【2014年】

◆【旧沢内村・深沢晟雄資料館を訪ねて】(2014.10月)

 深澤晟雄は「沢内甚句」が有名な岩手県旧沢内村(現西和賀町)の村長に1957年に就任した。この村はかつて医者も病院も無く、冬は雪で「陸の孤島」となった。医者にかかるのは「死亡診断書」を書いて貰うために、遺体を背負ったりソリに乗せて隣町まで運ぶという「豪雪、多病多死、貧困」の村で、その「乳児死亡率」は全国最悪だった。

 彼は『ロケットが月に行く時代に、赤ちゃんやがコロコロ死んでいいのか!?』と奮起した。それは『人間の命に格差があってはならない』との信念であった。

 村長に就任した彼は国も県も当てにせず自らブルドーザー(夏は開拓や農作業に利用)を買い道路を通年開通させ盛岡までの定期バスを運行させ、患者輸送の無料マイクロバスの運行も実現した。そして、1960年に65歳以上の医療費を無料にし、翌年からは60歳に引き下げ更に1歳未満の医療費も無料にした。そして、保健婦を養成配置し「予防医療」に力を入れた。国からは「健康保険法」違法と圧力があったが、彼は『村民の命を守るのは私の使命であり、法律に違反しても憲法には違反していない』と突っ張ったのである。

 そして、村長就任5年目の62年には「年間乳児死亡率0」の全国初の金字塔と打ち立てその後10回も死亡率0を実現した。その医療費は全国、県平均を遙かに下回り村は「最も不健康な村から最も健康な村」に生まれ変わり、生命行政、生命村長と呼ばれた。それは村民が行政に頼るのではなく「自治、共同、主体」の考えで、「自分たちで自分たちの生命を守った村」とも呼ばれた。また、彼は教育長時代に婦人会や青年会、何と役場職員の「労働組合」まで立ち上げている。

  しかし、残念ながら食道癌に肺炎を併発し59歳の若さで亡くなった「同じ憲法と同じ法律」の下で、上に立つ人の違いでこんなにも「社会・生活」が変わるのだとつくづく思う。是非、多くの人に深澤晟雄を知って欲しいと思う。

◆『命見つめて心越し~「生命村長」深澤晟雄スタディー』(れんが書房新社)

◆『村長ありき~沢内村 深澤晟雄の生涯』 (れんが書房新社)

◆韓国・ノグンリで「国際平和博物館会議」参加(2014.9月)

 3年に1度世界各地で開かれている『平和ための博物館・国際会議』が9月19~22日の4日間、韓国・ノグンリで開催された。

 ノグンリは韓国のほぼ中央の地方に在り、朝鮮戦争中の1950年7月アメリカ軍が南部へ敗走する中で民間人約300人余りを虐殺した「ノグンリ虐殺事件」の現場である。米第25師団長ウィリアム・B・キーン少将による7月26日の「戦闘地域を移動するすべての民間人を敵とみなし発砲せよ」という命令に基づき行われたが、50年近く隠蔽され米は現在も「偶発的」と主張している。【左・虐殺現場】

 現地にノグンリ平和公園が整備され公園内に『ノグンリ平和記念館』が建てられ、事件の説明や展示がされ、韓国人も多くの犠牲となった「ヒロシマ」の原爆被害も展示されている。また公園内の一角に『ノグンリ平和教育館』が建てられ今回の国際会議はここで開かれた。

会議には35ヶ国25団体16o人が参加し分科会で28団体の報告があり、日本からは丸木美術館、wam(女たちの戦争と平和資料館)、立命館大学国際平和ミュージアム、無言館などが発表し、私が参加している『中帰連平和記念館』からは松村髙夫理事長(慶応大学名誉教授)がプロジェクターも利用し発表した。(左「全体会議」)

【「ノグンリ平和記念館」前で記念撮影】
【「ノグンリ平和記念館」前で記念撮影】

 wamの池田恵理子さんの発表の中で慰安婦について不適切な通訳があり、会場から松村理事長が挙手をし、朝日が誤報を認め謝罪したのは「吉田清治氏の証言の間違いと、慰安婦と挺身隊の混同」の2点のみについて謝罪したのであり、従軍慰安婦(日本軍慰安婦)の存在を否定したものではないことをキチント伝え欲しいとの要望があった。

 参加者には軍隊を廃止したコスタリカからの報告もあり、分科会では日本国内からは16団体の発表があった。19日の会議冒頭では私たちと同行した『悪魔の飽食合唱団』が合唱を披露し喝采を浴びた。他にもパネル展示などもあった。

 

 私たちは会議前の16日から韓国入りし『済州島4・3事件』や『光州5・18事件』の墓地や記念館にも寄り、会議最終日には国境の「イムジン河」も訪ねてきた。

【「光州 5・18事件」旧国立墓地】
【「光州 5・18事件」旧国立墓地】
【「済州島4・3事件」国立墓地】
【「済州島4・3事件」国立墓地】

◆福島菊次郎「全写真展」


 東京の多摩センターで開かれた『福島菊次郎写真展』を観てきた。手元に彼の「写真集」もあるが、改めて「ショック」だった。

 約430枚のパネル展示だが、彼の写真の原点は広島の被爆者だが、当初の被爆写真は貴重であろう。撮影をご了解下さった皆さんにも感謝であり、その思いを忘れず伝えなくてはならない。

