【私が影響を受けた人たち】

【宮澤賢治】 

    
 私の「思想・価値観」の原点である。
 子どもの頃に出会った「雨ニモマケズ」は大きなショックだった。しかし、難解な賢治の作品より賢治の生き方に感動した。「ボンボンの道楽」との評価もあるが、そのボンボンのうちどれだけの人が「弱者」の立場に立っているだろうか。

 賢治は自宅の古着屋(質屋)の店番に立ち、金を借りに来る貧しい農民に「質草」に関係なく、必要なだけ貸す人だった。

 生前、賢治を理解したのは直ぐ下の最愛の妹トシだけだった。そのトシは賢治より先に逝き(24歳)、その時、賢治は押入に頭を突っ込み号泣したと言う。「永訣の朝」はその時の哀しみの詩である。生前の出版は詩集「春と修羅」(自費出版)と童話集「注文の多い料理店」の2冊だけだが売れなかった。作品は死後認められるようになったが、僅か37歳でトシを追うように逝った。賢治はその前日も病状悪化(結核)のなかで、尋ねてきた農民の「肥料相談」に応じていた。

(写真:新装版『宮澤賢治物語』学習研究社より)

『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』

 宮澤賢治「農民芸術概論綱要・序論」より 

【田中正造】

 

 名主の倅に生まれながら「世は下野の百姓なり」と、弾圧される貧しい農民のために闘った。

 足尾鉱毒や天皇直訴が有名だが、後に、正造は権力に弾圧される農民と共に水に浸たる「谷中村」で共に過ごした。また、殺人の濡れ衣や加波山事件等で4度も獄に繋がれ弾圧を受けた。正造の最期は支援者農家の庭先で倒れ73歳の生涯(胃癌)を閉じた。

 その時、手にしていた「頭陀(信玄)袋」には日記と筆立て、聖書と帝国憲法、そして数個の小石(農民を踏みつぶされる「小石」と考えていた)であった。 佐野市の有名な厄除け大師の「惣宗寺」で正造の本葬が行われた事や、墓が在ることは一般にはあまり知られていない。

 正造はまさに「井戸塀政治家」として人生を生き抜いた。いま時、こんな政治家は居まい。 賢治と同様、恵まれた環境に生まれながら、貧しき農民のために闘った賢治と共に私は尊敬している。

 (写真:『田中正造とその時代』栃木県立博物館・佐野市郷土博物館)

【ホセ・アルベルト・ムヒカ・コルダノ】

 

(西: José Alberto Mujica Cordano, 1935年5月20日 - )は、ウルグアイの政治家。2009年11月の大統領選挙に当選し、2010年3月1日より2015年2月末までウルグアイの第40代大統領を務めた。バスク系ウルグアイ人。愛称はエル・ペペ。報酬の大部分を財団に寄付し、月1000ドル強で生活している。その質素な暮らしから「世界で最も貧しい大統領」としても知られている。しかし、彼の『本当に貧しい人は、いくらあっても満足しない人』との指摘に私は同感である。

 2016年4月に来日し各地で講演した。私を含め先進国の人たちは『足を知る』の言葉を理解すべきであろう。地球の資源もエネルギーも無限ではなく、言うまでもなく先進国だけのものはでない。

 私の幸せの尺度『健康で心配なく三度の食事が摂れること』を是認されたように思う。普通の生活が出来ることが、どんなに幸せな事か気付くべきだ。消費が進まないと経済が回らない社会を見直すべきであり、「武器」は最大の完全消費である。

【杉原千畝】

 

 戦時中、ナチスから迫害されていたユダヤ人がリトアニアの日本領事館に日本通過「ビザ」を求めて集まって来た。領事代理だった千畝は本国にビザ発給の是非を再三問い合わせたが、ドイツと友好関係にある政府の回答は「否」であった。

 しかし、救いを求める多くのユダヤ人を目の前に見て、千畝は外務省解雇を覚悟で、人として「命と人権」を優先する事を決断しビザを発給した。 あの時代に千畝が事前に幸子夫人に相談し、また了解した夫人も立派だった。

