りないから」とこれ以上引き延ばすべきではない。

 

「仮設住宅の孤独死防げ」(96.9.28・東京新聞「発言」)


 神戸の仮説住宅で、お年寄りが亡くなっているのが20日後に発見された。既に孤独死は100人にも達しているという。人数の問題ではなく、一人でもこんあんことがあってはならない。これまで、神戸市や兵庫県は何をしていたのだろうか。
 子供たちと違い、お年寄りはそれまでのさん生活環境から離れて新しい人間関係や環境にが馴染むのが苦手で、時間がかかるのである。それまで家庭や社会のために一生懸命働いてき末にこの様な結末で言い訳はない。
 携帯型やペンダント型でボタンを押すだけで近所の協力者や消防などに連絡を取れる「緊急連絡装置」が既に実用化している市町村もあるようだが、財政規模の大きな神戸市が200人や300人の病弱でのお年寄りにこの装置を貸与(設置)できないわけはなかろう。

 

「自分の意志と価値観が大事」(96.2.5・東京新聞「発言スペシャル」)


 私も、突発的に神戸に行ったり、ふだんも幾つか継続的に自分の出来る範囲でボランティアに励んでいるが、ボランティアはなにより自主的に無理せず、可能な範囲で普段の生活の中で生かすことが大事だと思う。
 無理をすれば続かず、また人によっては考えも価値観も条件の違い、どこまでできるかの点も当然異なり、他人と比較するのはナンセンスであり、自分で価値判断を考えて行動することでである。、
 そして、一部の人が大きな負担するよりも、小さな事でもいいからより多くの人が参加することが大事だと思う。集まれば、小さな力は大きな力になる。
 私らしく数10年分あるのボランティアサークルで、車いすなどの障害者、富士登山の頂上にも立ったが、それも皆が力を合わせたからできたのである。

 

【1997年】

 

「臓器移植仲介者を国家資格に」(97.7.29・東京新聞「発言」)


 10月からいよいよ臓器移植ネットワークがスタートするが、その中心的な仕事担う肝心なコーディネーターの国家資格制度が確立されていないのは厚生省の怠慢である。
 現在、日本特有の通達で、一定の勉強や体験した者を「コーディネーター」称しているが、これを公式の資格でも国家資格でもない。臓器の適正平等配布に一番大事なの責任を担うコーディネーターの国家資格を支給検討すべきである。
 米国などでは「コーディネーター」の資格が確立され、臓器の配分や振り分けには医師から独立優先して決定権限握っているという。日本では相変わらず医師の権限が強く、配分にも医師の権限が入りかねなのである。
 医師同士は病院間の直接やりとりを禁止するとともに、医師から完全に独立し平等に配布するためにコーディネーターの国家資格(試験)を至急導入すべきである。

 

「赤ちゃんの強制収容は許されない」(97.12.5・「週刊金曜日」)


 3回にわたる東京新聞の報道(5月、8月、11月)によれば、「不法滞在で強制収容中の母親から生まれた子は不法滞在だ」と、1歳5ヶ月になる赤ちゃんが生まれたときから、今も茨城県牛久市の東日本入国管理センターに強制収容されている。
 いかなる理由があろうとも、赤ちゃんが「強制収容」されて言い訳はあるまい。一般事件でも、親の犯罪責任を子が問われることなく、生まれる場所も親も選べない赤ちゃんが、なに故不「法滞在」で強制収容されなくてはならないのか。
 これは明らかに重大な人権問題であり、赤ちゃんは1歳になれば歩き出し、2歳になれば話し出すのは周りの環境から自然に学ぶのである。しかし、この赤ちゃんはすでに無表情だという。強制収容された限られた人や物しか目に入らず、今後の精神的発達に重大な影響を超すことは容易に想像がつく。人はそれぞれの年齢で取得するものがあり、それはいつ与えても取得できるものではなく、これが人権問題でなくて何であろうか。アムネスティも関心を寄せているのは当然のことであり、全国紙が問題視しないのもおかしい。
 証拠隠滅や逃亡のおしれもなく、何の責任もない赤ちゃんの「強制収容」に抗議するとともに、一刻も早く赤ちゃんの釈放を求める。

 

「差別だった小錦の横綱阻止」(97.12.12・「週刊金曜日」)


 小錦が引退した。小錦は外国人として初めての大関だったが、角界のしきたりや日本の習慣にも負けず頑張り、辛いこともあっただろうに笑顔が素敵で、子どもたちにも人気があった。
 成績も上がり横綱候補になったが、当時の横綱審議会は好成績を認めながら、「横綱には抜群の力量とともに品格が必要だ」と横綱推薦を見合わせた。当時、その結果に批判があり、私も小錦のどこに「品格」の問題があるのか理解しかねた。の小錦はその後も頑張ったものの、結果は芳しくなく今日を迎えた。
 だがその一方で、神聖の場だからと大臣といえども女性に乗せなかった土俵に、負けた悔しさを自制できず蹴ったり唾を吐いた横綱がうることを考えれば、小錦の品格に問題はなく、横綱推薦見合わせた民族差別だったのであり、曙の横綱昇進はその再度の批判をかわすためだったのでは?と推測できる。
 体重が重いのは有利であるが、限界を超えもう身体がボロボロだという。あの体重を支えるだけでも足の負担が大変なことは容易に想像がつく。
 最後に子どもやファンを大事にいつも笑顔を見せてくれた小錦関、本当にありがとう。

