【2013年】

 ◆【埼玉県本庄市で『中山道伝馬騒動』シンポジウム開催】

 埼玉の本庄市民文化会館で1月13日、『中山道伝馬騒動シンポジウム』が開かれ約700人が参加した。第一部では太鼓やピアノ演奏の後、「伝馬騒動」を解説する25分のビデオが上映された。休憩を挟んで第二部は最初に犠牲者に黙祷を捧げてから『寒風燃ゆる中山道』と題したシンポジウムに入った。会場には250年前にこの騒動に参加した家や、協力した寺などの子孫、研究者などが紹介された。パネラーには主犯とされ斬首・さらし首にされた遠藤兵内の子孫を含む各地の関係者7人が参加し、コーディネーターには集会実行委員で下記『燈火遙か』の著者である荻野栄氏が話しを進めた。

 埼玉の『秩父事件』は可成り知られているが『中山道伝馬騒動』と言ってあまり知られていないであろう。秩父事件から遡る120年前、つまり今から約250年前の江戸時代最大の農民一揆であった。
 当時、大名の参勤交代など移動の手段として中山道の江戸・板橋宿~信州・和田宿まで28宿に1日に馬50頭、人出50名を提供する「助郷」制度があり、上州姫街道や日光例幣使街道にもあった。しかし、幕府の財政が苦しくなりより多くの提供を求め、それまでの29ヵ村から195ヵ村まで拡大した「増助郷」の要請が出された。しかし、当時は数年来の洪水被害や朝鮮使節団接待費分担金、日光東照宮150回忌に下向する日光例幣使街道にも増助郷が出され、年貢も4公6民から5公5民に増税され農民は困窮していた。農民たちは到底それには到底応じられないと、明和元年(1764年)12月、本庄宿に近い児玉郡十条村(現美里町)の十条河原に結集し江戸へ向かった農民一揆であった。

 一揆勢は本庄宿で上州(群馬県)勢と合流、江戸を目指し本庄、深谷、熊谷、鴻巣、桶川宿と南下し宿場ごとに数は増え、桶川宿では20万人にもなったという。幕府は「増助郷」を中止せざるをえなくなり、江戸入場前に桶川宿で関東郡代の伊奈半左衛門忠宥を通して「増助郷」撤回を伝えたのである。

 しかし、年末から翌正月にかけて宿場以外の、足立、比企、高麗、入間、埼玉郡の各地でも、豪農や商人を狙う打ち壊しが始まり、川越藩の藩兵などがに鎮圧された。その後、武蔵国児玉郡関村(現・埼玉県美里町関)の名主・遠藤兵内が主犯として斬首・さらし首にされ、他にも八丈島への島流しや30余名の獄死を強いられたのである


 パネラーは信州・和田宿からは冬の峠越えもあり可成り大変であったであろうと、また、美里町史には可成り詳しく記してあり本庄市にも史料はあるが、信州、上川、下仁田などでは史料が少ないという。

 当時、本庄地区の助郷は年2万7千余りの人手と、馬1万6千頭の要請があり、3~10月の期間に月に1300人余り、毎月3~4人が必要とされたという。
 当時「一揆」は他にもあったが藩内の地域に止まり、この騒動は直接江戸幕府へのもので、これが大きな転機となり明治日本への黎明になったともいう。今後も関係者の研究が続くであろう。

 いま安倍内閣が暴走を続けており、私たちもこの暴走を何とか止めなくてはならない。

 

『燈火遙か~読み本・義民遠藤兵内物語』

  著者:荻野 栄 

  発行:エクレセントサーチャーズ(FAX:0495-76-5003)

  発売:2011年11月30日(定価800円税込)

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【私の最新ニュース・2013年】

◆【再稼働反対★国会大包囲】集会(12/22)

12月22日(日)東京「日比谷野外音楽堂」で北風の寒いなか原発再稼働反対の集会が開かれ、多くの参加者で会場から溢れる人たちまで出た。集会は最初に「再稼働反対、原発は要らない」なのどシュプレヒコールから始まった。

 ゲストの最初に立った女優の木内みどりさんは、社会や政治に関心が無く夫の静岡県知立候補にも断固反対したりしていたが、3.11を体験しい「無知、無関心」だったことを恥てデモに参加する様になった体験などを話し、放射能に見えない恐怖を訴えた。
 続いて木内さんの夫・水野誠一さん(元参議委員議員)が多くの無関心の人たちに、諦めずに根気よく理解説得が必要であり再稼働など「正気の沙汰ではない」と訴えた。 そして、ルポライターの鎌田慧さんは1000万人署名が840万筆集まり「もう一息」と訴えた。そして、いま福島の子どもたちやお母さんたちが、どんなにか心配しているか訴えた。日本で稼働できない原発を輸出などは話しの他であり、これからも諦めないで廃炉を訴え続けようと呼びかけた。

 13時からの集会は約1時間で終わり、その後、各自国会や官邸に向かい15時半から国会を包囲し包囲し完結したと発表があった。国会正門前には菅直人元首相も駆けつけ原発廃炉を求め、集会で発言した鎌田慧さんも再稼働反対を此処でも訴えた。

 安倍首相は再稼働は『私が責任を持って判断する』と発言したが、首相には「責任はとれない」のである。先の責任ではなく今回の原発事故の責任を誰が取ったのか!