 その後「三里塚、ベトナム、全共闘・・・」等の写真に進むが、私はやはり「公害」の写真に改めてショックを受けた。「水俣、四日市喘息、イタイイタイ 病、・・・・」等どれだけ多くの市民が苦しんできたことだろうか。その企業は今も活動し利益を上げているのである。

 彼は暴漢に襲われ重傷を負ったり、不審火で家を焼かれたり・・・そでれも彼は写真という「表現の自由」を通して闘い続けた。一時、瀬戸内の島で自給自足 の生活をしたが胃癌の手術で断念した。93歳になった彼はいま山口県柳井市でお一人でお暮らしとのこと、健康にご留意しお過ごし戴きたく思う。そして、感 謝の「有り難う御座います」を伝えたい。 

◆今年も「7・7集会」開催

7月7日を七夕と答えても、77年前のこの日が「日中前面戦争」に突入した日であることを多くの人は忘れているであろう。
 あの侵略戦争で「沖縄、広島・長崎、東京大空襲」の犠牲者50万人余りを含め日本人310万人の犠牲と言うが、中国にはその3倍もの1000万人余(「世界」1994年2月号P144)の犠牲を強いたことをどれだけの人が解っているだろうか。
 否、安倍首相は「侵略の定義はない」と侵略戦争であったことさえ否定しようとしている。「侵略の定義」は1974年12月14日に国際連合総会の第29回総会で採択されている。昨年のIOC総会でも福島原発は「収束している」と平然とウソつき、「侵略の定義は無い」ともとウソをつく安倍首相は正に厚顔無恥である

 その侵略戦争にかり出された元軍人4団体がこの【7月7日】を忘れないために毎年同日に集会を開いてきたが、高齢のため後継組織に引き継がれている。今は【中国帰還者連絡会(中帰連)】を受け継いだ「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」、【日中友好元軍人の会】を受け継いだ「日中友好8・15の会」、【不戦兵士の会】 を受け継いだ「不戦兵士・市民の会」、そして【関東日中平和友好会】の4団体共催で今年は会場に中国大使館を借り開かれた。

 主催者を代表して「関東日中平和友好会」の新宅久夫会長の挨拶に続き、程永華駐日中国大使が記念の挨拶に立った。日本と中国は2000年に渡り文化交流 があったことや隣国同士で引っ越しはできず、中国が日本人戦犯に寛大措置を一貫して貫き、日本の軍国主義者と市民を区別してきたことなどを訴えた。そして、 最近の中日のかつてないを変化・緊張を心配していた。

 続いて「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」会長の姫田光義さん、「不戦兵士・市民の会」理事の蒲田賢治さんの挨拶と休憩を挟み『再生の大地』の合唱組曲が披露された。

 この合唱組曲は戦後5年間シベリアに抑留された後、戦犯として中国「撫順戦犯管理所」に6年間収容され、その間、何の制裁も強制もなく人道的に扱われ、その中で戦犯たち が人間性を取り戻した歴史の事実を歌った約1時間の組曲(当日は抜粋)である。演奏後、感動した参加者の拍手は何時までもやまず、程永華大使も感動し最後まで聴いていた。

東京裁判の他、アジア各地のB、C級戦犯裁判で約1000名が処刑されているなかで、中国の特別軍事法廷で周恩来は一人の死刑も無期も認めず戦犯約1000 人のうち、起訴されたのは政府・軍高官の45人だけで、その45人もシベリアの5年と管理所の6年が刑期に参入され満期前に帰国を赦されたの である。
 偽満州国国務院総務長官(文官の最高位)だった武部六蔵は入院中のベッドで「禁固年」の判決直後「病につき直ちに釈放」と言い渡され号泣している写真がある。彼はそのまま担架で興安丸に乗せられ帰国を赦されたのである。
 日本ではこの中国の「人道的寛大措置」を伝えず、高橋達之助、宇都宮德馬、岡崎嘉平太・・・など良心的政治家や財界人が築きあげた日中関係を、安倍首相が一瞬にして水泡に帰した責任は重大である。
 中国には『前事不忘 後事之師』という諺があるが、まさに「前の事を忘れず、後の教訓とせよ」とは無反省な日本にも指摘される諺である。忘れてならないの被害ではなく「加害」であり、そこから信頼と友好が生まれるのである。(7/9)

【三鷹事件の再審で「三者協議」再開】

 「三鷹事件」の第二次再審請求が受理され東京高裁刑事四部に係属している。その第五回「三者協議」が7月15日に開かれるのを前に、6月24日「三鷹事件再審を支援する会」が高裁前でビラを配布し、3万4千人余りの署名を高裁に提出し記者会見を開いた。

「事件現場」(発生1949.7.15)
「事件現場」(発生1949.7.15)