 

【1998年】

 

「赤ちゃん強制収、仮放免実現」(98.3.13・「市民じゃ~なる」)


 既に『東京新聞』やTBS「ニュースの森」でご承知の方も多いかと思いますが、裁判中にビザ切れで強制収容されている女性から生まれた子は「不法滞在」だと、生まれた1歳7ヶ月になるまで「強制収容」されていた赤しゃんが、突然1月16日正午に母と祖母と一緒に仮放免されました。
 如何なる理由があろうとも、赤ちゃんが強制収容されて言い訳はなく、強制収容は「証拠隠滅や逃亡を防ぐため」に認められているのであり、裁判中に逃亡することや、赤ちゃんが逃亡する訳はなく、世界中に赤ちゃんの「強制収容」の例があったら私が知りたい。
 この赤ちゃんは祖母とともに畳に上の閉鎖された入館の中で、長い間、同じ人や物しか耳目に入らずすでに表情が乏しく、面会でケーキを見せても(食物は差し入れ禁止された)表情で、景気など見たことも食べたこともなく、カレーライス与えたり、この返事までさせられた。無表情で見たことも食べたこともなく、カレーライスを与えられたり点呼の返事までまでさせられた。「普通ならケーキなど食べたい年頃」と涙していた伯母さんの姿を見て私胸がいっぱいになりました。
 この事件は昨年『東京新聞』が、5,8,11月に大きく報道し。年末の12月16日にはTBSの「ニュースの森」でも、11分の特集を組み報道されました。
 私のこの事実を知り法務省や拘禁してる牛久市の東日本入国管理センターなどに抗議の電話入れ、パソコン通信の掲示板にも載せたり、三大全国紙に取材するよう要請しましたが、『東京新聞』に先を越されてめんそのためか、これらは無視されました。
 「ひと」は1歳になると歩き出し、2歳になれば話しの出すのであり、1年半以上の拘禁は赤ちゃんの知的、精神的、身体的発達に重大な影響を与えこれが人道問題でなくて何だろうか!「人権」を守るべき法務省はこのような人権無視をしていたのです。
 私怒りがこみ上げて1月11日1人銀座でサンドイッチマン姿で、11時から4時までビラを私ながら訴え、これを『東京新聞』が16日付で報道してくれ、取材記者からも「恥ずかしかないのですか?」とも聞かれたが、私は1人でも多くの人たちにこの事実を知ってほしいと訴え、偶然にもその記事が載った16日の正午に仮放免が実現しました。
 しかし『東京新聞¥』やTBSがこの事実を報道しなかったら、この拘禁はまだ続いた違いなく、この2社の人道報道重視なくして、仮放免実現は困難だったでしょう。
 この事実を誰も知らなければ批判をおきませんが、この事実を知れば明らかに正義に反することは誰でもわかり、多くの人たちが知ることににより、国は「批判」に耐えられなくなり釈放したのです。、その証拠に今回の「仮釈放申請」は5回であり、今まで4回も申請を却下し続けてきたのです。
 この事件を支援している弁護士も手弁当のボランティアであり、多くの人の善意が仮釈放を実現させたと思います。この家族は今も裁判継続中ですが、自由の身で受ける権利と拘禁の身で受けるのとでは、その条件は雲泥の差があります。
 経済大国と言われるこの国で、人権や福祉が三流であること情けなく、人権、福祉大国になってこそ初めて世界に誇れる国なのです。

 

【1999年】

 

「容疑者の人権も外国並みに」(99.06.15・毎日新聞「アクションライン」)
 政府は「外国でも認められている」というが、英国では容疑者には逮捕段階からすべて公費で弁護士がつき、弁護士には取り調べに立ち会う権利がある。盗聴のみ「外国並み」ではなく、容疑者の人権を外国並みにしてから検討すべきだ。

 

「地域社会で生活する外国人、地方参政権の日程は行き過ぎ」(99.7.16・東京新聞「ミラー」)