 安全なら避難計画も避難訓練も必要なく、原発に「もしも」は許される人間は「ぜった」ではないことを今回の事故は証明したおである。電気は足りており、原発は「安くない」ことも証明された。この先、52基の廃炉にどれだけの時間と費用が必要なのか。

 原発被災者を「踏み台」にした東電の黒字決算など言語道断であり、日本を教訓に独や伊が廃炉を決めたにも関わらず、当事者の日本が再稼働や輸出などに、鎌田氏の「正気の沙汰」ではないとの指摘は真っ当である。【私の最新ニュース】集へ

 

 

◆【東京・王子で『再生の大地合唱団』公演】(12/9)

 

 東京・王子の「北トピア・飛鳥ホール」で12月9日、『再生の大地合唱団』のチャリティーコンサート(主催:同合唱団)が開かれた。この公演は中国・撫順市が今年8月に大規模な水害に見舞われ、その支援チャリティーコンサートで250名余りが参加した。
 「再生の大地合唱団」は戦時中に日本軍による平頂山大虐殺や、撫順戦犯管理所で日本人戦犯が人道的扱いを受け「鬼から人間」に戻った原点を知り、「日中友好と反戦平和」を願い公演を続け、今年9月の訪中では盛大な歓迎と報道を受けた。

 

 

 最初に井上久士氏(駿河大学教授)が「平頂山事件」について、その経緯などを説明し、その後、姫田光義氏(中央大学名誉教授・「受け継ぐ会」代表・合唱団団長)が、撫順戦犯管理所と中帰連について解説した。休憩を挟んで合唱団の合唱朗読構成『再生の大地―撫順戦犯管理所―』(詩:大門高子、作曲・ピアノ演奏:安藤由布樹)に移った。

 この詩は戦犯たちの体験を次の11部で構成している。『①序曲 大地②満州国 撫順、②平頂山事件、③シベリアから撫順へ、④目覚めへ、⑤学ぶことは、⑥認罪―鬼から人間へ―、⑦赦しの裁き、⑧命ある限り―中国帰還者連絡会―、⑨終曲 撫順の奇蹟、⑩撫順の朝顔、⑪めざめの花―前之事和忘 後之事師』の約1時間の朗読組曲は感動的だった。会場から何時までも拍手が続いていた。最後に『撫順朝顔 目覚めの花―前之事和忘 後之事師』と『今日の日はさようなら』を全員で歌い閉会した。

 

日本軍が虐殺した【平頂山惨案遺骨館】
日本軍が虐殺した【平頂山惨案遺骨館】

『平頂山事件』とは
 戦時中、日本が接収していた「撫順炭坑」への中国側襲撃で死傷者を出したことで、その翌日の1932年9月16日、その制裁・復讐のため「写真を撮る」と軍が一カ所に住民を集め約3000人の住民を機関銃などで虐殺し、崖をダイナマイトで爆破し埋めた場所。戦後、中国がその遺骨の一部を掘り起こし保存管理し一般公開している。この様な場所を「万人坑」と言い中国各地に日本軍の虐殺現場が在る。

 

『撫順戦犯管理所』とは
 戦後、捕虜としてシベリアに5年間抑留された約60万の元兵士のうちの約1000人が、ソ満国境の「綏芬河」で中国に「戦犯]として引き渡され6年間収容された場所。

 そこでは周恩来の『復讐や制裁では憎しみの連鎖は切れない。20年後には解る』と人道的扱いを受け、彼らが「鬼から人間」に戻った原点の場所。56年の特別軍事法廷では周恩来が判決文を3回も書き直させ、一人の無期も死刑も認めなかった唯一の軍事裁判だった。彼らは帰国翌年の57年に『中国帰還者連絡会(中帰連)』を立ち上げ、高齢のため解散した02年まで自らの戦争体験や加害を証言し続けてきた。

 

葉がハートが形の【赦しの花・撫順の朝顔】
葉がハートが形の【赦しの花・撫順の朝顔】

「撫順の朝顔」とは

 戦争で加害・虐殺体験をしながら「起訴免除」になったある戦犯が、帰国の時に管理所職員から『もう武器を持って大陸に来ないで下さい。日本に帰ったら幸せな家庭を築いて下さい』と、管理所の中庭に咲いていた朝顔の種を数粒もらって帰国した。彼はその「朝顔」を何10年も亡くなるまで毎年大切に咲かせていた。「受け継ぐ会」九州支部がこの聴き取りをし『赦しの花』という子ども向けの絵本にして発行したことで広がった。高齢のため解散した「中帰連」の意思を受け継ぎ活動している「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」の仲間などが、この葉が「ハート型」の『赦しの花・撫順の朝顔』をいま全国で咲かせている。(12/10)

  

 再生の大地合唱団 「団員」募集中
【撫順の奇蹟を受け継ぐ会】 tyuukiren@yahoo.co.jp
季刊 中帰連】co_ru0911@yahoo.co.jp
NPO・中帰連平和記念館chuukiren@nifty.com

 


 

◆【東京・千駄ヶ谷で『三鷹電車区事件』の再審を求める集い】(12/6)

東京千代田区の「千駄ヶ谷区民会館」で12月6日『三鷹事件再審を求める集い』が開かれ約100人が参加した

 いま「三鷹事件」と言ってもどれだけの人が知っているだろうか。 敗戦間もない49年7月、当時の国鉄三鷹電車区から無人電車が暴走し死者6名、負傷者10数名を出した事件である。この10日前には国鉄の下山定則総裁が常磐線で轢死体で発見された「下山事件」、更に8月には東北本線の松川駅近くで列車が脱線転覆し蒸気機関車の乗務員3人が死亡した「松川事件」も発生し「国鉄3大ミステリー事件」と言われた。

 「松川事件」は被告のアリバイを検察は最後まで隠していたが、上告審でアリバイが開示され死刑判決を含む全員の無罪が確定し下山事件は迷宮入りとなり、この3事件は「謀略」の可能性が指摘されてきた。
 当時、日本はまだ占領下にあり戦後民主化を進めていた米は、朝鮮戦争勃発をキッカケに急旋回し共産党弾圧の「レッドパージ」や国鉄10万人の首斬りの中で起きた事件で、三鷹事件も当初共産党の仕業とされた。
 しかし、大きな矛盾が生じ結果として非共産党員の竹内景助1人の犯行とされた。武内は当初否認したがその後の自白で一審は無期懲役、控訴審で書類審査だけで無期から死刑判決、最高裁は口頭弁論も開かず、8対7の一票差で死刑判決を確定した。