 「三鷹事件」とは占領下の1949年7月、旧国鉄中央線三鷹電車区構内から無人電車が暴走し6人が死亡20人が負傷した事件である。この10日 前には国鉄常磐線北千住駅-綾瀬駅間で下山国鉄総裁が轢死体で発見された「下山事件」が発生、また1ヶ月後には何者かにより東北本線松川駅-金谷川駅間で 線路の犬釘が抜かれ列車が脱線転覆し乗務員3人が死亡した「松川事件」が発生している。また「帝銀事件」の犯人も731関係者ではとの見方もあるが、犯人 とされた平沢は処刑されず逮捕から39年後に獄死している。また在日米軍違憲判決の「砂川裁判」がGHQの圧力で跳躍上告され無罪判決に至ったことが、最 近米公文書館から発見されている。

 松川事件では死刑を含む判決が、検察が最後まで 隠蔽していた被告のアリバイ証拠の「諏訪メモ」が上告審で開示され全員無罪が確定し、下山事件は迷宮入りとなり三鷹事件と共に「国鉄三大ミステリー事件」 と言 われている。占領軍が戦後民主化を進めてきたがレッドパージなどで急遽右旋回させた占領軍の労組・共産党への弾圧が指摘されている。
 当初この事件は共産党の仕業と20人が逮捕起訴されたが、結果は非共産党員の竹内景介一人の犯行とされ、竹内の供述は二転三転し一審の無期懲役から控訴審での死刑判決を、最高裁は弁論も開かず8対7の一票(人)差で死刑を確定し竹内は脳腫瘍を放置され獄死している。

記者会見(6月24日)
記者会見(6月24日)

 記者会見で被告の供述調書は一通も開示されないのは異例であり、竹内を現場近くで見たという目撃証言者の供述書も開示されていないという。裁判所の証拠開示勧告で68点が開示されたが、検察の都合の良い証拠のみで、更なる開示を求め「証拠開示命令補充書」を提出した。
 当時、現場は米軍のMP(米陸軍憲兵)が規制し、救助の協力さえ排除した異例の対処であった。
  再審無罪が確定した「足利事件、布川事件、東電OL事件」など、何れも権力の「隠蔽証拠」の開示が無実への証拠となり、この事件でも証拠の全面開示が必須 である。税金で集めた証拠は検察だけのものではなく、被告や国民のものでもあり検察は証拠を全面開示すべきである。(6/25)

 

【むのたけじさん「中帰連平和記念館」訪問】

 むのたけじさんが医師でご子息の武野大策さんと、むのさんの友人でいま中国でも大型ビル建設などで協力している建築家の細川清和さんの3人が、6月11日に川越の『NPO・中帰連平和記念館』を訪問した。

元気で話す「むのたけじさん」(99歳)
元気で話す「むのたけじさん」(99歳)

 むのさんは敗戦前日の8月14日夜に「責任をとる」とただ一人朝日新聞社を辞し、その後、故郷の横手に戻り1948年から30年間週刊新聞『たいまつ』の発行を続けながら、反戦や日中友好などを訴えてきた。
 むのさんは25歳で戦地の最前線取材したが、当時「本当の事は書けなかったあ、ウソは書かなかった」と話した。また、哀れな慰安婦の女性たちを目前で見ており、慰安婦は軍用船で運ばれており「軍用船は軍の許可無しに誰も乗れなかった」と証言した。
  安倍政権や集団的自衛権を批判し、「この記念館の中の歴史の事実を踏まえ、埼玉の此処が日中問題を話し合う場になればと思う」と評価した。

(左から)武野さん、細川さん、むのさん、松村理事長
(左から)武野さん、細川さん、むのさん、松村理事長

 日本は戦争責任のケジメをつけておらず、人間は間違いを犯すからダメではなく、「過ちを率直に認め詫びる事はキチット詫び、反省することは反省してこそ人間は前に進める」とも指摘し、その反省の違いをドイツを例に比較した。
 年10年、何100年経とうとも詫びることは詫びその思いが1億国民のものと中国に伝わらなくてはダメであり、そうすれば本当に中国と仲良くなれると話しました。
 むのさんは満99歳とは到底思えない何時もの大きな声で机を叩きながら現状の政治や社会を批判した。(6/20)

 

 

【さいたま市で「日本軍慰安婦」被害者の証言】

 「日本軍慰安婦」被害者の李容洙さんの証言集会が6月8日「さいたま市民会館うらわ」で開かれ80人余りが耳を傾けた。

李容洙(イ・ヨンス)Lee Yongsoo さん経歴

 1928年12月13日
 慶尚北道大邱に生まれる。貧しいながらも祖母と両親と兄と弟の6人の大家族で、毎日をにぎやかに睦ましく暮らしていた。                             
1944年秋
 15歳の時、夜明け前に家から連行される。
1946年春
 帰還船で家に帰る。
1992年6月25日
 恐る恐る"「慰安婦」被害者"と名乗り出る。その後は1月から行われている水曜デモにも、朝早く起き大邱から汽車に乗って今日まで積極的に参加し続けて いる。韓国内、また日本のみならず海外でも数え切れないほどの、学校、職場、集会、議会等々において証言し、日本政府に対しては強く公式な謝罪と賠償を要 求している。           
1995年7月 
 日本政府が出した 「国民基金」と首相のお詫びの手紙を拒否し、抗議し続けた。
2007年7月
 米下院本会議での公聴会で証言し、その後の国会決議を出させる原動カとなった 。