 先日、掲載された「外国人参政権に異議あり」の意見に反論する。
 国籍の無い外国人に、国政レベルの参政権を与えることに反対だが、現に住民としてその地域社会の中で生活してる外国人に地方政権を与えることは問題ないと考える。
 この国際化の時代に地域社会のなかで共に学び、働き、努力すべきときに、外国人であるとの理由で村八分のように排除するような姿勢は時代遅れである。
 筆者は「外国籍である以上は母国によって保護されうるし、母国に対して責任を持っています」というが、社会生活の中では外国人であると日本の法律によって保護され、罪を犯されれば罰せられるであり、一般社会生活のなかで外国人を特別扱いする必要はない。
 また、「利害が対立する可能性のある団体の双方に責任を持つ方ができない」というが、対立するか否かは国家権力の問題であり、地方政権まで否定するのは行き過ぎである。
 地方の時代とか、地方分権といわれるが、それは「その地域のことはその住民たちが決める」ことである。外国人であろうが地域住民であることに変わりはない。
 の・地方自治や教育の独立がどの程度かは、民主主義を測るバロメーターである。国がやることは原則的に外交と防衛であり、その他は本来、自治体の仕事である。それは、国籍、国籍に関係なく、地域住民とその代表が判断して行動することである。
 そもそも、国や国境などというものは、権力者が権力の及ぶ範囲の確定・防衛線、出来れば拡大を目指す線引きである。国民という前に地球市民であり、同じ地域に住んでいる人達は、国籍も宗教も超えて仲良く助け合っていくべきである。
 最後に「永住権を持つ在日外国人は韓国朝鮮人のみでない」というが、他の在日外国人の歴史の違いを再認識してほしい。日本は韓国・朝鮮人にいかなる歴史を敷いてきたのか?
 この負遺産は我々が背負っていかなければならないんである。

 

【2000年】

 

「福祉は『申請待ち』でいいのか」(00.04.14・毎日新聞「みんなの広場」)


 神奈川県藤沢市で71歳の夫婦が自宅で亡くなっていた。奥さまは2、3年前から寝たきりで、ご主人が看病していたが、市の高齢福祉課は寝たきりであることを把握せず、介護保険の申請もされていなかったという。
 私たちは、何のために税金を払い、公務員は誰(だれ)のため、何のために働いているのか。この国では、年金はもとより福祉も、自らが能動的に申請などの行動を起こさなくては、行政からは心配してくれない。「言ってくれば面倒みてやる」というお役所仕事は間違っている。
 特に高齢者や障害者には目を配り、養護や介護を必要とする人たちがいないか、網をはる必要がある。昔の人は行政の世話になるのを「恥ずかしいとか、いけないこと」と考える人もおり、申請がなかったから、では済まされない。
 これは行政の責任であり、民生委員などが形がい化、機能していない証拠で、「受け身だけの福祉行政」の在り方の全面的見直しを求める。

 

【2001年】


「福祉関係者は教訓を生かして」
(01.1.26・毎日新聞「みんなの広場」)


地下鉄サリン事件の被害者で生活保護を受けている女性に対して、厚生労働省はオウム真理教(アレフと改称)からの損害賠償金を収入認定しないことを決めた。「よかった」と思ったと同時に胸が痛み、怒りがわいてきた。
この女性は事件で視力が落ち、さらに、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の後遺症から手足も不自由になって会社も辞めた。
 裁判で受け取った賠償金が所得と認定されて生活保護費の返却を求められ、その異議申し立てに3年半もかかったという。体の不自由な彼女がどんなにか大変な思いをして訴え続けたかと思うと気の毒でならない。
 株でもうけた金でも、働いて得た金でもなく、健康な体の代償で得た、たった300万円の賠償金である。「金などいらない、健康な体を返して」と叫びたいだろう。自分や家族が障害者にならなくては気が付かない人間が福祉行政に就く資格はない。福祉関係者はこの事を戒め、教訓として生かしてほしい。

 

「医師の良心から真実を明らかに」(01.01.31・読売新聞「気流」)


 日本医大病院で三年前、あごの手術を受けた患者が急死したのは、誤ってワイヤで脳を傷つけた医療事故のためであると、手術に立ち会った医師が勇気を出して申し出たという。私はこの行為をたたえたい。
 人の健康と命を守る医師の仕事は尊く、何よりも信頼が求められるが、医師も人間である以上、間違うこともあるだろう。しかし、その過ちを隠ぺいするなら、医師の資格はないのではないか。
 医師に限らず、地位や肩書のある人は往々にして自己保身を優先して自らの良心に反した行動をとることが少なくないようだ。特に医療の社会は学閥などによる上下関係が厳しく、閉鎖的であり、上司や教授などに異見を述べることは不可能に近いようだ。
 そんな中で二年七か月も悩んだ末、大学病院を敵に回し、医師としての道が閉ざされるのも覚悟で、良心に従って遺族に真実を述べたことは尊い行為であり、こんな人にこそ医師であって欲しいと思った。大学病院は真実解明の義務を全うすべきである。

 

「介助犬に試練必要あるのか」(01.?.?・東京新聞「発言」)