 

高見澤弁護士
高見澤弁護士

 集会は「三鷹事件再審を支援する会」共同代表の大石進さん(元日本評論社社長・会長、布施辰治弁護士の孫)と、「三鷹事件の真相を究明し、語り合う会」の堀越作治さん(元朝日新聞記者、当時、事故現場に居た)の挨拶に続き、三鷹事件弁護団の高見澤弁護団長、野嶋主任弁護士、米倉事務局長弁護士、中村弁護士から経過や現状報告があった。
 弁護団の「証拠開示請求」に裁判所が検察に開示勧告し、69点の証拠が開示されたが何れも検察の補強証拠になるような物ばかりであり、更に、開示を求め署名運動も進めていくと協力を求めた。

 次に、「名張ぶどう酒事件」の映画『約束』を製作した、東海テレビのニュース担当編集長の齊藤順一さんが「名張ぶどう酒事件 映画を作って見えてきたこと」と題して講演し、「死刑囚と家族、支援の大切さ」についえ体験を語り、主演の仲代達也や樹木希林などが権力に逆らう事を覚悟の上で出演を承知してくれた裏話しなどもあった。

 

当時の「三鷹電車区」三木分会長
当時の「三鷹電車区」三木分会長

 その後、各会からの発言として、当時の関係者である福田玲三さん(元国労書記)、三木昭さん(元三鷹電車区分会分会長)や、客野美喜子さん(なくせ冤罪!市民評議会)、瑞慶覧淳さん(日本国民救援会)から発言があった。特に、当時の三鷹電車区分会長の当時の状況説明は貴重な話しだったが、結局「獄死」させてしまい力が足りなかったと無念を訴えた。
 最後に「支援する会」共同代表の松村髙夫さん(慶応大学名誉教授)がまとめの発言に立ち、今後の協力と署名活動への協力などを訴えて閉会した。(12/9)
 
三鷹事件を支援する会 
東京都三鷹市下連雀 3-6-51-301
TEL:0422-26-8029 FAX:0422-42-5803
E-mail:mitaka-case@isiand.dti.ne.jp

 

 

 

◆【「秘密保護法」阻止、国会前集会】(12/5)

 

 『特定秘密保護法案』が特別委員会で強行可決された5日、私は国会正門前に居た。国会前では太鼓を叩きながら組織に参加していない多くの市民が旗もプラカードも持たず身一つで参加し、会場で配られたプラカードを高く掲げ「強行採決絶対反対!」とシュプレヒコールをあげていた。

 16時10分過ぎ委員会で「強行採決」の情報が流れるとシュプレヒコールは「採決撤回!」に変わった。共産党議員が状況説明に駆けつけ、更に、その後、小森陽一さんが「特定秘密法案に反対する学者の会」の賛同者は3000名を超えたと、その危機を訴えた。自主的集会参加者は夜になって、仕事を終わったサラリーマンなども加わり、夜遅くまで抗議の声が続いた。

 さいたま市の「地方公聴会」も突然だったが、政府は「第三者機関」の必要性を否定できなくなり、唐突に「情報保全観察室、保全観察委員会、情報保全諮問会議」(何れも「政府内」の組織)を提案したことは法律の欠陥を認めたことであり、国会答弁や附則に盛ることで解決できる問題ではなく廃案にすべきである。(12/7)

 

 

国会正門前に抗議する市民
国会正門前に抗議する市民
夜にも続き抗議の市民
夜にも続き抗議の市民

◆【劇団希望舞台『釈迦堂柩唄』を観て】(11/18)

 11月28日、所沢の「市民文化センター(マ-キーホーム)」で、劇団希望の舞台釈『迦内柩唄』を観てきた。「釈迦内」は秋田県、花岡鉱山近くにあった在所である。
 その地で代々続いた「焼き場」の家業を継ぐことになった末娘・ふじ子の物語。その仕事ゆえに忌み嫌われ、蔑まされる家族。しかし、そこには家族の深い絆と愛情、わけへだてのない、人間に対するやさしさがあった。
 酒を飲まずにいられらなかった父、その父が山の畑いっぱいに咲かせたのは火葬場の灰で育てたコスモスだった。人の顔かたちが違うようにコスモスの花もまた、 ひとつひとつ違って風に揺られて咲いている
 父・弥太郎が死んだ日、ふじ子は父を焼くカマの掃除をしてしていた。 ふじ子の胸に、さまざまな家族の思い出がよみがえる。 2人の姉のこと、母親のこと、花岡鉱山から逃げてきた崔さんのこと、そして憲兵に殺された崔さんを焼かねばならなかった日のことなど・・・。
 コスモス畑ぬけてくる馬車の鈴の音。いつもは棺桶は運んでくる馬車が、今日は姉さんたちを載せてる。家を離れて遠くに暮らす姉たちがは帰ってくるのだ。父を弔うために・・・。(「チラシ」の解説より)