【証言】
 李容洙さんは1944年秋、15歳の時、汽車に乗せられ大邱から慶州、慶州から平壌・安川、安州から大連へと連行され、大連で日本軍人がたくさん乗った た 大きな船に乗せられた。 船上で日本軍人に犯され、着いた所が台湾の慰安所だった。ここでの生活はどんなに抵抗しても、日本軍人を拒むことは許されなかっ た。                     
 1945年春、l6歳の時、慰安所が爆撃にあい、建物の下敷きになり、素手で土を掻き出して、やっとの 思いで外に出ることができた。彼女を可愛がってくれた二人のお姉さんが建物の下敷きになり亡くなった。そして親切にやさしくしてくれた特攻隊の 軍人も出撃したまま帰って来なかった。     
 日本の敗戦で"解放"され、みんな海の近くの収容所へ集められた。
   1946年春、17歳の時、帰還船で釜山港へ帰り釜山駅から汽車で大邱駅へ。大邱駅から走って家に帰った。父母のもとに帰れたものの誰にも 被害を語れず、誰かにその事が「知られてしまうのではないか」と恐れて暮らしていた。良心は彼女の被害を薄々知っていたのかもしれまないが、生涯その 事を問うことはなかったという。

 彼女は「慰安婦基金」でお茶濁そうとした村山元首相は嫌いだが、談話を出した河野さんは信頼している。今は日本を恨んではおらず、日本との平和を望み平 和的に解決を望むと語った。結婚もできず独り身の生活だが支援者のお陰で今は楽しく暮らしているという。しかし、日本に来ると支援者の家に泊めてもらって いるが、今も怖くて一人では寝られず支援者に一緒に寝てもらっているという。
 そして「私は慰安婦ではない。李容洙です」と何度も訴えた。一人の女性である李容洙さんを「慰安婦」にしたことには日本軍・政府が関わっていたのであ る。李容洙さんはお金が目的でなく皆なで力を合わせて訴えて欲しいと話した。私たち一人一人がこの悲劇を忘れず、政府を含め後世に伝えることが彼女に報い ることなのだろか。

河野官房長官【談話】.pdf
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 【警視庁公安の盗撮などで最高裁に「要請行動」】

 「集会の自由」への妨害と国賠提訴の上告審で、5月20日に原告と弁護士や支援者など17人が最高裁を訪ね要請行動をした。当日は「上告理由補充書」や「意見書」を提出し、30分という時間制限の面談の中で10人が意見を述べた。

正面玄関から「最高裁」へ入る原告、弁護士、支援者
正面玄関から「最高裁」へ入る原告、弁護士、支援者

 この事件は08年に東京「なかのZERO」で反戦平和集会が開かれ、中野駅から会場へ向かう道沿いの茶店「ベローチェ」内のカンター越しに、3人の公安 警察が2台のビデオカメラで参加者などを盗撮している現場を押さえられた事件である。当日はその会場前でも数十人の公安がマスクにサングラス、メモ帳や単 眼鏡を手に参加者を監視・威圧していた。

  (発見され慌てて余所を向く公安)   (逃げる公安に突き飛ばされ「転倒」した発見者)

 東京高裁は判決理由のなかで『集会参加者が、当該集会に参加することが外部から認識され、場合によっては個人が識別され、特定される危険があることも 自ら自覚し、自己の責任において集会に参加するかどうか決定すべきことに留意知る必要がある』などと述べている。つまり集会参加を特定されたくなければ集 会に参加するなというに等しい判決理由は到底納得出来い。
 これが「監視・威圧」でなくて何であろうか!
 最高裁は真の「自由・民主主義」を判断すべきである。

 

 

  強制連行と公害の原点「足尾」で植樹

 栃木県の足尾銅山(古河鉱業・現古河機械金蔵)が渡良瀬川に鉱毒を垂れ流し、その下流の村々が大きな被害を受け谷中村が強制破壊され、当時、代議士だった田中正造が尽力したが功を奏さなかったことは知られている。一方現地では精錬の亜硫酸ガスで周囲の山野が禿げ山になり放置されてきた。山を自然に戻そうと足尾に緑を育てる会が毎年植樹を進めている。そして4月26,27の両日、19年目の『春の植樹デー』が開催され800人余りが参加した。

荒れ果てた植樹の山と植樹参加者
荒れ果てた植樹の山と植樹参加者

 自然を壊すことは容易だが元に戻すことは莫大な時間と費用がかり大変なことであるが、参加して逆に自然の力強さも感じ山は少しずつ自然が戻りつつある、 
  当日は山の高所と道路沿いの低所の2カ所に植樹され、子連れの家族や生徒の団体なども参加していた。本来はボランティアはなく、ボロ儲けした古河自身の責任で元に戻すべきであろう。「足尾に緑を育てる会」主催のこの植樹は、この19年間で延べ1万6千人余りが参加し、7万本余りの植樹を行ってきたという。
  今年も多くの企業や団体、個人が「イタヤカエデ、イロハモイジ、ウメモドキ・・・」など多くの苗木をき寄付し、また当日持参した人たちもいた.。現地には足尾環境学習センターがあり足尾銅山の歴史・経緯が展示されている。