 先日、テレビで障害者の補助をする「介助犬」の番組を見た。盲導犬と違い、まだ社会的に認知されていないということで、電車に乗るにも「試験」があった。
 障害者と一緒に電車に乗った介助犬は、試験管と思われる鉄道員に鼻先に餌を押しつけられ、その後には空き缶を高い所から犬の近くに落としパニックを起こさないか試験をされていた。
 幸い介助犬は何の反応も見せず「合格」だったようだが、本能を抑えられ、」自由を拘束されながらも人間のために力を貸してくれる犬に、個々まで試練を課す必要なのか、と感じた。
 盲導犬に限らず聴導犬などは原則自由にし、何かあったら検討するという方法をとれないものか。

 

「悲劇拡大させた権威主義の弊害」(01.05.17・読売新聞「気流」)


 国によるハンセン病患者の隔離政策を、元患者が人権侵害として訴えた国家賠償請求訴訟で、熊本地裁が、原告全面勝利の判決を下した。国会議員の立法上の「不作為」を「過失」と認め、国が隔離政策を変えるための法律改正や廃止を行わなかったことを問題とした判決は、心の通った判断だったと思う。敬意を表したい。
 ハンセン病は感染力が極めて弱く、遺伝もしない。にもかかわらず、女性は中絶を強いられ、男性は断種が結婚の条件となった。こうした政策が差別をさらに助長し、本名すら名乗れず、親の葬儀にも出られない人が少なくなかったという。
 国が隔離政策を続けた理由の一つに、ハンセン病の「権威」と言われた光田健輔医師が、51年の参院厚生委員会で「手錠をはめてでも強制的に収容しなければ、効果がない」などという趣旨の証言をしたことがあるとされる。薬害エイズ事件でも、血友病の「権威」だった安部英医師の判断が問題となった。こうした悲劇を繰り返さないためにも、私たちの差別観や、「権威」に寄りかかる心理などを反省していかなければならないと思う。

 

「介助犬に試練必要あるのか」(01.9.4・東京新聞「発言」)


 先日、テレビで障害者の補助をする「介助犬」の番組を視た。盲導犬と違い、まだ社会的に認知されてないということで、電車の乗る時にもきも試練があった。
 障害者いっしょに電車に乗った介助犬は試験官と思われる鉄道係員に、鼻先に食べ物をおし付けられ、その後には空き缶を高いとからの近くに落としパニック起さないか試験をされていた。
 幸い介助犬は何の反応も示さず合格だったようだが、本能を抑えられ自由を拘束されながらも人間のために力を貸してくれる犬に、まだこんな試練を課すことが必要なのかと、感じた。
 盲導犬に限らず介助犬や聴導犬など原則自由にし、何かあったら検討するという方法を採れないものか。

 

「米国には人権を語る資格ない」(01.12.22・毎日新聞「みんなの広場」)


 「戦争反対」を訴えるTシャツを着て登校し、反戦クラブの設立を呼び掛けた米ウェストバージニア州の女子高校生が先月末に退学した。
 この女子高校生は学校から「国難の時期に非常識な行動」と3日間の停学処分を受けた。「表現の自由を侵害された」と州地方裁判所へ不服を申し立てたが、却下され、州最高裁も訴えを退けた。校内外で脅しや中傷、嫌がらせを受け、娘の身を心配した母親が退学を決めた。
 これが自由と民主主義を掲げる国のやることだろうか。逆に、女子高校生が「アフガニスタン派兵賛成」の行動を取ったならば、処分やいじめはなかったであろう。米国が狙われた原因も考えるべきである。
 明らかに言論表現の自由への弾圧である。学校は女子生徒を保護するどころか、処分している。裁判所もそれを追認している。かつての戦前の日本の「非国民」扱いと同じである。到底「自由の国」などとはいえない。米国は他国の人権侵害など口にする資格はない。

 

【2002年】


「福祉関係者は教訓を生かして」
(02.01.20・毎日新聞「みんなの広場」)


 地下鉄サリン事件の被害者で生活保護を受けている女性に対して、厚生労働省はオウム真理教(アレフと改称)からの損害賠償金を収入認定しないことを決めた。「よかった」と思ったと同時に胸が痛み、怒りがわいてきた。
 この女性は事件で視力が落ち、さらに、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の後遺症から手足も不自由になって会社も辞めた。
 裁判で受け取った賠償金が所得と認定されて生活保護費の返却を求められ、その異議申し立てに3年半もかかったという。体の不自由な彼女がどんなにか大変な思いをして訴え続けたかと思うと気の毒でならない。
 株でもうけた金でも、働いて得た金でもなく、健康な体の代償で得た、たった300万円の賠償金である。「金などいらない、健康な体を返して」と叫びたいだろう。
 自分や家族が障害者にならなくては気が付かない人間が福祉行政に就く資格はない。福祉関係者はこの事を戒め、教訓として生かしてほしい。

 

「経済第一で病んでいる現代」(02.7.28・東京「ひろば」)