 言葉は全て「秋田弁」で自分を吾(わ)、父を「おど」、母を(おが)などと使っている。昔は「おんぼ(隠亡)」とも呼ばれたが、偏見は今でもあるのでだろうか。
 その仕事ゆえ二人の姉たちは家を出た後も苦労し、彼女も子どもの頃から差別と偏見に遭った。彼女も年頃になって恋人ができたが家業を知ると離れていった。父に「なぜこんな仕事」と聞くと、祖父が埋葬の「穴堀り」をしていた頃からで、父はその後を継いだ。両親は片足不自由の障害から嫁に行けなかった母と、仕事ゆえ嫁が来なかった父との出会いだった。貧乏育ちの母は遺族がくれる供物などを喜んだ。兄2人、姉2人の5人の子に恵まれたが2人の兄は満州と南方で戦死してしまう。
 母は50代で亡くなるが、戦時中「花岡鉱山」から脱出してきた朝鮮人・崔さんが救いを求めこの家に辿り着いた。葬儀以外に誰も訪ねる人のない家族は親切に対応するが、追っての軍人に見つかり射殺されてしまう。軍人は父に「火葬しろ」と命じるが、父は「火葬承諾書」が無くては焼けないと突っ張るが、母が代わって焼くのである。当時、多くの朝鮮、中国人が日本中に強制連行され花岡鉱山でも人間扱いされず多くの中国、朝鮮人が犠牲になった。

 

 この公演を観て改めて「差別や死」という事を考えさせられた。
 「人間は死ねばみんな同じだ。天皇陛下も・・・」の言葉が印象的だった。身分も貴賤も関係なくみんな死んで逝くのであり、それ迄を「如何に生きたか」が大事であろう。
 この「花岡鉱山」では中国人986人が強制連行され45年6月迄に137人が亡くなり、一斉蜂起への弾圧・虐殺を含め焼く半数の419人が犠牲になっている。
 当時の一斉蜂起の隊長で、戦後、鹿島への「賠償請求裁判」の原告団長でもあった耿諄さんは、鹿島が責任を認めない「和解金」を受け取らないまま、2012年8月27日に自宅で98歳で亡くなっている。(2013.11.29)

(詳細は【弁護士が騙した!花岡和解】) 【劇団希望】 

 

 

 

◆【埼玉県越生町で「フルート演奏と原発映画」の上映会】(11/24)

集会「チラシ」
集会「チラシ」

 

 埼玉県越生町で11月24日、フルート演奏と、原発・放射能問題を投げかけて記録映画『福島六カ所未来への伝言』の上映会が開かれ80人余りが参加した。1万2千余りの町で、3週間前に立ち上げた「実行委員会」の企画に会場がいっぱいになったことは、如何に多くの人が原発に感心を持っているか解る。当日は司会と実行委員長の田島公子さん(前越生町町長)の挨拶の後、第一部に入った。

 

 第一部は隣町の「ときがわ町」在住のフルート、オカリナ奏者のAyaさんが、ヘンデルの「ラルゴ」やバッハの「シチリアーノ」、「涙そうそう」や童謡の「もみじ」「赤とんぼ」などを演奏し、最後にはロシア民謡メロディーを演奏した。

 

 第二部は島田恵・初監督の『福島六カ所未来への伝言』(約105分)が上映された。
 原発被災地の家族の避難生活や現状、また核廃棄物の核再燃サイクル施設のある六カ所村の歴史や経緯と現状を記録した映画である。島田監督は90~02年の間、六カ所村に住み込んだ。

「会場」いっぱいの参加者
「会場」いっぱいの参加者

 原発の「廃止・廃炉」を訴える映像の多くはその危険や否定だけを訴えるが、この映画は賛成や容認派の考えや主張も入れている。現に、原発補助金なしでは成り立たない自治体や、関連労働者の事を無視することはできず貴重な映像である。

 原発被災者の不安や転々とした避難生活を追い、福島では売れない米の生産や、捨てるための漁業などへの疑問や被害も記録している。この映画を観て自然に生きる農業や漁業の皆さんが如何に「自然」を求めその中で暮らしているか解る。都会の人間は自然を壊し過ぎ、時間に追われ便利さを優先し過ぎてきたのではなかろうか。

 経済・消費優先ではなく、もっと「足るを知る」という言葉を思い出すべきだ。「宣伝」しなくては物がはけない程の生産は過剰生産であり、それでも景気刺激のため消費拡大という考えは間違いであり、偏った「富の再分配」こそ必要である。
 原発問題を真剣に考える基調な映像であり、この先を生きていく子どもたちへの大人の責任を改めて感じた。多くの市民に「自主上映会」を設定して欲しい映画であった。

 HP:http://www.rokkashomirai.com/
自主上映会取り合わせ:042-727-8559   070-6523-8559

   

 

◆【731部隊、元少年隊員90歳のお祝いと記録映画の会】(11/23)

 千葉県在住の篠塚良雄さんは中国哈爾浜・平房で多くの中国人を「マルタ」と称して生体解剖などを行った「713・石井部隊」に少年隊員として15歳から4年間勤務していた。
 その責任者の石井四郎は米に研究資料を渡すことで免責され、また多くの当時の軍医は戦後、製薬会社や医学界の重要ポストに就いている。しかし、篠塚さんは命令ではあったが「実行者として責任がある」と、長い間、731部隊や自身の加害体験を証言してきた。

90崔を迎えた篠塚さん
90崔を迎えた篠塚さん

 戦後、篠塚さんたちが組織した「中国帰還者連絡会(中帰連)」(高齢のため2002年解散)の意思を受け継いだ「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」千葉支部の主催で11月23日に90歳を向かえた篠塚さんのお祝いの席が設けられた。

 篠塚さんは各地で証言しその証言は『日本にも戦争があった~七三一部隊元少年隊員の告白』(新日本出版)に纏められたり新聞報道もされてきた。また、当日は山岡央監督が篠塚さんを追い続けたドキュメンタリー映画『前之事和忘 後之事師~731部隊少年隊員の証言 (59分)も上映された。この映画は2010年第13回の「ゆふいん文化・記録映画際」で松川賞を受賞している。

 当時、篠塚さんが「731」に着くと何の立て看板も無く「見るな、聞くな、言うな」と指示されたという、そして、篠塚さんはペスト菌を運んだこと、そのペストに日本人の仲間が感染し秘密裏に処理されたこと、マルタと称した中国人の顔までデッキブラシで洗ったことなどを証言している。