 帰国後、予想通り千畝は外務省を実質解雇、 この「命のビザ」で命を救われたユダヤ人は家族を含め6千人余りという。 戦後、千畝に命を救われたユダヤ人が、千畝の所在を求め外務省を尋ねたが無視された。夫人が外務省と和解に応じた時、千畝は既に天国に召されていた。 私は立場や出世より「人として生きた千畝」を尊敬している。出身地の岐阜県八百津町の「人道の丘公園」【杉原千畝記念館】がある。(HP「思い出の写真」→「思い出の旅」に写真)

(写真:『自由への逃走~杉原ビザとユダヤ人』中日新聞社より)  

【深澤晟雄】

 

 冬は雪で陸の孤島となり病院も医師も居らず「乳児死亡率」日本一だった岩手県旧沢内村(現西和賀町)の町長に推された。彼は国にも県にも頼らず自らブルで道路を年間開通させた。そして、保健婦を養成・配置し予防医療に力を入れ医師を招き、高齢者と乳児の医療費を無料にし、厚生省から「違法」との圧力に、人間の命に格差があってはならない 。私は村民の命を守るのが使命、憲法には違反していない」と突っ張った。村長就任5年目の1962年には全国初の「年間乳児死亡率0」の金字塔を打ち立て、その後10回も死亡率0を実現した。村民の医療費は全国、県平均を遙かに下回り村は「最も不健康な村から最も健康な村」に生まれ変わった。しかし、自身の予防医療に及ばず食道癌と肺炎のため僅か59歳でこの世を去り多くの村民が悲しんだ。

『命見つめて心越し~「生命村長」深澤晟雄スタディー』(れんが書房新社)

『村長ありき~沢内村 深澤晟雄の生涯』 (れんが書房新社)

深澤晟雄 記念館岩手県和賀郡西和賀町沢内字太田2-68

【布施辰治】

 

 1880年宮城県蛇田村(現・石巻市)の農家に生まれ、明治法律学校(現在の明治大学)で学び判事検事登用試験に合格、検事代理に就いたが「心中未遂の被告に死刑求刑はできない」と1年で辞し弁護士となる。刑事事件の他、多くの争議事件や廃娼運動、普選運動、関東大震災時の朝鮮虐殺の当局への抗議、朝鮮独立運動犠牲者の弁護大韓民国建国勲章受章)や、三鷹事件では最後まで竹内景助の無実を信じた正義の弁護士であった。

 当時、非合法の日本共産党の弁護にも立ち、1929年には弁護活動の「逸脱」を理由に東京控訴院の懲戒裁判所に起訴され、1932年に大審院(現在の最高裁判所)の判決によって弁護士資格が剥奪(戦後回復)された。さらに翌年には所属していた日本労農弁護士団が一斉検挙され、布施は被告団のうちただ1人「治安維持法」違反で実刑判決を受け、千葉刑務所に1年余り下獄した体験などもある。「自由法曹団」の結成に尽力し名誉顧問にも就いている。座右の銘である『生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために』を貫き73歳で亡くなった。(写真は石巻市に在る「顕彰碑」で)

【林竹二】

 

 東北大学教育学部長から独立した国立宮城教育大学の初代学長だが、無学な私は竹二を正造の研究者として出会い、その後、教育者と知った。竹二は定年退官後に「私は今まで本当の教育を知らなかった」と語り、その後、各地の荒れた高校や定時制高校などの講演に回り、何時も奥様とご一緒だったという。

 竹二の講演を聴くツッパリ生徒たちは、みるみる間に竹二の話に引き込まれ真顔になっていく、その「写真集」等も発行されている。また、障がい者教育にも非常に熱心であった。残念ながら私は生前に話しをお聴きする事ができなかった。多くの本をお書きだが『いま、人間として』が記憶に深く残っている。この本はある重複重症障がい生徒の「教育による変化」が記録されている。竹二が「教育は変わること」と言っていた意味が解る。

 私は遠回り(結果は直ぐ出ない)でも、命と健康の次ぎに「教育」が大切だと思う。しかし、教育は宗教と共に「諸刃の剣」であり、扱いを間違うととんでもない社会や武器にもなる。

(写真:『問いつづけて~教育とはなんだろうか』径書房より)