 「自殺」4年連続3万人超」「家出17年ぶりに10万人超」。上下2段に組まれた25日付朝刊一面の見出しである。
 私は敗戦直後の育ち盛りに米の飯どころが3度の食事もろくに食べられない社会で育った。しかし、当時、イジメや殺人が登校拒否、自殺、家出など今の様には多くはなかった。
 明らかに現在の方が経済的に豊かになった。しかし、「自由経済」の美名の名の下に富は片寄、り労働者は企業の奴隷となり、神経をすり減らして過労死や自殺さえ出ている。経済第一、富を求めてそれだけが価値観と錯覚している現代社会を見直すべきである。3万人といえば交通事故死の3倍であり「犯罪ではないから問題ない」じゃ済まされない。
 競争社会で勝った者はもは負けた者の上に成り立っているのであり、雇用保険や年金の削減がそれに追い打ちを掛けるような社会が間違っている。

 

「プライバシー人権を無視する地域ネット」(02.9.5・「市民じゃ~なる」)


 多くの疑問や反対のなか8月5日、政府は「住基ネット」を強引にスタートさせ、その後の混乱は今も続いている。片山総務大臣は住基ネットについて「皆さんの要望であり、国のネットワークでなく地方団体のネットワークだ」と言い放ったが、誰が、何時、何処で陳情を要請したのか!
 一体、自治体同士がネットを組む必要がどこにあるのか!明らかに政府提案なのである。我々には何のメリットもなく「住民票が何処からでも取れ、住民添付の必要もなくなる」などというが、もともと居住地に住民登録であり住民票は郵送でも取れ、また居住変更は二週間以内に届け出なければ違法で住所不定である。
 だいいち住民票など年に何度必要であろうか。私は運転免許取得以来、何十年も取った事がない。住基ネットの導入は政府自ら「電子政府の確立」と言う通り、利便性や効率を最優先する権力都合の優先の考えで個人情報管理上重大な危機である。
 住民登録事務は自治体の専権事項であり、その個人番号を県や国と共有することは、民主主義の基本である地方自治の根幹を揺るがすものである。
 山祭り市の町長が接続拒否を宣言し、何と片山総務大臣は「目立ちたい人はどこにでもいると」発言、町長に「そんな事して言えないなんて、情けない」と軽くなされた。情報漏れについて、片山総務大臣は何の根拠もなく「ただ完全が信じてくれ」とのオウム返し、福田官房長官は「公務員悪いことはしないかとになっている」と述べたが、それほど安全案なら「個人情報保護法」など必要がない。情報漏れどころか、防衛庁は個人情報の収集さえしていたのである。
 そして、政府は「目的外使用」を禁止していると言うが罰則がなく、報道された四日市での覗き見的行動は何処でもやっていることであり、四日市はまだ「アクセスロ」グの保存があるだけまだマシであり、我が小川町では「アクセスログ」の保存などなく、パソコンへのアクセスカードさえ、「共通」という非常識だ。また情報漏れには罰則があるとも主張するが、刑法に罰則があっても犯罪を起きるであり、罰則があることは情報漏れのない保証にはならず、情報は一度漏れたら返しが利かず、罰則などあっても後の祭りである。現に今までも住民票や選挙人名簿の一部などが行政から直接漏れていた事実があるのである。
 それを防ぐためにはなるべく情報を集めず、そして分散しておくことが大事であり、故に健保、年金、所得、学校・・・など、それぞれ別個・目的別の番号で管理してきたのであり、その意味を理解せず、効率や利便性よりプライバシーや人権が優先することは言うまでもない。
 また、民間に利用させないというが、目的外利用に処罰規定がなく必ずや民間にも使用されていくことは間違いなく、個人コードが分かれば所得どころか、成績からから病歴など何でも分かり、これらの情報が権力のために利用されることは間違いない。そんな社会は到底民主主義社会とはいえない。

 

【2003年

 

「手話できる教師配置して」(03.5.31・東京新聞「発言」)


 ろう学校で手話の授業が認められないのは「教育を受ける権利の侵害」だと、聴覚障害の子をもつ全国の34家族が日弁連に人権救済を申し立てたと言うが当然である。
 私も少し手話を習い、以前ろう学校で手話を使うことが禁止されていたとは聞いていたが、今でも授業に「手話禁止」とは知らなかった。
 当時、ろう学校が口話を採ったのは「社会に出た時に手話が通じない」という配慮があったかと思うが、今はテレビ番組の他にも各地に手話教室などもあり社会の中で手話は決して珍しいものではなくなった。
 ろう者には手話は「言葉」であり、それを禁止し健常者の言葉を強制することは差別とも取れる。ろう者自身が「手話を認めて」と言うなら、教育は本人たちのためであり認めなくてはならないのは当然である。
 本紙記事によればろう学校の教師のほとんどが手話が出来ないなとは話の他であり、手話の出来ない教師の配置はろう者差別である。音楽や体育などの教師が居るように、ろう学校に手話の出来る教師を配置教育するのは行政の当然の義務である。

 

「老老介護の悲劇他人事ではない」(03.7.4・読売新聞「気流」)