 あの戦争は明らかに「侵略・加害戦争」でり、日本人の死者310万人というが、その一方で中国人1000万人、アジアで2000万人もの犠牲を強いたとも言われている。しかし、中国は賠償権を放棄し、56年の特別軍事法廷で周恩来は判決文3回も書き直させ、一人の死刑も無期も認めなかった寛大措置を日本人は忘れてはならない。


 

◆【警視庁公安による「盗撮」上告】(11/21)

2008年10月13日、東京「なかのZERO」の大ホールでに反戦平和集会『2008年10・13怒りの大集会』が開かれた。
 その会場入り口前の僅か幅3.6メートルの道路を挟んだ向かいに、マスクやサングラス姿で単眼鏡やメモ帳を手にした警視庁の私服警察官60名ほどが(警察は40名と主張)が参加者を監視(被告は「視察」と表現)していた。

会場前で「監視」する60人余りの公安警察
会場前で「監視」する60人余りの公安警察

 当日はそれだけではく、更に中野駅から会場へ向かう道路に面した喫茶店「ベローチェ」内のカウンター越しに、私服警察官3人がビデオカメラ2台で集会参加者などを『盗撮』していた。

「盗撮」していた喫茶店「ベローチェ」
「盗撮」していた喫茶店「ベローチェ」

   この警察の盗撮は憲法第21条で認められた集会の自由への「威圧・干渉・妨害」であると「国家賠償」を提訴したが、1、2審は原告の主張を認めず敗訴し上告、11月21日弁護団などが「上告理由書」を東京高裁に提出した。

 被告・東京都はこの集会が実質「革マル」主導の集会でその情報収集と主張し、証拠写真亜を獲られている飛行は事実を否定できなかった。
 判決は「参加者の前に立ち制止したり、全員の住所氏名など個人情報を聴取したり、全員の顔写真を撮ったりしたわけではなく、集会は予定通り開催された」などと原告の主張を認めなかった。

 そして、原告のプライバシーや監視の威圧との主張には、判決理由のなかで、何と集会参加の自由は【当該集会に参加していることが秘匿されることまで保障されているわけではなく、集会参加者が、集会に参加することが外部から認識され、場合によっては個人が識別され、特定される危険があることも自ら覚悟し、自己の責任において集会に参加するかづかを決定すべきことを留意する必要がある】とまで言っている。
 つまり集会参加や思想信条を知られたくなければ「集会参加すな」と言うことで、参加するなら特定されることを覚悟すべきで、それは「自己責任」だというのだ。

 

(発見され、慌てて余所を向くカウンターの公安)

 

 

 集会参加は思想信条の「監視」を覚悟しなくては参加できないのか、こんな判決を許してはならない!
 また、正統な業務と言うなら、発見された公安は発見者を突き飛ばしてまでなぜ逃げ出したのか? 逃げ出さずに現場で発見者を何故「公務執行妨害」で現行犯逮捕しなかったのか?明らかに「ヤバイ」と思ったから逃げ出したのであり、正に脱兎の如く逃げ出したのである。報復戦争を許さない市民の会

 

 

◆【「秘密保護法案」反対で日比谷野音に1万人!】(11/21)

 「特別秘密保護法案」に反対する集会が11月21日夜、東京「日比谷野外音楽堂」で開かれ、定員3000人の会場は開会前に閉鎖されたが、会場内外で市民ら1万人が参加した。当日はこの集会に合わせて大阪、名古屋、沖縄など全国14カ所で同時開催された。

 主催者代表として立った海渡雄一弁護士は、みんなの党妥協に「首相は第三者ではなく当時者であり、また維新の会の開示60年にはここに居る人は何人生きているのか」などと訴えた。
 駆けつけた民主党、日本共産党、社会民主党、無所属の国会議員の紹介、代表の挨拶と日弁連代表の挨拶の後、各氏の発言に移った。

 主催者代表として立った海渡雄一弁護士は、みんなの党妥協に「首相は第三者ではなく当時者であり、また維新の会の開示60年にはここに居る人は何人生きているのか」などと訴えた。
 駆けつけた民主党、日本共産党、社会民主党、無所属の国会議員の紹介、代表挨拶と日弁連代表の挨拶の後、各氏の発言に移った。

【私見】
 何が秘密が時の政府が「信用しろ」と自由に勝手に決め、第三者のチェックもなく殺人犯にも等しい懲役10年で脅す「秘密保護法案」は違憲である。
 憲法には国権の最高機関は「国会」とあり、この法案はその国会の「国政調査権」を否定するものである国家権力が勝手・自由に「秘密」を決めていい訳はなく、他国にはチェック機関が設定されている。そもそも、外交、防衛の秘密には既に国家公務員法や自衛隊法に規定してあり、殺人犯と同じ懲役10年で脅し知る権利を奪うなど言語道断である。特定有害活動」とはなにか!?政権に反対する運動は全て「有害」と見なされた治安維持法の過去を忘れてはならない。そもそも条文に「36カ所もその他」がある事は法律として欠陥である。
 みんなの党の「首相が第三者」とは日本語を理解しておらず、首相は国家権力の当事者である。また、維新の会の60年後開示は当事者は殆ど生きておらず、真相究明も責任追及もできない。
 逮捕起訴されてもその理由が「開示」されずデッチアゲさえでき、「何でもあり」の社会は正に「治安維持法」や「特高警察」の社会に戻ることになる。民主主義とは原則「公より個が優先」する社会であり、個より公を優先した戦前、戦中の社会を再認識すべきである。