 

  (苗木を受け取り山へ向かう参加者)        (荒れ果てた足尾の山)

  また、この足尾銅山には中国人、朝鮮人が多数強制連行され、多くの犠牲者を強いられ、庚申川沿いの小滝地区にはその「中国人殉難烈士慰霊塔」や「朝鮮人犠牲者慰霊塔」の他、当時の施設跡などがある。

     (朝鮮人「慰霊碑」)             (中国人「慰霊碑」)

 他にも「足尾歴史館」「古河掛水倶楽部」「足尾銅山観光」・・・・などもある。中国人慰霊塔の近くには露天風呂温泉付きの国民宿舎「かじか荘」があり、沿道は新緑や紅葉がきれいな所で近くには「銀山平キャンプ場」もある。また渡良瀬渓谷鉄道沿いには草木ダムや星野富弘美術館などもある。
  田中正造は代議士時代に鉱毒被害視察のため足尾にも訪れているが、「足尾鉱毒」は強制連行、谷中村、田中正造とセットで考える必要がある。(4/30)

 

 

 【731部隊展と講演】

 東京・八王子の「アミダステーション」で『731部隊展』(3/24~3/30)が開かれた。 

 言うまでもなく「731」は関東軍憲兵らが3000人余りを「特移扱・マルタ」と称し、中国哈爾浜市の731部隊に送り込み、石井四郎部隊長(軍医)らが「生体解剖・実験」をした極秘部隊であった。それは『関東軍防疫給水部』とウソの看板を掲げた「生体実験場」であった。

 「部隊展」の会場にはその解説や写真、組織図、模型などが展示してあり、多くの人が「ため息」をつきながら見ていた。戦後、石井四郎はその研究資料と引き替えに米から免責されたのである。また当時731に関与してい当時の軍医は、戦後、医学界の要職に就いていた。

 3月25日には同会場で731の研究者でもある松村髙夫氏(慶応大学名誉教授・「NPO中帰連平和記念館」代表理事)の『731細菌戦部隊展と現在』と題し講演もあった。
 20世紀は「虐殺と戦争の世紀」と言われ、権力の弾圧虐殺で1億人、戦争で8000万人が犠牲になったと言われ、「ABC兵器」が使われた。つまりA(アトミック)は核兵器、B(バイオ)細菌兵器、C(ケミカル)化学兵器で、731部隊はこのB,C兵器の研究を実施していた。731部隊は1940年に哈爾浜郊外「平房」に完成し、その中心の「ロ号棟」中の7、8号棟にマルタは収容され実験材料にさた8キロ四方の施設であった。

 731部隊では生体解剖は勿論「ペスト、コレラ、赤痢、炭疽、マスタードガス、破傷風、チフス・・・・・」などあらゆる細菌毒ガス実験をし、哈爾浜だけではんく北京、南京、広東などでも同様の実験が行われていた。実験だけではなく実際に細菌を蒔いてその罹患統計さえ取っていた。

731の記録は1940~1947年でで止まっており、「日本兵の罹患が防げなかったらではないか」との見方もある。
 戦後、石井はその研究資料と引き替えに免責され、また、関係した殆どの軍医はその後、医学界の要職に就いている。86年9月17日の米下院「復員軍人委補償関係委員会」の公聴会で証人・ジョン陸軍省記録管理局長が731部隊の資料ついて『日本政府に返却した』と答弁している。
 これを根拠に松村氏らは防衛庁(当時)に開示を求め5回の交渉をしてきたが「確認できない」との回答のため、2013年11月「開示請求」を求め提訴している。この次回裁判は「4月17日、11:45分」から東京地裁419法廷で開かれる。(3/26)

 

 

 

 【さいたま市で「400歳の伝言」集会開催】

 さいたま市浦和区で『3.21・400歳の伝言』集会が開かれ80人が参加した。当日は「戦争時代]を生き抜いた90歳を超える4人の皆さんのお話を伺 う予定だったが、当日お二人が体調を崩し参加出来ず、ピンチヒッターを含め3人の話しを伺った。(主催「埼玉県平和資料館を考える会」「埼玉県平和委員 会」)

 最初に学徒兵として招集され1945年8月15日の敗戦後も、軍命で武装解除もせず2600名が残留し中国・山西省で共産軍と3年8ヶ月も560名の戦死者を出しながら戦い続けた稲葉績さん(さいたま市・92歳)である。
 それは戦後も続く内戦の中で軍閥・閻錫山軍の日本兵帰国の条件に応じたものであった。その後、稲葉さんは戦犯として「太原戦犯管理所」に収容され、自ら の過去を思い出し処刑を覚悟し反抗していた。しかし、管理所の「人道的扱い」の下で過去を認罪するに至り56年の特別軍事法廷でも「起訴免除」とされ帰国を許された。
 しかし、帰国すると「敵前逃亡」扱 いであった。稲葉さんたちは「軍命だった」と政府に抗議し裁判もしたが敗訴した。それは元上官たちの『命令はしておらず、勝手の残った』との証言が採用さ れたためでった。560名の戦死者と共に稲葉さんは軍人恩給ももらえず悔しい思いを続けてきたが、それは「ポツダム宣言」に違反するからであった。稲葉さ んは戦争が終わったのに「誰が好きこのんで残るか」と今も戦死した戦友が中国に「放置」されたままと訴えた。そして、戦争は人間を「使い捨て」にするものであり、再び過ちをおかしてはならないと!強く訴えた。