 痴ほう症状が悪化していた80歳の妻を一人で介護していた夫(81)が、将来を悲観して妻を窒息死させ、自らも自殺を図った事件の判決公判が先日、新潟地裁であり、「被告に同情を禁じ得ない」として執行猶予判決が言い渡された。
 判決で裁判長は、夫が二度にわたって妻を市内の福祉施設に入所させようとしたが、待機者が多く順番待ち状態だったことを重視し、「福祉が追いついていないという現状が十分認められる」と指摘。さらに、「(妻は)信頼する被告の手で命を絶たれ、無念であったろう」と述べると、被告の夫はうつむいて拳を握り、肩を震わせたという。
 この悲劇は、一体誰の責任なのだろうかと考えてしまう。経済大国と言われる一方で、こうした事件が起きたことに、この国の福祉の貧困さを感じてしまう。
 「老老介護」は他人事ではない。社会に尽くしてきた高齢者は、その家族だけではなく、社会としてみんなで支えなければならないはずだ。必要な福祉とは何なのかを真剣に見直し、予算措置をしてもらいたいと強く感じた事件だった。

 

【2005年】

 

「家事調停員に国籍のいじめ」(05.10.4・東京新聞「発言」)


 兵庫県弁護士会が裁判所の家事調停員に在日の韓国人弁護士を推薦したところ、裁判所が国籍を理由に辞退させたという。これは人権問題であるあると同時に、弁護士会の独立をも侵すものであろう。
 弁護士はいいが「調停員」はダメという根拠は何か、弁護士には国籍の差別が認められるのか、時代錯誤も甚だしい。ましてや、天下国家や国際問題を論議ではなく、家裁の調停員が「公権力の行使や国家意思の形成」にどう関係すると言うのか。家事調停に国籍の何が問題なのか、明らかにいじめであり差別ではなかろうか。
 そもそも何故に在日の皆さんがいるのかわかっているのか。誰が好き好んで他国で暮らすのか。その原因が日本の植民地政策や強制連行などにあった責任を考えれば、到底じめなど出来ないはずだ。それは、中国に棄民された残留孤児や婦人と同じ立場なのである。

 

【2006年】

 

「認められない、東京高裁の差別判決」(06.3.24・「週刊金曜日」)


 内縁関係にあるフィリッピン女性と日本人男性の間に生まれた子の国籍について、東京高裁が2月28日、1審の「父母が内縁の子と、婚姻関係にある子を区別することは違憲」との判決を覆し、男性の認知を受けても「父母の婚姻」が国籍取得の条件とした判決出したが到底納得できない。
 日本人同士の同棲や夫婦別姓などの間に生まれた子は国籍を取得捨ており、高裁の判決は1審の判決通り、明らかに人種・国籍による差別である。もし、相手の女性が欧米白人女性だったら、果たして同じ判決が出たであろうか?  おそらく大きな問題に発展することは間違いない。
 言うまでもなく生まれてくる子は親はもとより、生まれる国も場所も選べないのであり、自分で決定できない理由で差別をしてはならない。
 親が死刑囚でも子に責任はなく差別してはならず、憲法や法律は最大限人権を尊重する解釈をすべきである。この判決は明らかに差別であり、到底先進国の判決とは思えず、日本人の誇りどころか恥ずかしく思い断固抗議する。

 

「再チャレンジない社会こそ」(06.9.2・東京新聞「発言」)


 23日付「再チャレンジ、敗者を見下す響き」に同感である。
 資本・自由主義社会は格差社会でありそれを放任するのではなく、その格差を一定の
範囲内に納めるのが政治の役目である。
それが富の再分配としての「税制」であり「社会保障」であるが、それが機能していない。それどころか所得税の最高税率引下げの一方で、課税最低所得額を引下げたり、贈与・相続税の減税、物品税を廃止しての消費税の導入など、格差拡大策をやってきた。
 小泉首相の規制緩和策で弱者が犠牲になり、生活保護所帯の増加、授業料を払えない、修学旅行に行けない生徒たちも多い。また、自殺者は毎年3万を超えている。
 再チャレンジではなく再チャレンジしないで済む社会でなくてはならない。弱者を保護し、格差を一定限度に抑えるための「規制」は必要なのである。

 

「人権無視の皇室廃止を」(06.9.29・「週刊金曜日」)