 日中戦争で張作霖の爆殺も満鉄爆破(満州事変)も関東軍の「ヤラセ」であったことは秘密であった。否、731部隊の生体解剖も強制連行も秘密で、負けていた戦争を「勝った勝った」との報道も秘密だったのである。
 戦後、常磐線の脱線転覆事故の松川事件の被告のアリバイの「諏訪メモ」の存在も、沖縄秘密も秘密であった。この法律ができていたら西山記者は監獄にぶち込まれていたのである。足利事件、布川事件、東電OL事件の「無罪証拠」も秘密で、志布志事件や厚生省の村木事件もデッチアゲであった。
 ベトナム戦争のトンキン湾事件もイラク戦争の大量破棄兵器のウソも秘密であった。ドイツのメルケル首相の携帯電話盗聴も秘密であった。殺人と同じ懲役10年で脅し、権力の秘密がバレることを防ぐのが「特別秘密保護法案」の目的である。条文ではなく「附則」への記入など機能しない。
 第三者のチェックもなしに、何でも政府が決められる法律は「国民の知る権利」を侵し治安法持法以上の悪法である。戦時中にウソの情報を流され「知る権利」が侵された事をもう忘れたのか!

  本来、中立的第三者の立場である日銀総裁や内閣法制局長官の首をすげ替えた安倍首相が、今度はNHK会長の任免権を持つ「経営委員」にお友達を据えた。更に、教科書に「政府統一見解」を載せろと圧力を掛けている。安倍政権打倒!

 因みにこの「集会」は東京と毎日新聞が1面、朝日が社会面、NHKも報道しましたが「読売新聞」は報道しなかった

 

 

 ◆集会『私はこうして「自白」した』(11/17)

 さいたま市の「埼玉会館」で11月16日、デッチアゲだった鹿児島の「志布志事件」の二人のえん罪犠牲者を招き、【私はこうして「自白」した】と題したパネルデスカッションなどが開催(主催:埼玉弁護士会)された。 

「埼玉会館」の会場
「埼玉会館」の会場

最初に埼玉弁護士会の新穂正俊弁護士が「えん罪が作られる原因」と題して基調報告をした。逮捕3日後の勾留延長の10日、更に10日の23日も勾留され、接見禁止の情報遮断の中で取調べを受け、家族に会いたい、会社が心配、早く出たい・・・など、心理的恐怖や圧力どで自白に至り、自白の誘因は取調より「勾留」そのものと指摘した。裁判官は逮捕状も勾留延長も接見禁止もほとんど異議を認めず、えん罪は裁判官が悪いと指摘した。

 困った時は1回だけ無料で接見してくれる「当番弁護士制度」や、預貯金などが50万円以下なら逮捕されても起訴前からに国選弁護も受けられるなどと制度も紹介した。

「解説」する野平弁護士
「解説」する野平弁護士

 続いて埼玉弁護士会の吉岡毅弁護士をコーディネーターに、「志布志事件」のえん罪被害者のAさんとBさん、そして鹿児島弁護士会の野平博康弁護団長、埼玉弁護士会の長沼正俊弁護士のパネルディカッションに移った。
 最初に野平弁護士から事件の概要説明があり、この事件は志布志市の数10軒の小さな「懐集落」の「選挙買収事件」とされ、鹿児島地裁で無罪判決が確定しえいる。

 えん罪被害者のA,Bさんが撮調べの状況や勾留の状況などを語った。

 最初は何の取調か理由も解らず、長時間の取調べで何を言っても信じてもらえず、任意取調べと言っても家に戻ることはできず、机を蹴飛ばしたり大声を出した「死刑にしてやる」とまで言われた。

 Aさんの奥さんは任意聴取の初日に自白し、4日後に夫婦で柿の木で首を吊ろうとして子どもに止められたが、Aさんはその後滝に飛び込んで自殺を図ったが近くの人に救助され、その後、再度首を吊ったが紐が切れ3度も自殺を図ったことなどを話したが、その後も取調が続いた。

 この時に救助してくれた人が「死んだ方がましだ」とのAさんの言葉が、調書では「死んでお詫びをする」と警察が偽造調書まで作っていた。この事件のため次女は学校を止めたいと言い、地元での就職もできず離れた千葉で働いているという。今でも写真や実名を拒否していることは、無罪確定後も如何に困難な生活を強いれているか解る。現在「国賠」訴訟中である。

 休憩を挟んだ質疑応答の後、3人の弁護士が寸劇で「取調状況」の様子が演じられた

弁護士による「取調」の再現寸劇
弁護士による「取調」の再現寸劇

 えん罪は昔のことではなく今も続々と続いており、えん罪処どころかこの「志布志事件」も、厚生省の「村木事件」もデッチアゲだった。取調の全面可視化と証拠の全面開示が必須急務である。

 

 

 

◆『JR東労「浦和電車区事件」から11年で集会』(11/6)

 埼玉の『浦和電車区事件』から11年を迎えてJR東日本労組と浦和電車区事件を支援する会」主催の【弾圧に抗して11年!見世志会とともに当たり前の職場活動を守り抜く11・1大集会】が、11月1日、東京・日比谷公会堂で開かれ2000名余りの定員は全国の仲間と支援者で埋まった。

挨拶に立つ千葉委員長
挨拶に立つ千葉委員長

『浦和電車区事件』と言っても残念ながらどれだけの人が知っているだろうか、この事件以降に同労組に加入した1万人余りの組合員もこの事件を知らないという。この事件は本気で労働運動や平和運動をしてる同労組の役員を含む7人が逮捕起訴され有罪が確定した、権力による『弾圧デッチアゲ事件』であった。彼らは取調の中で『労働組合が平和運動など生意気だ!外から壊れないから中から壊し、組織を半分にしてやる』などと言われている。