講演後に『質問を受ける』大野さん、稲葉さん、肥田さん
講演後に『質問を受ける』大野さん、稲葉さん、肥田さん

 次の発言は元教師で詩人でもあるピンチヒッターの大野英子さん(91歳)である。大野さんは埼玉県児玉の生まれで、米も穫れず生糸の値段が暴落し、農家でありながらお米が食べられなかった昭和初期の貧しさの中で、親を早く亡くし兄が苦労して育ててくれたという。当時は皇民教育が絶対であり「治安維持法」で多くに良心的市民が逮捕・虐殺された小林多喜二もその一人であった。いま特定秘密保護法が成立し当時の社会に進みつつある危険を訴えた。

  最後は広島の被爆医師として著名な肥田舜太郞さん(97歳)の話しであった。肥田さんは原爆投下時には7キロ離れた往診に出かけ直接被爆はしなかったが、肥田さんの病院では全員亡くなり、肥田さんは投下直後の救済医療に尽くし被爆した。被爆直後には5人の医師で3万人の被爆者を診たという。当時、救済に当たった医師は既に肥田さん一人という。肥田さんは28歳からこの97歳まで70年間被爆医療と、その影響を訴え続けてきた。
 放射能は見えず人体への影響の証拠を示すことは困難で、米は長い間その影響を隠蔽してきた。原爆も原発も放射能は空から降って空気や水を汚し体内に取り込み内部被爆を患うことになる。チェルノブイリの子どもの甲状腺がんでも解る通り症状は直ぐに出ず、子どもへの犠牲が大きい。
 もう、もう一つ原発が事故を起こしたりこの国は終わりであり『力を合わせて原発や核兵器を止めて下さい』それは皆さん・親の責任ですと強く訴えた。(3/23)【私の再審ニュース】集へ

 

 

 

 

 【東京・池袋で原発『被害者証言集会』開催】

都内の豊島公会堂で3月1日、原発の『被害者証言集会』(主催:福島原発原告団)が開かれ800人余りの会場は怒りを込めた原告や支援者で埋め尽くされた。当日は福島から関係者がバス3台で80人が集会に駆けつけた。集会は原告団長の武藤類子氏の開会挨拶で始まり、専業農家や仮設住宅生活者、放射能ゴミ焼却場建設に悩む住民、自主避難生活者、除染作業体験者など10人(一部代読)が証言した。

 専業農家は全て県で放射能測定を確認しても「福島産」というだけで買ってもらえず、それでも福島を離れられず「東電、政府、国会議員、役人に食べてほしい」と訴えた。郡山への避難生活者は家族がバラバラになり、自治体は無責任に「帰村宣言」をしたが応じたのは14%と報告した。仮焼却場の建設に疑問を持つ住民は、ろくな説明もなく政府の「復興のシンボル」とのパフォーマンスに抗議した。
 また、鼻血を出した子の母親は原発は自然災害ではなく「人災であり、子どもには罪はない」、3年経っても少しも変わらず検証もできていないと訴えた。伊達市の住民はモリタリングが下がったと、行政は何も無かったかのように「安全教育」ばかりで、その不安から自分で除染を進めていると実情を訴えた。
 除染作業を体験した男性は5次下請けだったが、国が3次下請けまでしか認ていないため契約は3次下請けとさせられた。しかし、9次、10次と「時計のように下請けがある」と実情を説明した。
 仕事の関係で夫を残し会津に避難した女性は家賃とローンの二重負担のうえ、自主避難者は補償外でその後6万円までの条件で家賃補助が出たが6万円以上の家賃はその差額の自己負担も認めず放置された。大熊町から会津に避難した女性は「被爆手帳」がほしいと訴えたが、行政は「専門家が大丈夫と言っている」との一点張りで取り合ってくれないと訴えた。札幌に自主避難した女性は中3の娘が身体中に発疹が出たためで、チェルノブイリ事故の時に肌の弱い人が同様の症状を発症していたからであった。
 家族バラバラや自主避難の人たちは地元からは「逃げた」と見られ、家族内や隣近所とのトラブルに発展するなど精神的な悩み多いと訴えた。