 天皇家の雅子さんが「適応障害」の国内治療は困難と、侍医と共にオランダに飛んだ。国内で如何に皇室が異常扱いをされているか解る。しかし、適応障害は彼女だけではなく、過日、美智子妃の声が出なくなったのも精神的なものであろう。如何に皇室制度が彼女たちの人権を無視し犠牲を強いているか理解できる。日本では英国王室のように浮気や離婚など許さず、同じ人間を未だに特別の人間に祭り上げ利用している人たちがいるのである。
 生まれた時から皇室の中で生まれ育った者には、「そんなものか」と異常とも思わないであろうが、社会を知っている人には到底この「非人間的扱い」にはついていけないことは容易に理解できる。彼らは人間であって人間扱いされず、生きた「人形」として権力の意のままに生き続けなければならないのである。
 過日、皇太子が雅子妃の能力を生かして外交に生かしたいと発言したが、海外へ行くのも自分たちの意志とは無関係に全て政府の都合で決めることを理解していない。
 選挙権も、被選挙権もないばかりではなく、一歩自宅を出れば首相以上に全て公人として取い取材され、一切の自由はなく全て政府の指示通り動き責任は政府が取るという制度である。久しぶりに二男の嫁が妊娠すれば大騒ぎされるが、近所の主婦が「あの家の奥さん妊娠したけど、前置胎盤だと」などと他人が噂すれば言うまでもなくプライバシー問題になる。
 その妊娠が分かった途端に、小泉首相は女子にも皇位継承を認める「皇室典範」の改正案上程を意図も簡単に取りやめた。何ともいい加減な首相の男女平等認識である。男子が産まれたから、まあいいや、ということであろう。そもそも、天皇といえども憲法の下に在り、「皇室典範」も憲法の上に在るものではなく、皇室にも憲法の男女平等は適用され、男子のみ皇位継承の皇室典範は明らかに違憲である。こんな女性を犠牲にする人権無視の天皇制度は、それこそ改憲し廃止すべきである。人為的に特別な人間に作りあげられた彼ら彼女らを、普通の人間に戻してあげべるきである。

 

「ハンディには助け合い必要」(06.11.2東京新聞「発言」)


 東京都東大和市の青木鈴花ちゃんが、のどの傷害でたんの吸引が必要なことから、公立保育園への入園を拒否されていた裁判で、受け入れ命令が出され、市側も控訴を断念し正
式入園が決まった。よかった、と思う。
 しかし、こんな当たり前のことを裁判までしなくてはならないのか。これはイジメである。市側は他の自治体への影響や、対処が困難と主張して入園を拒否したが、何のための公立であるか忘れていたのではあるまいか。
ハンディのある子は、みんなで助け合うことこそ必要である。傷害は自分自身や子や孫などにいつ生じるか分からず、けして人ごとと思ってはならない。
 鈴花ちゃんの屈託ない笑顔を見ていると、この責任は我々大人にあり、本当に申し訳なく思う。市は鈴花ちゃんに謝罪すべきであり、鈴花ちゃんの心に傷が残らないことを願ばかりだ。

 

【2007年】

 

「障害に無理解、JR西に姿勢」(07.8.24・東京新聞「発言」)


 障害者の鉄道利用にJR西日本が「2日前までに連絡を」などと表示したポスターに対し、障害者団体が回収を求めたという。当然であり、JR西日本に抗議する。
 JR側は、待ち時間を減らすためとか、駅員の少ない駅や無人駅などは前日に配置を決めるためであり、「誤解を与える表現だった」と言い訳している。だが、障害者を理解しておらず、そんな言い訳は到底認められない。
 健常者や企業などは、障害者の負担をできる限り少なくする努力や協力する義務がある。自己中心の障害者扱いに猛省を促したい。

 

「妊婦の搬送体制早急に改善して」(07.9.3・読売新聞「気流」)


 昨年8月、出産時に脳内出血となった女性が19もの病院に転院を断られ死亡した奈良県で、妊婦の悲劇が再び繰り返された。
 8月29日、同県橿原市の妊娠中の女性が自宅近くで体調を崩し知人が救急車を呼んだが、受け入れる病院がなかなかなく、搬送先の病院到着前に死産した。受けれに応じた大阪府高槻市の病医院に着いたのは119番通報から3時間後だったという。昨年の教訓が全く生かされなかったことが残念でならない。行政が真剣に対策を進めてこなかった結果としか言いようがない。
 奈良県では昨年、妊娠中から出産後までの緊急事態に備えた「総合周産期母子医療センター」を県立病院(橿原市)に開設予定という。だが、今回の事故では最初に要請を受けた病院も受け入れなかった。本当に大丈夫なのか心配だ。
 行政は、搬送体制の不備を徹底的に改善して、妊婦が安心して出産できる体制づくりを早急に進めるべきだ。

 

「本人訴訟勝利清郷氏に敬意」(07.11.10・東京新聞「発言」)


 神奈川県藤沢市の清郷伸人さん(60歳)が自らのがんと闘いながら、健保と自由診療の「混合診療」を認めないのは違法として、たった一人の本人訴訟で勝訴したことに脱帽する。
 ほとんどの人はこの矛盾、否、不当を感じながらも自ら裁判を起こすまでにはいかない。この不合理にに弁護士は誰も引き受けてくれなかったという。それでも一人で闘って下さった清郷さんは本当に立派な方だと思う。
 正しいことを正しいと貫き、人間あきらめずに信念を貫くことの大切さを教えてくれ清郷さんに、心から尊敬と感謝申し上げます。

 

【2008年】

 

「 福 祉 最 優 先 税 金 使 っ て」(08.11.4・東京新聞「発言」)


 都内の公立緊急病院など8つの病院をたらい回しにされて死亡した妊婦の夫が記者会見した。「妻の死を無駄しないで。誰も責める気ない」との発言に胸がいっぱいになった。
 この事件は現場の医師や病院の責任ではなく、医師を手配できなかった東京都と、その環境・システムを構築できなかった厚労省の責任であり、この夫の言葉は心底重く感じる義務がある。
 土日の急患受け入れができない病院が、どうして「救急病院」の看板を掲げることができるのか。これが東京のど真ん中(地方ならいいという意味ではない)で起きたのである。米軍基地移転費用に思いやり予算、我々の税金をどこに使っているのか。防衛より緊急課題だ、税金は福祉最優先で使え!