仲間かr『激布』を受ける「美世志会」の皆さん
仲間かr『激布』を受ける「美世志会」の皆さん

 同労組のY君が敵対してる「グリーンユニオン労組」のキャンプに参加したことを、労組役員らが反省などを求めた正統な組合運動に、その後、自主的に退社(その後、同社に再就職)したこことを「強要罪」だと逮捕起訴れた事件である。
 現場が浦和にも関わらず捜査・逮捕したのはに「警視庁公安2課」であったことからもその目的が解る。傷害でも殺人でもない「強要罪」で彼らは344日(ここから「美世志会(ミヨシ)会」を立ち上げた)も未決勾留され自白を迫られたが否認を通した。彼らは上告を棄却され執行猶予付きの懲役1~2年が確定したが、逮捕から9年3ヶ月も経っていた。しかし、権力の「労組弱体化や破壊」の目的は果たせず、逆に団結力が強くなり今も彼らは他の冤罪事件の支援をしている。

 

 集会は千葉勝也JR東労組委員長、支援する会の飯沼勝男さんの挨拶で始まり 、連帯の挨拶には鈴木邦夫さんや布川事件の杉山卓男さんなどが立ち、その後、JR東労組の中村忠史・副委員長をコーディネーターに、「美世志会」7名による「パネルデスカッショ」ンに移った。内容は主に彼らの取調状況や勾留体験の実体験者の話を聴く機会は少なく非常に貴重は話しであった。

 当初「反組合的」考えだった斉藤秀一さんは労組の差し入れなどを断っていたが徐々に理解が深まり、また、何度も自白しそうになった人もいた。しかし、彼らは孤立せず労組仲間の力強い支援が続き大きな力になり頑張れたという。 その後、中村忠史弁護士から経過報告などがあり、仲間から「激布」が贈呈され、最後に下記の『アピール』が採択され「団結頑張ろう!」で集会を閉じた。「冤罪」は昔のことでなく今も続いており、取調の完全可視化と証拠の全面開示が必須急務である。

 

 

◆【田中正造没後100年で、続く地元のイベント』】(8/29)

 

今年は「義人」とまで言われた田中正造の没後100年(「百年忌」は昨年)を迎えた。3・11の「津波と原発被災」で改めて田中正造や宮澤賢治が評価されている。 正造の地元・栃木県佐野市で昨年から今年にかけて『田中正造没後100年記念事業を進める会』(以下、同会)を中心に講演会、映画会、フィールドワークなど各種のイベントが続いており、8月25日にその一環として『第41回渡良瀬川鉱害シンポジウム~田中正造の実像を知り、今何を受け継ぐか』が佐野市中央公民館で開かれ360人が参加した。 集会は始めに3・11の犠牲者と鉱毒被害などを含めた皆さんへ「黙祷」を捧げてから集会に入った。

 オープニングでは地元・野州小桜(同じ小学校の先輩後輩)の皆さんによる鉱毒を批判し、被災農民の苦難を訴え、社会を批判した12番にも及ぶ長い詩を小学生が暗記し、樽を叩き笛をなどを交えて『田中正造八木節』が披露された。その詩のが晴らしく、最後の12番のみ下記に紹介する。

 


二度と起こすな 鉱毒事件
二度とみだすな 我らの平和

天に昇りし 正造翁に 誓う
我らが 正しい権利
桐生足利 佐野又古河と
土地も栄えて 豊年祭り
これが明日の日本が創るが
オーイサネー

 

 

その後、菅井益郎氏(国學院大学教授)の主催者代表挨拶と来賓の岡部正英佐野市長と島田嘉内佐野市商工会議所会頭の挨拶があった。 冒頭に同会副代表の赤上鋼氏により当日の「資料」を使い正造の生涯の概要解説の後、当時の支援者のご子孫の皆さんの挨拶と、親や祖父などから聞いた話などの紹介があった。

【正造が持ち歩いていた「石」】
【正造が持ち歩いていた「石」】


「直訴状」を書いた幸徳秋水・子孫の幸徳正夫氏、谷中村の強制破壊後も仮小屋をて建住み続けた島田熊吉・子孫の島田稔氏、正造が臨終した庭田清四郎・子孫の庭田隆次氏、正造を支援し追い続けた新聞記者の木下尚江・子孫の木下雅雄氏、正造が家族のように信頼し付き合っていた松本ナヲ・子息の松本好夫氏の各氏が、親や祖父などから聞いたエピソードを披露した。特に松本家には遺品が多く在り、当日も正造が持ち歩いていた小石の他、位牌、最初の戒名の掛け軸などが披露された。また出席予定だった板橋明治氏(渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会長)からはメッセージが届き代読された。 そして、この「渡良瀬川研究会」を長年続けてきた元代表(現・顧問)の布川了さんが、今日は41回目のこんな盛大な集会が開け「続けてきて良かった」と胸を詰まらせて感謝と経過を述べた

(左から一人置いて)赤上さん、幸徳さん、島田さん、庭田さん、木下さん、松本さん
(左から一人置いて)赤上さん、幸徳さん、島田さん、庭田さん、木下さん、松本さん
講演する小松裕教授(熊本大学)
講演する小松裕教授(熊本大学)

昼食休憩を挟んで午後の冒頭に埼玉大学の学生有志代表して二人の学生が『田中正造記念日』をつくりたいと、『田中正造没後100年に当たり、流域・水系に寝明日自然と人に優しい流域社会の構築を目指す提案』を披露した。

そして、メインゲストの一人である加藤陽子氏(東京大学教授)が『近代の戦争と田中正造』と題した講演に入った。 氏は鉱害の原点である古河と密接に関係していた原敬と対峙した正造との関係を振り返った。正造は「なぜ、多数派の形成をとらなかったのか?」、「原の目に映じた田中正造」など、原と正造の関係につて当時の状況や見解を述べた。 次に、菅井益郎氏がプロジェクターを使い『東電福島第一原発をめぐる現状と問題』と題して報告した。