 福島原発は今でも「高濃度汚染水漏れ」が続いているが、阿部首相は昨年9月のIOCで何と『汚染水による影響は福島第一原発の港湾内0.3平方キロの範囲で完全にブロックされてい』厚顔無恥の無責任発言をしたが、この血は吐くおうな証言を阿倍首相はどう聴くのか!左の「表」は内閣府発表の原発関連の100人に達する「自死」記録である。「原発さえなければ」と酪農家が、「足手まどいで迷惑をかける、お墓に避難します」と自死した老婆の責任は誰なのか!
 これら原発被害・被災者の生活も戻らない中で東電は儲けを出して「黒字決算」だという。そして、この原発被害者を踏み台にして再稼働処や原発輸出とはまさに『キチガイ沙汰』である。除染土砂の行き先処か、使用済み核燃料の処分方法も場所も決まらず、これ以上「使用済核燃料」を増やしてどうするのか。高速増殖炉「もんじゅ」は事故続きで動かず「核燃料サイクル計画」は完全に破綻しており、それでも六ヶ所村の「再処理工場」を莫大に費用を掛けて動かすというのだ。福島原発事故をを教訓にドイツやイタリア、スイスが「原発撤退」を決めたことを首相はどう感じているのか。

 人間のやることに「絶対」はなく、原発事故に「もしも」は許されない。阿部首相は安全を「私が責任を持って判断する」と言ったが、今回の事故でこの告発は不起訴になった。つまり誰も「責任」を取らず首相には責任など取れないのである。
 不起訴を受けて、現在「東京第5検察審査会」に審査請求中であり、多くの皆さんに同「審査会」への呼びかけをお願いしたい。【私の最新ニュース】集へ

 

電話:080-5739-7279  E-mail:1fkokuso@gmail.com
住所:〒963-4316 福島県田村市船引町芦沢字小倉 140-1
 http://kokuso-fukusimagenpatu.blogspot.jp/

 【カンパ送付先】郵便口座名『福島原発告訴団』 

口座番号:(02260-9-118751)

 

 

 

 【「軍機保護法と特定秘密保護法」を考える講演会】

 

 都内の「めぐろさつき会館」で1月25日、「満州合作社事件研究会」(代表・松村高夫慶応大学名誉教授)の主催で、「治安維持法」の第一人者である荻野富士夫さん(小樽商科大)を講師に迎え『戦前の軍機保護法・国防保安法から 現代の特定秘密保護法を考える』が開かれ30人余りが参加した。

 最初に北海道帝国大学の教師だったハロルド・レーン、ポーリン・レーン夫妻(米国人)と学生7人が1941年に『軍機保護法』のスパイ容疑で逮捕(後日一人釈放)された『レーン・宮澤事件』のDVD(市販・入手可)が上映された。その「スパイ容疑」で逮捕された学生の一人が宮澤弘幸でハロルドと共に懲役15年の判決を受けた。妻のポーリンは懲役12年を受けたが二人は1943年9月に交換船で帰米し、終戦後の1951年に北大に復帰したが札幌で生涯を閉じた。また、宮澤は逮捕後、拷問と取調べを受け網走刑務所・宮城刑務所に服役し敗戦後法律廃止で1945年10月に釈放されたものの、栄養失調と結核で1947年2月結核がもとで27歳の生涯を閉じた。

休憩を挟んで荻野先生の講演に移った。

 当時でも破防法の適用はハードルが高いため『軍機保護法』が利用され、昨年末に強行裁決された『特定秘密保護法』(以下「秘密法」)が現代の治安維持法とも言われるがこの『軍機保護法』に近く、当時の『国防保安法』と合わせたような法律という。しかし、この法律は『治安維持法』ほど理解・知られていない。
 この法律は日清―日露戦争の間に生まれ、当時ナショナリズムを煽り「売国奴・露探」などとレッテルを貼り権力が悪用した。法改正で徐々に刑罰を重くし最後は死刑まで課すことができたが、適用された最高刑はレーン、宮澤が受けた懲役15年であった。
 当時は出生兵士を盛大に送り出す一方で「戦死者」の人数などは秘密であった。『軍機保護法』の運用は憲兵で、銭湯での会話で1年6ヶ月の判決を受けた人もいる。しかし、この運用は乱発されたとまでは言えず、この法律が適用されたのは大凡100人くらいである。
 しかし、秘密法もそうだがこの様な法律は次々と適用が拡大され危険である。
 また「売国奴・スパイ・非国民」とレッテルを貼り相互監視や密告社会にならない保証はない。荻野氏自らの体験から現状の「情報公開」を戦前より閉鎖的になっていると指摘した。(2/1)

 

 

 【731部隊資料「情報開示」第1回裁判開廷】

 『731・細菌戦部隊の実態を明らかにする会』(代表・松村高夫慶応大学名誉教授)たちが、米議会の公聴会で「731関連資料は日本に返却した」との報道を受けで、2010年に5回に渡って防衛庁(当時)と面談しその資料公開を請求したが、『衛生学校記事』(57~59年まで毎月発行)など9件の開示請求のうち7件を不存在との理由で開示せず、異議申し立て後も5件を不開示とした。その「不開示決定」の取消と開示を求めると共に、損害賠償の民事訴訟の第1回裁判が04年1月28日、東京地裁705法廷で開かれた。この「部外秘」とされる一部の資料は添付の通り公表されているにも関わらず不開示とした。

 当日の705法廷は傍聴席は支援者などで全て埋め尽くされた。
 法廷では原告の和田千代子さん(「明らかにする会」事務局長)が立ち10分ほどの「意見陳述」をし、被告は3月末までに答弁書を提出すると、次回裁判期日を決め閉廷した。