 

【2011年】

 

「障害者と富士登山へ」(11.2.8・読売新聞「埼玉版」)


 約20年程前のことになる。車椅子、全盲、義足などの障害者と2泊3日の富士登山に参加した。付き添ったボランティアは9歳~70歳までの70人。車椅子は後部に「舵取り役」が1人つき、7人ほどで引っ張りあげた。片足義足の方は最後まで誰の手も借りず自力で登った。頂上に着いた時、ボランティアのリーダーは感極まって男泣きしていた。全盲の方は風や音、香りなどで景色を知ることなど、障がい者に関し多くのことを学んだ。好きな登山で貴重な体験ができた。

 

【2013年】

 

「消費税還元セール、口挟むな」(2013.4.19・朝日新聞「声」)

 

 消費税に関して「消費税還元セール」などの表現を禁止する特別措置法案の国会審議に入ったというが、私は反対である。脱税を取り締まるならともかく、宣伝文句まで規制することは「言葉狩り」であり、民主主義社会ではありえないことだからだ。
 政府は、こうした販売方法が消費税の転嫁の仕組みなどをそこなうものだとみているようだ。だが、消費税を価格に転嫁しようと、売り主が負担しようと、脱税がなければ同じだと消費者の私には思える。 
 そもそも、安倍政権が掲げる物価上昇2%目標で、年金生活者や生活保護所帯は生活が苦しくなり、さらに消費増税で可処分所得が減り、格差が拡大する方向にある。だが、安倍晋三首相はそんなことはあまり忖度していないようだ。首相には物余りでも買えない人の心配をしてほしい。強い経済や強い国ではなく、「弱者に優しい国」を目指すべきである。

 

2014年

 

「不幸な過失は免責すべきだ」(2014.5.3・東京新聞「発言」)

 

 俳諧症状のある認知症男性がJR東海の電車にはねられ死亡した事故をめぐり、同社が遺族に振り替え輸送代など侵害賠償を求めた提訴で、名古屋高裁が男性の妻の監督責任を認め、359万円の支払いを求めた判決には納得できない。
 この事故は飛び込み自殺などの故意ではなく過失である。逆に、車両故障などJR側の過失で電車が止まり結婚式や会社に遅刻した等々、何万、何十万人の乗客が受けた損害をJR側は賠償しているのか。自身の過失は免責し、被害者の場合だけ賠償請求することは不平等、不正義である。
 言うまでもなく、認知症男性を老妻が四六時中監督することは不可能であり、このようなやむを得ない損害は運賃に参入されていると解釈すべきである。

2016年

 

『格差是正が最優先』(「週刊金曜日」2016.1.8)

 

 政府は補正予算で高齢者に3万円配ると言うが「馬鹿にするな!」と怒鳴りたい思いである。みんな一生懸命、真剣に生きている。3万円を配って何が解決するのか。バラマキではなく「経済格差」と「貧困」の原因を是正すべきであろう。それとも参院選に向けた買収資金か、市民もそれほどバカではあるまい。

 安倍晋三首相は失業率が下がったと自画自賛するが、大半が非正規雇用である。その割合は40%を超え、若者は生活の安定さえ成り立たず、大学を出ても正規雇用されず奨学金さえ返せない状況である。「子どもの貧困」「過労死」「介護離職」「介護難民」「下流老人」・・・・。こうした言葉を首相はどう考えているのか。一方で史上最大の利益を生んでいる企業などの法人税を引き下げ、その分は赤字企業にまで課税し消費税も上げるという。もはや"貧乏イジメ"であり格差拡大政策である。

 親の介護で会社を辞めざるを得ず、子が実家に戻れば親の生活保護が打ち切られる。生活保護所帯の子どもが大学や専門学校は贅沢だと認められない・・・・。いずれも貧困の連鎖を助長している。

 防衛費は現政権のもとで再び増加し、来年度は5兆円を突破する見通しである。 2016~2020年度の米国への思いやり予算も総額約1兆円で合意している。運転再開の準備停止命令の出ている「もんじゅ」へは既に1兆円が投入され、その停止維持に1日5,500万円が費やされている。海外諸国への支援も結構だが、自国民の救済に全力投球すきであろう。

 これ以上の消費拡大ではなく格差是正と富の再分配こそ求められている。