その後、田中正造研究の第一人者である小松裕・熊本大教授が『3・11正造ならどうする(した)か』と題して講演した。 小松市は下記の6点を示した。

①「真っ先に駆けつける。傾聴する。押し出しを組織する?」

真っ先に被災地に駆けつけ目の前で苦しんでいる人、困っている人を助けたであろう。そして、東北人は我慢強いなどと言わせず「国会議員は何をしている!」と「押し出し」を組織したではないかと推測した。

 

②「子どもたちの『いのち』を守る」

政府は「直ちに健康に被害はない」との発言に、正造の『少しだもの 人の命に害在ありて 少しくらいは 良いと云うなよ』の言葉を紹介した。恐ろしいのは外部被爆より内部被曝であり、そのメカニズムも放射能という見えない毒は当時の鉱害と同じである。当時、子どもの下痢が多く、20%の子に運動障害があり、2歳未満の子の死亡が多かった。胎盤を通して毒が回ったのであり胎児性水俣病委と同じである。

 

③「政治家を叱咤」

人民の命と財産を護ることが議員の努めであり、正造はそれが出来ずに議員を辞職した。当時、正造は毒に侵された稲を国会に持子も事実を示し指摘した。活字や言葉ではなく現物が一番解り、正造は福島でも汚染された魚を持ち込み国会で訴えたであろう。言葉のきれい事ではなく「現物」で」訴えるのも一つの方法であろう。

 

④「 ときに際する徳義」

正造は議員時代に議員の歳費を800円から2000円に上げる法案に反対したが、法案は成立した。反対した正造は値上げ分だけではなく、歳費全額を辞退した話しを紹介し、これは世に訴えるために正造は決意したが女中さんに借金し、最期まで借金を禁忌しながら逝った。つまり言葉ではなく「行動」で示したのである。 「頑張ろう日本!、絆」ではなく、少数乱立ではなくなぜ目的をもった一つになれないのか。「田中正造党」が必要ではないのか?と訴えた。」

 

⑤「学者や専門家を痛烈に批判」

原子力は「毒饅頭」を食べてしまつたということであると指摘、足尾の古河に対し住友は別子銅山に対策を採ったことを紹介、今後『谷中・水俣学』が必要と訴えた。それは、学者や専門家だけの学問であってはならず、被害者を含めた市民と共に学ぶ「実学」でなくてはならないと正造の言葉を紹介した。

 

⑥「文明の転換」

正造の 【真の文明は、山を荒さず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし】の言葉は、特に3・11以降再評価され使われているが、これは、ただ「自然が大事、命が大事」と言って居るのでなく、『お金で買えないものがあるんだ!』という事を訴えていると指摘した。そして、大事なのは『公共、協力、相愛』であり、特に『他を思う心』が大切であると説いた。 最後に「100年事業を進める会」副代表の関根学氏が閉会の挨拶で17時過ぎ9時半からの長い集会を終了した。

私は特にこの⑥に同感・感動した。 『お金で買えない大切さ』に全く同感である。「健康、命、信頼、友人・・・・・」本当に大事なものはお金えでは買えず、目にも見えないのである。しかし、多くの人がきりがなくお金や富を求め、億の財産があってもまだ脱税してまで金が欲しい人を、記者は「気の毒」だと思っている。そして、地球のネルギーも資源も無限ではなく、こんな「消費社会」を続ければ戦争が起き、やがえ地球は早々に破滅するであろう。国内外で「格差是正・富の再分配」こそ必要である。記者の幸せの尺度は『健康で心配なく三度の食事が摂れること』であり、それ以上、富みも地位も名誉も要らず、一部上場会社で敢えて定年まで平社員を通した。その代わり自分が「正しい」と思うことは自由に発言してきたため、会社はもとより、終いには労組からさえマークされた。それでも二人の子どもを育て、ぼろ家を建てることができ、これ以上何の必要があろうか。それ処か車に乗り、エアコンやパソコンを使い「平凡な生活」ができることの幸に気付くべきであろ。国内外にそれが出来ない人が山ほど居ることを知るべきである。「足るを知る」の言葉を先進国の人間は再考すべきである。

 

また、日本人には余りにもこの『他を思う心』が無さ過ぎる。日本人の戦争犠牲者310万人と言うが、それは日本自身が始めた「侵略戦争」の結果である。その日本の初めた侵略戦争で何の罪もない中国人の生体解剖、強制連行、 三光作戦・・・・などで1000万人、アジアで2000万人もの犠牲を強いたのである。それでも安倍首相は「侵略の定義はない」(1974年12月14日に 国際連合総会の第29回総会で侵略の定義に関する決議をされている)との否定発言は中国、韓国から批判されて当然である。 今の政治家に正造の「爪の垢でも煎じて飲め!」と言いたい。福島原発で高濃度汚染水が垂れ流されている中で、安倍首相は夏休みで「ゴルフ」とは呆れると同時に心から憤りを感じる。オリンピックやTTP処ではなく、何の緊張感も緊急性も感じていない。地下水を永久に汲み続け保管ることは不可でありやがて海に放出せざるを得ず、近い将来世界中から総スカンされるであろう。日本を教訓にドイツやイタリアが原発撤退を決めた中で、メルトダウンの原因も状況も解らず、使用済み核燃料の処分や場所もない状況で、原発再稼働や輸出を口にする安倍首相の精神は真面なのか!

私は宮澤賢治と田中正造、そして、自己保身より「正義・人権」を選んだ杉原千畝、正造の研究者でもあった林竹二に大きな影響を受けた。

尚、今後も下記のような集会・イベントがあり、詳細は下記「100年事業を進める会」をご参照下さい。

 

・【田中正造・未来への大行進】  10月13日10時~14時「惣宗寺」集合(「仮装」歓迎)

・【演劇・天地と共に~田中正造を生きる】10月12・13日17時(佐野市文化会館)

・【田中正造没後100事業を進める会】