 昨年末に「特定秘密保護法」が強制採決され、権力に都合の悪い情報は無条件で隠蔽され国民の耳目を塞ごうとしている今、「情報公開」という非常に大事な裁判であり多くの方にご理解・ご支援を戴きたいと思います。 張作霖の爆殺も、満鉄爆破(満州事件)のヤラセも、ベトナム戦争のトンキンワン事件もイラク戦争の大量破壊兵器も全部ウソでした!負けている戦争を「勝っていると」天皇を神とし靖国を利用した歴史を繰り返したなりません。次回裁判期日は下記の通りで是非「傍聴」お願い致します。(1/30)

 ◆4月17日(木)11:45 ・東京地裁419法廷 

 

 【埼玉で『SAYAMA みえない手錠をはずすまで』上映会】

 埼玉県東松山市の「松山市民活動センター」で1月23日、「狭山事件」のドキュメンタリー映画『SAYAMA みえない手錠をはずすまで』(監督:金聖雄、1.45分)が上映され約300人が参加した。

 この事件は50年も前の1963年5月に埼玉県狭山市で女子高生が畑のなかで殺害された誘拐殺人事件であるが、警察は身代金を取りに来た真犯人を取り逃がしてしまった。また、その2ヶ月前にも東京台東区で発生した幼児誘拐殺人事件(吉展ちゃん事件)でも、警察は張り込みながら身代金を奪取される大失態が続き、社会的に大きな批判にさらされていた。

 このためこの狭山事件も警察は何としても犯人を挙げなくてはならなかった。そこで目を付けられたのが被差別部落で貧困のため小学校もろくに行けず、読み書きが十分に出来なかった石川一雄さんだった。石川さんは『お前が認めないなら兄を逮捕する』言われ、生活を担う兄が逮捕されては困ると自白したのである。それを裏付けるように兄は任意取調の中で「弟をかばっている」と言われ否定すると、刑事から『犯人はお前だっていいんだ』とこの映画の中でも証言し、警察のデッアゲであることを示している。石川さんは自分の「無知」が原因と述べているが、それは貧しさからの結果であった。

 被害者の万年筆が一目で分かる場所から発見されたが、過去2回の家宅捜索で無かったことを当時捜査に参加した警察官が証言している。また、事件発生時は自宅で両親と食事をしていた証言は無視されている。また万年筆のインクはブルーブラックだが、被害者は「ローヤルブルー」を使っていたのである。石川さんは無期懲役が確定し94年12月に32年ぶりに仮釈放され2度目の再審請求中である。
 当時、読み書きもろくに出来ない一雄さんがどうしてこのような誤字のない「脅迫状」が書けるのか、上申書との「筆跡」が違うのは写真を見ても明らかである。

 現場近くの畑で働いていた人も悲鳴や助けを聞いていない処か、人影も見てないと今も「証言する」意思表明をしている。
 再審裁判の「証拠開示勧告」で隠蔽されていた一部の160点が開示されいれも石川さんに有利な証拠で、再審の判断は5月頃に出るのではとの見通しという。
 ご夫婦は冤罪の怒りは忘れないものの、生活の中では非常に明るく元気であり、年一度夫人の徳島の実家での休養を楽み、この故郷の海岸での二人は出所後の結婚を決意した。暗くならずに観ることができる映画だった。

 映画は75歳になった一雄さんの朝の河原のジョギングシーンから始まり、体調も良く非常に元気である。映画の内容は事件の経過や証拠をキチント追う手法ではなく、今までと、今の生活からこの事件を追及している。
 殺人犯の兄ということで大変な苦労した兄は、事件後に周囲の大反対の中で結婚した妻と子どもに苦労させてとの発言に、妻は「忘れちゃった、苦しい事はみんな忘れちゃった」と映画の中で言っているが、「忘れる」訳はなく夫への労りと優しさに胸が詰まった。

 

 

 【日常茶飯事・JRの「武器輸送」】

 昨年末、安倍政権は多くの市民が反対や慎重審議を求める中で、政府が何でも勝手自由に「秘密」にできる『秘密保護法』を、強行採決した。

 下記の「写真」(「軍事研究」1月号)はJR貨物が自衛隊の武器や装甲車・戦車などを運んでいる事実であるが、核燃料の輸送も秘密だが、この様な「武器・弾薬」などが身近な生活圏で輸送されているが、今後このような移送も「軍事秘密」と指定されるのだろうか?戦車が道路を北海道から九州まで自走することはあり得ない。(1/5)

 北旭川~西大分間を戦車・自走砲車両などが、ほぼノンストップで往復しているという。一度だけではなく、関東の宇都宮線、東海道線を専用列車が轟音をたてて疾走している姿を見たことがあるでしょう。
 新幹線も有事の際には、隊員数千人を乗せて運行されるでしょう。ここに従事するJR関係社員は、「特定秘密保護法」の軍事機密関係対象となるのです。国が介入する前に企業が「自制」的に社員を統制し、労働組合対策も貫徹されるでしょう。現にいま「軍事輸送」しているJR総連などの労組員が危機を感じているのです。「特定秘密保護法」施行反対の闘いを再構築しなくてはならない。